魔力暴走
カウティスは階段を駆け下り、内庭園を通る。
ちょうどその時、日の入りの鐘が鳴り、西の空で太陽が月に替わった。
土の季節に入ったばかりで、月が出ても空はまだ十分明るかった。
濃い花の香りが漂う内庭園を抜け、衛兵に驚かれながら、温室の横を通る。
今朝のセルフィーネの、苦しげに歪んだ顔が思い浮かぶ。
セルフィーネが精霊であることを受け入れながらも、触れ合うことが出来ないもどかしさを、ずっと感じていた。
彼女もまた、同じように感じていたはずなのだ。
それなのに『そなたと違って人間だから』と、切り捨てる様な言い方をした自分を悔いる。
彼女が向けてくれる情を、いつしか当たり前に自分のものだと思っていた傲慢さが、情けなく、腹立たしかった。
大樹を過ぎ、薄暗い花壇の小道を抜けると、小さな泉が見える。
空は少しずつ薄闇に変わり、月が輝きを増し始めた。
庭園に着いたカウティスは、息を整えながら、マントを揺らして泉にゆっくりと近付く。
泉の水は今日も恐ろしく澄んでいて、月の光でさえ、泉の底のタイルまではっきりと見えた。
「セルフィーネ」
カウティスは、水面に月光を受けた泉に向かって、彼女の名を呼ぶ。
一拍おいて、水面がパシャリと小さく波打った。
セルフィーネは返事はするが、姿を現さないつもりのようだ。
「すまない。そなたを傷付けた。……俺は、妬いていたんだ」
カウティスは屈み、ひんやりとした泉の水に、左手をそっと浸す。
昨日は、結局あの後右手を治療してもらうことにならず、包帯を巻いたままだった。
随分経ってから、水柱が立ち上がる小さな水音と共に、頭上から静かな声が降ってきた。
「“妬く”とは、どういうものだ?」
カウティスが身体を起こすと、泉にセルフィーネが立っていた。
伏せ目がちで笑顔はなく、水色の長い髪先は、腰の辺りで僅かに揺れている。
カウティスは、目線を合わせないままのセルフィーネを見つめる。
「セルフィーネが、俺以外に微笑みかけるのが、嫌だったんだ。俺以外にその名を呼ばれるのも我慢できなかった。…………そなたは、俺だけの特別なものだと思っていたから」
告白して、自分でも子供じみた独占欲だと思った。
噴水のサラサラという音だけが、暫く響いていた。
唐突に、小さな声でセルフィーネが言った。
「アナリナの唇に、カウティスが口付けようとした時の気持ちは“
カウティスが目を瞬く。
セルフィーネは視線を下にしたままで、その表情はよく見えない。
「式典で、そなたが令嬢と踊っていた時の、胸の痛みは、そういうものか?」
「セルフィーネ」
セルフィーネが顔を上げて、苦しそうに眉根を寄せてカウティスを見た。
胸を押さえ、紫水晶の瞳が大きく揺れる。
「カウティスに誰も触って欲しくないと思うのは、私は妬いているのか? 人間は皆、カウティスに触れられるのに、私は触れられない。この痛みは何?」
『俺は、そなたと違って人間なんだから……』
セルフィーネは両の手を握り締める。
泉の噴水がリズムを崩した。
不自然に水を吹き出し、バチャバチャと激しく水音を立てる。
「セルフィーネ!」
カウティスが泉の縁に足を掛け、彼女に手を伸ばす。
セルフィーネは強く頭を振った。
水色の長い髪が広がる。
「カウティスは分かってない。ずっと前から、いつだってカウティスだけが私の特別だ。目が合って嬉しいのも、ずっと側にいたいのも」
彼女が目をきつく閉じる。
「名を呼ばれて胸が苦しいのも、カウティスだけなのに! 他の誰が名を呼んでも、カウティスだけが、私のっ…!」
セルフィーネが息を詰めた。
その時、王城中の井戸が吹き出し、水瓶が揺れ、いたる所の水差しから水が溢れた。
湯船から湯が流れ、水の入ったグラスが割れる。
泉の水も大きく揺れ、縁から溢れた。
様々な場所で悲鳴が上がる中、カウティスは縁を乗り越えて泉に入り、セルフィーネの顔に手を添える。
「セルフィーネ、落ち着け。セルフィーネ!」
セルフィーネが身体を震わせる。
「はっ……あ……」
絶え絶えに息が漏れ、目が大きく見開かれた。
長い髪が波打ち、揺れる紫水晶の瞳の奥に、西部のベリウム川で見た時のような、赤黒い靄が滲む。
カウティスは息を呑んだ。
感情の昂りから、セルフィーネが
あの、赤黒い泥のような姿を思い出し、カウティスは、触れることが出来ない彼女の身体に、両腕を回し水柱を抱き締めた。
「セルフィーネ、駄目だ!」
包帯を巻いた右手が、透き通るセルフィーネの右肩の下に触れた。
ビクリと彼女が大きく身体を震わせると、波打っていた髪が落ち、静かに揺れる。
泉の水の揺れも徐々に収まり、細い噴水がサラサラと涼し気な音を立て始めた。
「……セルフィーネ」
カウティスは、濡れそぼった身体をそっと離し、セルフィーネの顔を覗き込む。
呆然とするセルフィーネの瞳に、もう靄はない。
自分がどうなろうとしていたのか理解し、セルフィーネの顔が歪む。
「ごめ……なさい」
細い身体を更に小さくして、両手で顔を覆う。
「俺のせいだ。俺がセルフィーネを不安にさせた」
カウティスの骨ばった手が、彼女の頬を大事そうに撫でた。
額を寄せ、ゆっくりと語りかける。
「すまない、そなたが俺を特別に思ってくれてる事を、もっと大切にしなければならなかったのに」
カウティスは長く息を吐き出す。
「……好きだ、セルフィーネ。そなただけだ、俺をこんな気持ちにさせるのは」
セルフィーネがゆっくりと両手を下ろし、潤んだ瞳でカウティスを見上げる。
カウティスは唇を重ね、彼女はそっと瞳を閉じた。
翌日、王の執務室で、カウティスは昨夜の騒動の件で、王に絞られていた。
「全く、そなたは何をやっているのか」
「…………申し訳ありません」
カウティスにはそれしか言えない。
黒の騎士服で直立し、大人しく小言を聞いている。
昨夜は事情が分かるまでは騒ぎになったが、幸い怪我人は出ておらず、大事には至らなかった。
しかし、王城全体を騒がせてしまったことは違いない。
エルノートが、磨かれた銀の水盆を持って来て、カウティスの前の、執務机の上に置いた。
「何だ?」
椅子に座っている王が訝しげに見ると、水盆には俯き加減に佇むセルフィーネがいる。
「カウティスと一緒に、叱られるそうですよ」
笑いを堪えている様子で、エルノートが言う。
「セルフィーネ、そなたが一緒に叱られなくてもいいだろう」
カウティスが、水盆の後ろから小声で言う。
「私が暴走して迷惑をかけたのだ。私こそが叱られねば」
セルフィーネが生真面目に言い、申し訳なさそうに、小さく項垂れて叱られるのを待っているので、王は毒気を抜かれた。
「もう良いわ。次から痴話喧嘩は王城の外でやってくれ。分かったか、セルフィーネ」
王に名を呼ばれて、セルフィーネが弾かれたように顔を上げ、目を瞬く。
王はフンと鼻を鳴らして腕を組み、カウティスを睨む。
「もう、良いのであろう?」
「はい」
セルフィーネは振り返って、カウティスを見上げる。
カウティスが頷くと、彼女は頬を染め、花が綻ぶように微笑んだ。
自分でも現金なものだとは思うが、この笑顔が見られるなら、皆がセルフィーネの名を呼んでも良いかという気分になり、カウティスは微笑みを返した。
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