神殿へ
翌日、王太子の執務室で公務の打ち合わせをしているのは、エルノートとセイジェだ。
セイジェは最近、公務に対して以前よりも意欲的になった。
元々知識欲は強い方で、様々な事を学んできた。
ザクバラ国へ行くことが正式に決まり、王配として、女王の補佐に役立つ知識や経験を積もうとしているようだ。
「エルノート兄上、午後から神殿に行く際の護衛に、カウティス兄上をお貸し下さい」
セイジェが言う。
今日は王太子の城下視察の予定日だったが、エルノートは王城から出ることを薬師長から許可されず、セイジェが行くことになっていた。
体調自体には問題ないが、体力が戻りきったとはいえず、仕事量が多いので制限されたようだ。
「それは良いが、どうした?」
エルノートの問いに、セイジェは溜め息をついて、少し離れた所に立っているカウティスの右手を指す。
「神殿に出向く用事でも作らねば、カウティス兄上は、一向に治療しようとしないのですよ」
「薬師には治療して貰っている」
カウティスが渋面になる。
エルノートが顎に手をやり、包帯を巻いたカウティスの右手を眺める。
「そういえば治りが遅いな。……それなら一緒に行って、西部国境に神官を派遣する件を打診して、
エルノートが笑って指示を出した。
水の季節の始まりと、火の季節を越して土の季節を迎えた最初の吉日に、ネイクーン王国で必ず行われる国家式典がある。
今年は土の季節前期月の二週目、来週行われる。
水の精霊が帰って来たので、久し振りに式典で水盆に水柱が立つのを、皆心待ちにしているはずだ。
式典が終われば、カウティスは少なくとも年末までは西部に留まる予定だった。
その後は、状況を見て判断する。
国境地帯には、村や街の跡はあるが、今は殆ど人が住んでいない。
使われていない小さな神殿はあるが、こちらにも神官はいなかった。
薬師と魔術士は既に派遣されているが、これからの復興に、出来れば神官にもいて欲しい。
中央か、国境地帯以外の西部の神殿から、神官を派遣して貰えるよう打診するつもりだった。
「分かりました」
カウティスは頷いて了解した。
午後の一の鐘が鳴り、城下のオルセールス神殿に向かう馬車が出発する。
結局、エルノートにあれこれ仕事を与えられたので、セイジェにはいつも通り護衛騎士が付き、カウティスは神殿に到着すれば別行動だ。
「セイジェ、一昨日は、せっかく来てくれたのにすまなかったな」
カウティスが向かい側に座るセイジェに言う。
今日のセイジェは、若草色の刺繍が刺された白の詰襟に、濃緑のマントを着け、柔らかい蜂蜜色の髪を、一本に編み込んで肩に垂らしている。
子供が読む絵物語に、そのまま王子様の挿絵で使えそうだ。
「水差しが割れた時には、兄上を焚き付けたのは間違いだったかと思いましたよ」
セイジェは困ったように笑いながら、腕を組んだ。
あの晩、セイジェの部屋に置いてあったガラスの水差しには、大きくヒビが入ったらしい。
「迷惑をかけた」
カウティスが苦笑する。
そんなカウティスをセイジェは暫く見ていた。
正直なところ、水の精霊のことは、今でもそれほど好きにはなれない。
人間らしい感情も、表情も表し始めた彼女に対する忌避感は、以前よりは薄れた。
しかし、どうしても皆のように、水の精霊を好ましい存在に思うことが出来ない。
時々考えてしまうのだ。
もしも子供の頃の兄が、庭園の泉で水の精霊に出会わず、成人してから公式な場で出会っていたなら、どうなっていたのだろうかと。
それでも今のように、二人は惹かれ合っていたのだろうか。
もしかしたら、ただの国益として関わり、兄は何処かの王女と結ばれたかもしれない。
もしかしたら、フォグマ山は噴火などせず、我が国や王族は、穏やかな十数年を送ったかもしれない、と。
セイジェは自嘲気味に小さく笑う。
結局は、もしもの話だ。
月光神が降臨してエルノートの毒を浄化した時、神々しく姿を現したのは水の精霊の
聖女は水の精霊の目を借りて“神降ろし”を行ったというから、おそらく合っているだろう。
――あの時、美しいと思った。
良くないことばかり呼び寄せると思っていた水の精霊を、初めて清く尊い存在に思い、エルノートを救ってくれたことに感謝した。
だから一昨日の夜、カウティスを焚き付けたのだ。
今迄なら、放っておいたかもしれない。
「セイジェ?」
黙ってしまったセイジェに、カウティスが声を掛ける。
セイジェは我に返って目を瞬いた。
思いに耽っていたセイジェを、カウティスが気遣わし気に見ている。
その青空色の瞳の、澄んだ輝きに憧れる。
幼い頃から、この兄が大好きだ。
実直で、優しくて、いつも元気を分けてくれる。
セイジェは、初めて水の精霊が嫌いだと思った日を思い出した。
そうか、結局私は、兄上の愛情を攫っていったから、水の精霊が好きになれないのだ。
セイジェは蜂蜜色の整った眉を下げる。
「……やっぱり、水の精霊は好きになれないな」
「? 何と言ったんだ?」
彼が小さく呟いた言葉は、走る馬車の音で、カウティスには届かなかった。
「いいえ、何でもありません」
セイジェは柔らかく微笑んだ。
聖女アナリナは、自室で唇を尖らせていた。
今日は、王太子の視察日だというから楽しみにしていたのに、第三王子に変更になったと聞いて、少し不貞腐れた気分だった。
別に、セイジェ王子に対する嫌悪感はもう殆どないが、王太子が来ることを期待していたので、がっかりした。
王太子が来るからには、近衛騎士のカウティスも一緒に神殿に来るだろうと思い、浮いた気持ちだったのだ。
溜め息をついて自室の窓から外を見ると、ちょうど孤児院の子供達が洗濯を終えようとしているところだった。
片付けようとする年長の子供達の言うことを聞かず、小さな子供達が石鹸で作ったシャボン玉を飛ばしている。
泡が陽光を弾いてキラキラと輝き、アナリナの心をくすぐる。
アナリナは、立ち上がって外に駆け出した。
小さな子供達が、アナリナの吹いたシャボン玉を追いかける。
「キレイだねー! お姉ちゃんの髪の色みたいだよ」
一人の子供が跳ねながら言う。
シャボン玉の色が虹のように変わって見え、子供達には、アナリナの青銀の髪に似て見えたようだった。
ネイクーン王国に滞在して半年以上経ち、孤児院の子供達とはすっかり仲良しだ。
アナリナがもう一度吹くと、小さなシャボン玉がたくさん出た。
日除けの白い布が風ではためくと、シャボン玉も勢い良く流れ飛ぶ。
子供達が追いかけ、それを目で追うと、ちょうどその先から、顔を真っ赤にして走って来る女神官が見えた。
祭服を脱ぎ飛ばし、袖を捲し上げて遊んでいるのだから、また叱りにやって来たのだろう。
見つかってしまったと思って唇を尖らせた時、女神官の後ろに紺の騎士服で笑っているカウティスの姿を見つけて、思わず立ち上がった。
手にしていたシャボン液が零れる。
「聖女様! セイジェ王子がいらっしゃると、お伝えしていたではないですか!」
女神官に袖を直され、脱ぎ飛ばしたままの祭服を肩から掛けられる。
「ごめんなさい」
動揺して、思わず素直に謝ってしまった。
改めて見れば、カウティスだけでなく、セイジェ王子や護衛騎士達もいる。
セイジェは笑いながら近付いて、アナリナと挨拶を交わした後、シャボン液を見て笑う。
「懐かしいですねぇ、兄上。子供の頃にやりましたよね」
「ああ、そうだな」
王子二人が揃って笑っていると、孤児院の年長の女の子達は、顔を赤くしている。
エルノート王太子には慣れた子供達も、絵物語に出てきそうなセイジェ王子には、免疫がないらしい。
「今日は王太子殿下の代わりに、私に色々教えてくれるかな?」
柔らかく言われて、女の子が上擦った声で返事をしている。
セイジェはアナリナに一礼し、女神官に案内されて、子供達と護衛騎士を連れて行く。
アナリナと共に残っているのは、カウティスと従者のラードだけだ。
「今日は、第三王子の護衛じゃないんですか?」
アナリナが、横にいるカウティスを見上げた。
「別件で来たのだが、先に治療院に行くつもりだ」
「治療院に?」
「ああ。治りが遅くて」
カウティスは軽く顔を顰めて、包帯の右手を示す。
アナリナが黒曜の瞳を瞬いて、さっと手を上げた。
「私が診てあげます」
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