価値
テントの中に、松明の油の焼ける匂いがする。
カウティスは瞬時に答えられなかった。
仲間の命と自分の命を秤にかけたからではない。
ただ、死ねばセルフィーネには二度と会えない、という考えが過ったからだ。
『 いつか、また会える 』
彼女はそう言ったのに、ここで自分が命を落とせば……。
カウティスの逡巡を、リィドウォルは彼が己の命を惜しんだと受け取った。
「それで良い」
満足気に頷いて、イルウェンに剣を下ろさせる。
下を向いた切っ先から、カウティスの血が地面に滴り落ちた。
刃の緊張感から解放され、カウティスは荒く呼吸をする。
その顎をリィドウォルが掴み、カウティスの顔を覗き込む。
傷口に爪が食い込み、ズクズクと痛みを増した。
「そなたの纏う魔力は、加護持ちの中でも特別だ。このようなものは見たことがない。水の精霊が眠っているというのが信じられぬ」
彼の目はカウティスの方を向いていたが、別の物を見ていた。
「その命、大事にせよ、カウティス。そなたはの命には、価値がある」
リィドウォルの言う“価値”が、酷く耳障りに響いた。
リィドウォルが、カウティスの顎から手を離して立ち上がる。
「辺境警備ならば、民間人と変わらぬ。全員放してやれ」
リィドウォルがカウティスから目を離さずに言う。
「王子は捕虜として連れ帰りますか」
イルウェンが淡々と言い、再び憎しみの混じった目を向けた。
“捕虜”という言葉に、カウティスの心臓の音が大きくなる。
リィドウォルは舐めるように、カウティスの頭から膝をついた足まで眺めると言った。
「いや。ザクバラに連れ帰るには、
焚き火が風に揺れる。
話を聞いていたラードが、カウティスの顎の左下に薄く残る傷痕を見て、深く溜め息をついた。
「陛下やマレリィ様はご存知なんですか?」
「父上はご存知だ。……おそらく、それで会談の時期に南部へ行けと仰ったのだろう」
何か思うところがあって、二人を接触させない方が良いと思ったのかもしれない。
だが、まさか西部で再び二人が会うことになるとは、想像していなかっただろう。
「……明日、無事に話し合いが出来ると良いが」
カウティスが呟く。
焚き火が大きく爆ぜた。
セルフィーネは川原に佇み、中洲の辺りを見つめていた。
今夜も月が、美しく青白い光を放っている。
「水の精霊様!」
上擦った声で呼ばれ振り返れば、疎らな木立の間を駆け出してきたマルクが見える。
緑のローブと栗色の髪を乱して、川原のセルフィーネまで駆け寄る。
「駄目です、駄目です! カウティス王子とお約束なさったでしょう?」
セルフィーネは目を瞬く。
マルクには水の精霊の魔力しか見えないので、彼女が不思議そうにしているのは気付かない。
「もう、無茶なことはしないで下さい!」
必死に止めようとする姿を見て、マルクが何に慌てているのか分かった。
彼は、セルフィーネがまた、精霊の中に潜ろうとしていると勘違いしたのだ。
「何もしない。約束は守る」
セルフィーネは言う。
不明瞭ながら、セルフィーネの言葉を聞いて、マルクが大きく安堵の息を吐いた。
「驚きましたぁ……。王子のいない間に、行ってしまわれるのかと……」
「行かない。私は嘘はつかない」
「……そうでした。すみません、私の早とちりです」
精霊は嘘をつけない。
魔術士にとって、初歩的な事実を忘れる程焦っていた自分が恥ずかしく、マルクは息を整えながら栗毛の頭を掻く。
「……でも、それならここで何をなさっていたのですか」
マルクが顔を上げると、水の精霊の魔力がゆらゆらと不安定に揺れる。
「……狂った
マルクは、自分の問い掛けに水の精霊が答えてくれる事にもドキドキしたが、それ以上に、あれ程傷付いた
こうやって、いつも我が国は守られていたのかと感じ入り、それと同時に心配になる。
いつかこの心優しい精霊は、他の何かの為に、全てを投げ出してしまうのではないかと。
思わずマルクは呟く。
「……ご自分のことも、大切になさって下さいね」
セルフィーネは驚いて、激しく目を瞬いた。
水の精霊は、魔法契約さえ守っていれば自然に消えることはないし、消耗しても月光さえ浴びていれば、魔力は徐々に回復する。
それなのに、ここにも自分を心配そうに見つめる者がいる。
しかも、
世界に漂う魔力だけを見て、精霊は使われるためにあると言い放つのが、魔法や魔術を使う者だと思っていた。
「……そなたは、私の汚れた
過去に何度も言われた言葉だ。
マルクは目を剥く。
「まさか!……申し訳ありませんが、確かに中洲では……恐ろしいと思いました。でも、王子と水の精霊様を見ていると、何というか……」
辺境で、不器用に、一途に水の精霊を待ち続けていた王子を見てきた。
王子と再会出来て、水の精霊の美しい魔力が、空いっぱいに輝くのを見た。
ベリウム川で、全力で水の精霊を助け上げた王子と、彼の胸に収まってふるふると揺れていた
そのどれもが、マルクには尊い価値のあるものにしか思えなかった。
マルクは言葉に詰まる。
どう表現すれば良いか分からなくて、自分の気持ちに一番近い言葉で伝えた。
「私は、その……、お二人に、幸せになって頂きたくて」
セルフィーネは両手で胸を押さえる。
身体を温かいものに包まれたような、ふわふわとした気持ちなのに、胸が苦しい。
カウティスと一緒にいられて、幸せだ。
でも、他の誰かに幸せを願われることが、こんなに温かなことだとは知らなかった。
まるで、自分の奥底から、仄かな光が溢れ出てくるようだ。
「水の精霊様?」
黙ってしまったセルフィーネに、おずおずとマルクが声を掛けた。
魔力はここに留まっているし、とても美しく揺蕩っていて、何かあった訳ではなさそうだが、黙ってしまったということは差し出がましい事を喋りすぎたのだろうか。
冷や汗が出てきたマルクに、セルフィーネの柔らかく小さな声が届いた。
「ありがとう……マルク」
「はっ……はいぃ……」
名を呼ばれ、頭の先まで血が上ったマルクは、倒れそうになるのを堪えてなんとか返事を絞り出したのだった。
翌日、午前の一の鐘が鳴る前に、話し合いに参加する残りの者達がイサイ村に到着した。
「ザクバラ国の代表は、魔眼持ちとの事ですので、念の為これを」
マルクに渡されて、全員が防護符を身に着けた。
午前の一の鐘と共に、ザクバラ国の代表団が到着する。
リィドウォルを代表に、彼の護衛騎士イルウェン、魔術士、堤防建造の職人、作業員代表、兵士長という、ネイクーン側と同じ構成だ。
「お久しぶりです。カウティス王子」
公的な場面なので、畏まった調子でリィドウォルが立礼する。
「……リィドウォル卿。今日は互いに有意義な時間となるよう、力を尽くしましょう」
同じように、上辺を整えてカウティスが応える。
リィドウォルが、カウティスの頭の先から足先までを舐めるように見て、目を細めた。
イサイ村での一回目の話し合いは、互いの国の復興の為に、それぞれの思惑や蟠りは一旦覆い隠し、時折険悪な瞬間はあったものの、無事に終える。
堤防は、魔術士による土の魔術具を併用して建造される。
両国共に初めての試みだ。
建造技術の高いザクバラと、魔術具作りに長けたネイクーンが、共同で建造することになっている。
技術面や魔術具に関する事は、専門の者同士が話し合う。
ただ、問題は多く残っている。
最大の問題は、狂った精霊がいる付近で、ザクバラ側に魔獣の出現が減らない事だ。
氾濫が多く起こるあの辺りが第一の着工予定だったが、このままでは作業員を向かわせることが出来ない。
しかし、精霊を鎮める手がないのが現状で、まずは出現の少ないイサイ村寄りの場所から着工することになった。
ネイクーン側としては望んでいた事だったが、すんなりと了承したリィドウォルが奇妙に思えた。
全てを終え、ザクバラ国の代表団がイサイ村を後にする。
挨拶をするため近寄った、カウティスの肩の辺りに、唐突にリィドウォルが顔を寄せた。
互いのマントが擦れ合い、ラードとリィドウォルの護衛騎士イルウェンが、同時に剣の柄を掴む。
周囲の兵も緊張を走らせる中、カウティスが手を上げて止めた。
「素晴らしい魔力だな、カウティスよ」
リィドウォルは深呼吸するように、カウティスの側で鼻から長く息を吸い、楽しそうに笑う。
「水の精霊が、どれだけそなたに執着しているか分かるぞ」
カウティスが警戒心を露わにして、青空色の瞳を細めた。
「……執着しているのは、伯父上の方では?」
以前も、今回も、リィドウォルがカウティスでなく、カウティスの周りにあるという、水の精霊の魔力を見ているのは分かっている。
その獲物を狙う蛇のような目に、カウティスは嫌悪を感じる。
「水の精霊は、ネイクーンのもの。どれ程執着しようと、決して届かないぞ」
二人は間近で視線を合わせた。
リィドウォルが、一歩離れてカウティスの顔を見た。
「少しは良い面構えになったな」
薄く笑い、リィドウォルは一礼する。
「ではまた、次の機会に」
彼は踵を返し、代表団と去って行った。
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