変化
土の季節、前期月初日。
午前の一の鐘が鳴り、半刻。
王の執務室には、険しい顔の面々が集まっていた。
執務机の王と、その後ろに宰相セシウム。
机を挟んで、魔術師長ミルガン、薬師長と三人の王子が揃う。
薬師館に残されていた蜂蜜を使い、ハミランの飲み薬と共に検証した結果が報告されていた。
やはり蜂蜜と飲み薬の併用で、体内において毒素を作ることができると判明した。
これにより、皇女フェリシアが、意図的に王太子を毒殺しようとした可能性が限りなく高くなった。
王太子殺害未遂は、本来なら極刑、又は生涯幽閉だが、依然として彼女は自分がしたことを認めておらず、嫁いでネイクーン王族に籍を置いているとはいえ、従属国が皇国の皇女を無断で罰することを貴族院が反対している。
そこで、数日中には、この検証結果を纏めたものと共に、侍女頭を連れてフルブレスカ魔法皇国へ使者を送る予定になった。
エルノートが深く溜め息をついた。
彼の心中を思えば、誰もがいたたまれない気持ちになる。
そもそも、このふたつを共に使うきっかけはザクバラ国使節団の来訪だ。
どちらも、使節団がネイクーンに持ち込んだ物だが、一体どういうつもりで持ち込んだのだろう。
ただの贈り物としては、そぐわない。
フェリシアがその効力に気付き、誰かに使用すると想定したのだろうか。
だとしたら、誰を毒殺させたかったのだろう。
分からないことだらけだ。
「しかし、あのような毒の使用ができるなら、毒感知の仕方も、少し考えねばなりませんな」
不揃いな口髭をしごきながら、ミルガンが言う。
その手には、魔術具の指環が摘まれている。
ネイクーン王族は、毒見役を置かない。
触れる物、口にするものは魔術具で毒感知するが、今回のように体内で毒化するものには反応しない。
「我等の怠慢でございます。誠に申し訳ありません」
薬師長が頭を下げる。
指輪が反応しなかったのだから、毒物ではないのではないかと、最初は強く疑わなかった。
「いや、薬師館だけの問題ではない。体調に変化があったときに、毒を疑わなかった私自身にも非がある」
エルノートが言う。
良くも悪くも、近年のネイクーン王族は陰謀から縁遠く、危機感が薄れていた。
ザクバラ国と共同で復興に当たろうというなら、意識を変えなければならないのかもしれない。
ミルガンと薬師長が退室し、エルノートとセイジェが王太子の公務について打ち合わせている。
エルノートの負担を軽くする為、今も王太子の公務は、一部セイジェが引き継いでいた。
エルノートは即位に向けて、王と共に当たる公務も多い為だ。
「ところで、カウティスよ。今日はどうした」
近衛騎士として、エルノートの側に控えていたカウティスに、王が自分の太い眉の間を指して言った。
今朝はカウティスの眉間に、深くシワが寄ったままだ。
「……何もありません」
やや不貞腐れたようにも見える返答に、王が首を傾げる。
「水の精霊様と喧嘩でもしたか?」
エルノートが、広げていた書類を揃えながら揶揄するように笑うと、カウティスは眉間のシワを更に深くし、何か言いかけて口を開いたが、言葉が出ずにそのまま閉じた。
「当たりか?」
エルノートが笑い、王は呆れ顔だ。
セイジェは黙ってカウティスの様子を見つめていた。
今朝、カウティスはいつも通り、泉でセルフィーネに会った。
昨日のような輝くような笑顔がなく、小さく笑んでいるセルフィーネに、カウティスは思わず問うた。
「セルフィーネ、どうして皆に名を呼んで欲しいのだ?」
「私もネイクーン王国の一人だと、カウティスが教えてくれた」
セルフィーネは、やや目を伏せる。
「“水の精霊”は、私の名ではないから。名を呼んで、一人の私を、王族の皆に認めて欲しかった」
カウティスはまた、胸の奥がチリチリと焼けるのを感じる。
「俺は……セルフィーネの名前を呼べるのは、俺だけが特別だからだと思っていた」
セルフィーネは何度か目を瞬いて、小さく首を傾げる。
「……カウティスの名前は、皆が呼ぶではないか」
「それは……」
セルフィーネは、少し悲しげに眉を下げた。
「カウティスの名は、私だけが呼べるものではない。それならば、私はカウティスの特別ではないことになってしまう」
その冷静な理屈に、カウティスは苛立った。
「仕方ないだろう。俺は、そなたと違って人間なんだから……」
言ってしまって、はっとした。
セルフィーネの顔が、苦しげに歪む。
「ああ、違う! そういうことが言いたいのではなく……」
カウティスが慌てて言い繕おうとしたが、セルフィーネは俯いてしまった。
「……もう戻る」
彼女は小さく呟くと、唐突に姿を消す。
水柱が落ち、パシャリと水音を立てた。
「セルフィーネ!」
違う、あんな顔をさせるつもりじゃなかった。
後悔しても、もうセルフィーネの姿はなく、泉には噴水の作る波紋と、水柱の落ちた波紋とが、
夕の鐘が鳴り、カウティスは夜番の護衛騎士と交代すると、自室で軽く夕食を摂って、別室でラードと西部での復興業務について打ち合わせる。
「王子、何かありました?」
若干、機嫌の悪そうなカウティスに、ラードが声を掛けた。
「別に何もない」
素っ気なく答えて仕事に集中しようとするが、どうにも集中出来ていないカウティスに、ラードが器用に片眉を上げた。
半刻ほど過ぎて、侍従がセイジェの来室を告げた。
甘い香りに、カウティスが思わず鼻を動かす。
「カウティス兄上、休憩して、一緒に甘い物でもいかがですか?」
いつもの柔らかい笑顔で入ってきたセイジェの後ろから、侍女がワゴンに乗せて、お茶と焼き立ての焼き菓子を運んで来た。
二人はソファーに移動して、侍女がお茶を入れるのを待つ。
「夕食をあまり召し上がらなかったと聞いて、甘い物ならどうかと思って。たまには夜のお茶も良いでしょう?」
ソファーの前のテーブルに並べられたのは、焼き立ての柔らかいビスケットに、たっぷりのクリームとジャムが添えてあるものだ。
夜に食べる類の物ではないが、焼き立ての香りに食指が動く。
「ああ、好きな物だ。頂くよ」
カウティスが笑って皿を手にしたが、添えられたジャムを見て、手を止める。
水の季節半ばに採れるリグムの実で作った物で、カウティスの好きなジャムだ。
エスクトの街を歩いた時、セルフィーネがリグムパイを食べたいと言ったのを思い出し、胸が痛んだ。
セイジェが手を振って、侍女達を下げた。
「それにしても、セルフィーネがあのように表情豊かであるとは、知りませんでした」
「セイジェ」
セイジェがさらりとセルフィーネの名を呼ぶので、カウティスが険のある声を出す。
セイジェが蜂蜜色の整った眉を上げて、カップを持ち上げた。
「名を呼んで欲しいと言うのだから、呼んであげましょう。水の精霊と呼ぶよりも、親しみが湧いて良いではないですか」
黙るカウティスに、セイジェは一口お茶を飲み、小さく溜め息をつく。
「お気に入りの玩具を取り上げられそうな、子供のようですよ、兄上」
「セルフィーネは玩具ではない」
険のある声のまま、カウティスが否定する。
「そうです。玩具ではありません。セルフィーネには心があるのですよね? 感情を持って、喜びもすれば、悲しみもする。頬を染めて笑うと、とても魅力的でした」
カウティスが眉根を寄せると、セイジェが静かに顔を上げる。
「分かっていますか? カウティス兄上がそのように変えたのですよ?」
「変えた?」
カウティスが怪訝な顔をする。
「以前の水の精霊は、そのようなものではありませんでしたよ。兄上と情を交わし合って、そういう風に変わってきたのでしょう?」
言われて、カウティスは記憶を辿る。
子供の頃、セルフィーネは確かに表情も乏しく、感情の起伏も殆どなかった。
少しずつ、変わってきたのだ。
セイジェはカップを置いて、カウティスの顔を覗き込む。
「兄上。それなのに、その変化を兄上が否定するのですか?」
セルフィーネは、更に変わろうとしている。
自分と関わりの深い王族と向き合い、セルフィーネという“個”として生きようとしている。
それを、自分が特別でいたいという悋気で否定してしまったのか。
カウティスに激しい後悔が湧き上がる。
「セルフィーネは昨日、兄上が嫌がるから諦めたようでした。兄上が、彼女にとって特別だからでは?」
カウティスがぐっと息を詰めた。
セイジェが軽く頭を振り、はあ、とわざとらしく溜め息をついて見せる。
「兄上達は、もう少し女性の気持ちを慮るべきですよ」
目を伏せていたカウティスが、突然立ち上がった。
「セイジェ。せっかく来てくれたのだが……」
セイジェが笑顔で手を上げて、言葉を遮る。
「行くところがあるのでしょう。お気になさらず、どうぞ」
「すまない」
カウティスはセイジェに断ると、紺のマントを翻して足早に部屋を出て行った。
残されたセイジェが、満足気に再びカップを持つ。
「流石です、セイジェ王子。カウティス王子をしっかり誘導して下さった」
何処からかラードが現れて、感心して頷く。
セイジェが呆れ顔で言う。
「人払いしたのに、何処に隠れていたのだ。不敬だぞ」
「カウティス王子は人払いしなかったので」
悪びれず言うラードを、セイジェは軽く睨む。
「では、罰として、これをお食べ」
セイジェが示したのは、カウティスが口をつけなかったビスケットの皿だ。
カウティス仕様に、クリームとジャムがたっぷりと添えてある。
「うっ……」
そのクリームの量に、ラードは固まった。
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