願い事

土の季節前期月、三週一日。

式典も終わり、カウティスは今日から再び西部へ赴く。




今朝もカウティスは、いつも通り、日の出の鐘が鳴る前に早朝鍛練を行っていた。

王城にいる間しか、泉には来られない。

泉以外でもセルフィーネには会えるが、この場所はカウティスにとって特別な場所だ。


袖で顔の汗を拭きながら泉に近付くと、セルフィーネが微笑んで佇んでいる。

「おはよう」

「おはよう、カウティス」

その何気ないやり取りが、嬉しい。


カウティスの緩めたシャツの首元に、銀の細い鎖を見つけて、セルフィーネが尋ねた。

「それは?」

「ああ、前の小瓶は割れてしまったから、新しい物を用意した」

言って細い鎖を引っ張り出す。

鎖の下には、細い小さなガラスの小瓶が下がっている。

カウティスは小瓶の口を開けて、泉の水を入れる。

小瓶の口元は透明だが、底に向けて青に変化していく、美しい色合いの小瓶だった。

「これに入れられて、出来るだけ質の良い魔石が欲しいと言ったら、魔術士館で丁度良い物がなかなかなくてな。昨日、ようやく用意できた」


魔術師長ミルガンが、条件に合うものを個人的に持っていたらしく、何故必要なのかと問われて説明したら、生暖かい微笑みで譲ってくれた。

これで出発に間に合うので、あの微笑みは見なかったことにした。


「気に入ったか?」

セルフィーネが小瓶を見つめているので聞くと、彼女はコクリと頷き、頬をふわりと染め、とても嬉しそうに微笑む。

「これでまた、そなたの胸にいられる」

その言葉と笑顔に、カウティスは息が詰まり、手の甲で口元を押さえて横を向く。

頬と耳に、赤みが差している。

「カウティス?」

「……最近のセルフィーネは、可愛すぎて困る」


知り合って暫くのセルフィーネの印象は、ずっと年上で、どちらかといえば近寄り難い美しい女性だった。

それが感情を表すようになってから、少しずつ印象が柔らかくなり、より近しい存在になった。

自分の年齢が上がったこともあるが、今では可愛らしいところや、危ういもろさまで見えるようになって、この手で守ってやらなければと思ってしまう。


「……可愛い? 私が?」

「可愛いよ、…………とても」

視線だけ戻してカウティスが言う。

セルフィーネが目を瞬き、より頬が桃色に染まる。

そんなことを言われるとは、想像もしたことがない。

「……それは、カウティスを困らせることなのか?」

カウティスは口元に当てていた左手を、セルフィーネの頬に伸ばし、眉を下げた。

青空色の瞳は、微かに熱を帯びている。

「困るな。そなたにもっと、触れたくなってしまうだろ」

セルフィーネは、そんなカウティスを見つめる。


アナリナの身体を借りて“触れる”という感触を知ってから、カウティスが頬や手に触れてくれる時、その温かさを感じられるような気がして、セルフィーネは嬉しかった。

人間同士のように実際には触れ合えなくても、その心地よさだけは彼女のものだ。

その心地良さを、もっと感じたいと思う気持ちが、日に日に大きくなっていく自分に戸惑う。

カウティスが自分に『触れたい』と言ってくれると、胸の奥が疼いた。

これはどういうものなのだろう。

カウティスに伝えても良いのだろうか。


セルフィーネは、小さく呟く。

「……すまない。困らせても、私はもっと、カウティスに触れて欲しい」

彼女はカウティスの左手に寄せるように首を少し傾けて、揺れる紫水晶の瞳で彼を見た。

「……っ」

カウティスは熱い息を詰める。

「……そういう願い事は、ズルい……」

小声で絞り出し、火照る顔を寄せた。





王城で、聖女アナリナは王に謁見していた。


オルセールス神聖王国からの知らせで、アナリナは土の季節の終わりに、ネイクーン王国を出ることが決まった。

次に行く先は、南部の砂漠を挟んで隣のフルデルデ王国だ。

国境を越すまでは、聖女一行にネイクーンから護衛を付けてもらうため、その要請を兼ねての謁見だ。

要請だけなら、オルセールス神聖王国からの親書を持って神官か司祭が訪れてもいいのだが、アナリナは王に願い事があってやってきた。


「聖女には、我が国の民だけでなく、息子達も助けて貰った。感謝してもしきれぬ」

王が感慨深く、長い息を吐く。

「我が国を出るまでは騎士を派遣するゆえ、護衛等の事は何も心配いらぬ」

王はカウティスと同じ、青空色の瞳を細めて頷くと、宰相セシウムに指示を出す。

「他にも必要な物があればご用意致しますので、何なりと仰って下さい」

王と、続く宰相の言葉に、アナリナと女神官は頭を下げて感謝を述べた。



「王様に、お願いがございます」

必要なやり取りが全て終わり、謁見が終了かという時、突然アナリナが言った。

アナリナが個人的に喋ると聞いていなかった女神官は、眉を寄せる。

「お願い? ほう。何だ?」

王が身を乗り出す。

この聖女は突拍子もない事を言いそうだと思っているようで、興味津々だ。


「以前、個人的に褒賞を下さると言って下さいましたよね?」

アナリナの言葉に、王は頷く。

「覚えているぞ。お茶会の時だな。何か欲しい物でもできたのか?」

アナリナは青銀の髪を揺らして頷き、ニッコリと笑う。

「はい。来月、収穫祭がありますよね。大きな祭事の時に、ちょうど城下にいることはそうないのです。ぜひ、お忍びで城下街の祭りを回らせて下さいませ」

聖女は一つの国に入ると、その国のあちこちに巡教する為、行事の時にその街にいるとは限らない。


お忍びで出掛けると聞いて、女神官は渋い顔をしているが、アナリナは知らん顔だ。

「構わんが、それでは褒賞と言えまい」

王は困惑顔だ。

アナリナは両手をパチンと合わせる。

「ですから、お忍びで出歩く為に、特別な護衛を一人、お貸し願いたいのです」

「特別?」

王とセシウムが顔を見合わせる。


アナリナは黒曜の瞳を細め、笑みを深めた。

「はい。カウティス王子を、一日お貸し下さい」





カウティスとラードは早朝に王城を出て、前回宿を取った街の神殿に寄り、城下の神殿からの手紙を届けた。

後日、城下の神殿と、この街の神殿から一人ずつ、太陽神の神官が拠点に派遣されることになっている。



二人は日の入りの鐘が鳴る前に、西部国境の拠点の村跡に辿り着いた。

マルクや派遣されている兵士達と合流し、あらためて、王太子の命が助かったことを喜び合った。



「まだ兵士の撤退が終わってないのか?」

旅装を解きながら、カウティスがマルクに問う。

今月の一週、遅れても二週の半ばで、全撤退を終えている予定だったはずだ。

だが、さっき見た感じでは、この拠点に残っている兵士の数がかなり多い。

「それが、ザクバラ側の兵士の撤退が進まないのです」

マルクが、難しい顔をして言う。


休戦協定が結ばれ、ネイクーン王国とザクバラ国、両国でほぼ当時に撤退が始まった。

しかし、ザクバラ国側の国境地帯には、魔獣の出現が跡を絶たず、討伐のに兵士が撤退することが出来ないようだった。

ザクバラ側に兵士が残っているのに、ネイクーン側が全て撤退しては、もしも何かあった時に対処出来ない。

それで、兵士をある程度残しているらしい。

協定を結んだからには、もしものことがあってはならないのだが、両国の関係は理屈では収まらない。


「確かに、魔獣が多いのです。川を挟んで、こちら側にも吼声が聞こえる時があるくらいで」

マルクが溜め息交じりに言った。

カウティスは眉を寄せる。

ネイクーン王国側には、魔獣は出ない。

以前は確かに時々出現したようだが、セルフィーネが西部に留まってからは、一度も報告が上がっていないようだ。


エルノートが以前危惧していた。

“水の精霊が西部に留まっていれば、国境で恩恵の差が出るのではないか”と。

まさに、それがこの差ではないだろうか。


「水の精霊の護りなしで、ザクバラ側の魔獣の出現を減らすには、どうすればいいのだろう」

「……狂った精霊達同胞を、鎮める以外にはない」

カウティスの呟きに、胸元から声が返ってきた。

「セルフィーネ」

左の胸元に、小さなセルフィーネが現れていて、悲し気に目を伏せている。

「精霊が鎮まれば、魔獣は出現出来なくなる。長い時間をかけて精霊が鎮まるのを待つか、……私が彼等の中に留まり、鎮めるか、だ」

「駄目だ!」

カウティスが強い口調で即刻止めて、溜め息を付く。

会話が聞こえるマルクも、険しい表情だ。

ラードは口を開かず、様子を見ている。


「セルフィーネ、それは絶対に駄目だ。いいな?」

セルフィーネは黙って静かに頷く。

「とにかく、明後日の会談で、ザクバラ側の状況を詳しく聞いてからだ」



明後日、ザクバラ国側の代表と、会談が行われることになっている。

今後の復興に向けた、第一回目の話し合いだ。

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