水の精霊の言葉

日の出の鐘が鳴る前に、訓練場でカウティスはひと通り身体を動かして、泉に向かう。


小さな庭園は、今日も空気が澄んでいる。

白い石畳には、風に散った数枚の花弁が落ちているだけで、少しの汚れもなく整えられていた。

花壇には、淡い色の小さな花がたくさん咲いていて、可憐な姿を微風に揺らしている。


以前、この庭園を世話していた庭師のセブは、高齢のせいで足腰が随分弱くなった。

小さな庭園とはいえ、毎日の世話は難しくなり、今はセブの息子が主に管理している。

セブは今でも元気に管理棟で花の苗を世話したり、時々薬師に交じって、薬草園で手入れを手伝ったりしている。




カウティスは、久し振りに右手で剣を握り、型をなぞる。

右手で長剣を握るのは、二週ぶりだ。

それだけの期間が空いたのに、アナリナの神聖魔法のおかげで、剣を握る感触は全く違和感がない。

怪我など全くしていなかったかのようだ。


剣を振り始めると集中していて、ひと通り終わる頃には、いつの間にか泉にセルフィーネが佇んでいた。

今朝も、細く長い髪をサラサラと揺らし、白い肌を滑るドレスの襞が涼し気だ。

「おはよう」

「おはよう、カウティス。右手は治してもらったようだな」

袖で汗を拭きながら泉の縁に近付くカウティスに、セルフィーネが微笑んで言う。

カウティスは握っていた剣の柄を離し、右手を握ったり開いたりして見せる。

「この通り、完治した」

セルフィーネが軽く首を傾げ、右手を指す。

「そのような痕はなかった。傷になったのか?」

「いや、火傷が治ったら痣が出来ていて……」

アナリナは神聖魔法で治療して、傷が残った例はないと言っていた。

やはり、これは、痣ということで間違いないのだろう。


「……アナリナが、月光神の聖紋ではないかと言うのだが、セルフィーネはどう思う?」

そんな訳はないと思う反面、もしそうだったらと、漠然とした不安もあった。

聖紋が刻まれたとなれば、身分や国籍に関係なく、その所属はオルセールス神聖王国に移されるのがこの世界の決まりだ。

そうなれば、ネイクーン王国から離されることになる。


カウティスが差し出し、広げた右掌を、セルフィーネの白く細い指がなぞる。

カウティスは、俯き気味に掌を見ている彼女の顔を眺める。

下を向いた目の上で、長いまつ毛が揺れているのを見て、広げて見せている右手を、つい彼女の頬へ伸ばす。

「それでは掌が見えない」

セルフィーネはくすぐったいというように、小さく肩を竦めて笑う。

「少しだけ」

カウティスがそう言って手を離さないので、セルフィーネはそっと目を閉じる。


「聖紋と言っていいのか分からないが、……極僅かに、月光神様の御力を感じるな。とても、心地良い……」

サラサラと流れていた髪がふわりと柔らかく広がり、彼女がうっとりと呟くので、カウティスはサッと右手を引く。

セルフィーネが驚いて、紫水晶の目を見開くと、カウティスは代わりに左手を差し出して、彼女の反対側の頬に添えた。

「俺が触れているのに、他の者の気配を感じるなんて嫌だ」

言っておいて耳を赤くするので、セルフィーネは楽しそうに笑った。



セルフィーネに『月光神様の御力を感じる』と言われ、カウティスの不安はくすぶったままだった。

しかし、数日経ってもオルセールス神聖王国から知らせは届かず、やはり杞憂であったかと安堵した。


誰かに同じような勘違いをされるのが嫌で、普段は、なめした魔獣の皮で作った指のない手袋を着けた。




土の季節前期月、二週三日。

王城の奥の王座の間で、国家式典が行われている。


王の椅子と王妃の椅子の間に、小さな台座があり、細かい彫刻が施されたガラスの水盆が置かれてある。

水盆には小さな水柱が立ち、そこには小さなセルフィーネが涼し気に佇んでいた。


王は、王座から離れて水盆の前に立っている。

その後ろには側妃マレリィ、王太子エルノート、カウティス、セイジェが続く。

更に後ろに宰相と魔術師長、騎士団長と続き、貴族院の面々も並ぶ。

皆、式典用の礼服で、厳かな雰囲気が漂う。


十三年間、水の精霊が不在の間まま行われてきた式典だった。

十四年目にして、ようやく水盆に水柱が立つのを見て、貴族院の面々も安堵の息を零す。

三人の王子もまた、成人する前に水の精霊が眠った為に、セルフィーネがいない式典しか経験がなく、今日は身が引き締まる思いだった。



「水の精霊よ。今年の火の季節も、民達は乾くことなく、国は潤い、平穏無事に土の季節を迎えることが出来た。礼を言う」

王の言葉に、後ろに続く人々が立礼する。

例年通りならば、セルフィーネが『私は己の役割を果たしているに過ぎない。あらためて礼は必要ない』と、王と恒例の言葉を交わすだけだ。


セルフィーネは壇上から人々を見渡す。

セルフィーネがフォグマ山で眠りについてから、十三年と季節三つ分経つ。

水の精霊にとっての十三年半は、苦しくもあったがそれ程に長くは感じなかった。

だが、人間のその時間は、精霊の比ではない。

見知った者は皆、歳を重ねて見た目も変わり、人によっては亡くなって、この場に姿はない。

その長い時間、人間達は自分達で苦難を乗り越えてきた。


セルフィーネは目を閉じて思う。

本当は、最初にネイクーン王国に落とされた時のように、水の精霊は水源さえ保てば良いのかもしれない。

人間達は自分達の力だけで、乗り越え、発展し、進化していく事ができるのではないだろうか。

それでも、水の精霊のおかげで無事に過ごせたと礼を言う。

ネイクーンに水の精霊がいることを、喜んでくれるのだ。

―――もしかしたら、礼を言わねばならないのは、自分の方ではなかろうか。



なかなか口を開かないセルフィーネに、王が訝しげにそっと上目で見て、小声で呼ぶ。

「セルフィーネ?」

それで、彼女は目を開け、躊躇いながら例年と違う言葉を口にした。

「ネイクーン王国の民よ……を大切にしてくれて……とても、感謝している」

セルフィーネの声が聞こえる人間は限られている。

それでも、皆に伝えるつもりで話した。

そんなことは初めてで、少し怖いような、恥ずかしいような気分で、短い言葉であるのに、全て言い終わる前に彼女は目線を下げた。

白い両手を胸の前で握り締める。


静まっている王座の間で、もうここから消えて西部に戻ろうかとセルフィーネが考えた時、カウティスの声がした。

「父上、皆に水の精霊様の言葉を伝えてはいかがですか」

セルフィーネが目を瞬いて、顔を上げた。

「そうしよう」

王が笑みを浮かべ、大きく頷く。

緋色のマントを翻して振り返ると、朗々とした声で皆に言った。

「皆、聞け。水の精霊が、我等が水と、水の精霊を大切にしていることを『とても感謝している』と述べておるぞ」

水の精霊の声が直接聞こえない者達は、王の言葉を聞いて歓喜の声を上げる。


セルフィーネはカウティスを見た。

カウティスは微笑んで彼女を見つめ、小さく頷く。

彼女もまた、頬を染めて微笑んだ。





オルセールス神殿の祭壇の間では、聖女アナリナが長椅子に座っている。

聖水を作るために、清めた水に祈りを込めて神聖力を流していたのだが、どうも集中できずに休憩中だ。


ふう、と溜め息を付いて、月光神の像を見上げた。

像の後ろの聖紋を見て、再び溜め息をつく。

あれから一週過ぎたが、変わったことはない。

一国の王子から聖職者が出たとなれば、城下の神殿には何かしら情報が入るだろうと思っているのだが、何の知らせもなかった。

それともやはり、カウティスの言うとおり、聖紋だと思ったのは間違いだったのだろうか。



カウティスとセルフィーネの関係は特別だ。

ネイクーン王国に入る前に、ネイクーンの第二王子が水の精霊の寵愛を受けていると、噂を耳にしたことはあった。

しかし、相手は精霊だ。

水の精霊の人形ひとがたがとても美しいらしいとも聞いていたので、きっと第二王子が一方的に恋い慕っているのだろうと思っていたのに、カウティスの纏う魔力は慈愛に満ちていて驚いた。

人間と精霊が想い合ってるなんてこの目で見るまでは信じられなかったが、二人を見ていると、こういう関係があってもいいと思った。

その反面、カウティスが歳を取って死んでしまうまで関係は続けていけるのか、心配でもある。


いつの間にかカウティスを好きになって、それでも自分は交われない立場だと分かっている。

セルフィーネのことも好きだ。

だから何かしようと思ってもなかった。


だが、カウティスが神聖王国籍になれば、話は変わる。

ネイクーン王国から離れられないセルフィーネと、ネイクーン王国を離れるカウティスは共にいられなくなる。

それならば、自分とカウティスが共に生きることは、可能ではないのか。

そんなことばかり、ぐるぐると考えてしまうのだった。




また溜め息をついた時、女神官がオルセールス神聖王国からの知らせを持って入って来た。

もしかして、カウティスの召喚についてかもしれない。

受け取り、高鳴る鼓動を抑えて、アナリナは知らせの白い紙を開く。


そして、その文面を見て、顔を歪めて笑った。

「ほら、現実を見なさい、アナリナ」

自分に対して呟く。



オルセールス神聖王国からの知らせには、聖女を隣国フルデルデ王国に移す旨が記されてあった。

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