刻まれた紋様

自覚

火の季節、後期月最終日。


日の出の鐘が鳴るより半刻程前に、訓練場で数人の騎士が手合わせをしている。

火の季節は、昼間は気温が高すぎるので、早朝や夕方以降に自主鍛練する者が多い。

今日で火の季節も終わりだが、ネイクーン王国では、まだ日中は酷暑が続く。



手合わせしていた二人の内、灰色の髪の男が、長身の身体に似合わない素早い動きで相手の懐に入り、剣を握る手首を肘で打つと、短剣を顎下寸前で止めた。

「勝負あり」

声が掛かって二人は離れ、声のした方を見た。


「エルノート様!」

訓練場の入り口から現れたのは、王太子エルノートだ。

近衛騎士を二人連れ、エルノートには珍しい軽装で、襟元も緩めて、マントもない。

訓練場に姿を表すのは、ザクバラ国の使節団が来る前から、およそ一ヶ月ぶりだった。

周りの騎士達は剣を下ろし、立礼をする。


手合わせをしていた一人、ノックスが心配そうな顔でエルノートに近寄る。

「エルノート様、まだ剣術には早いのでは?」

聖女の“神降ろし”で命拾いしてから、落ちた体力を回復することに努めてきたが、まだ訓練場で騎士達に交じるのは無理ではなかろうか。

「日が昇る前に少し木剣を振る位ならと、薬師長から許可は貰った。少しは動かねば、鈍る一方だ」

エルノートは苦笑する。

窶れていたため、以前より少々顎の線が細くなっているが、落ち窪んでいた目にも肌にも生気が戻っていて、声に張りが出てきた。

騎士達は、エルノートが動けるようになったことが嬉しく、笑顔を見せる。



エルノートが木剣を受け取りながら、ノックスと手合わせをしていた、灰色の髪の男に声を掛けた。

「ラードはすっかり騎士の剣ではなくなったな」

傭兵流こっちの方が、性に合っていたようです」

短剣を使っていたのはラードで、笑いながら、剣を腰のベルトに収める。

ラードは騎士団に居た頃、エルノートの護衛騎士に付いた時期があったので、お互い顔見知りだ。


「くだらん理由で除籍された分際で、のこのこ戻りおって……!」

怒りの滲んだ声を地の底から響かせて、騎士団長バルシャークが、エルノートの後ろから姿を見せた。

日に焼けた顔を歪めて、ラードを睨む。

「おわ!……騎士団に戻ったわけじゃないので、大目に見て下さいよ、団長」

後退るようにしながら、そそくさと訓練用の革の胴着を脱いで逃げようとするラードを見て、エルノートが聞く。

「カウティスは?」

「もう、とっくにあっちです」

ラードは指を差すと、軽く一礼して去る。

その素早さに舌打ちするバルシャークを、エルノートが可笑しそうに笑う。


カウティスが従者を付けたと聞いた時は、嬉しさと共に、一体どんな者がカウティスの壁を壊しに掛かったのかと思った。

どういう経緯で二人が交わったのかは聞いていないが、なかなか面白い主従だ。

エルノートは、ラードが指差した方を見て微笑み、木剣を握り直す。

指差した先には、小さな庭園がある。





カウティスは、愛用の長剣を左手で握り、型をなぞっていた。

利き手を負傷したので左手を使っていたが、改めて集中的に左を使うと、相手がいると仮定して動く時に思わぬ隙を見つける事が出来て楽しくなり、のめり込んでしまった。

右手が完治しても、続けて左も鍛えようと決めた。


集中していると、いつの間にか泉にセルフィーネが立っていた。

涼しげに細い髪とドレスの襞を揺らしながら、カウティスを見ている。

「おはよう」

カウティスが長剣を下ろし、袖を捲り上げていた二の腕辺りで、顔の汗を拭きながら近付く。

辺境暮らしで、袖で汗を拭く癖が付いてしまったが、侍女のユリナが見たら顔を顰めそうだ。

「おはよう、カウティス」

セルフィーネは、花が綻ぶように微笑む。

彼女がこの庭園にいて笑うだけで、自然とカウティスも笑みが溢れる。



セルフィーネは、今も西部の国境地帯に留まっているが、彼女の中で何か折り合いが付いたのか、深く精霊の中に潜ることをやめた。

そして、日に一度は必ずこうしてカウティスに会いに、王城へ戻って来るようになった。


月光神に連れて行かれたセルフィーネは、翌日にカウティスの腕の中へ戻った。

だが、彼女には一瞬の出来事だったようで、一晩消えていたことも分かっていかなった。

今回は月光神と会ったことを忘れていなかったようだが、どんなことがあったのか、どんな話をしたのかは、カウティスが尋ねても答えなかった。



「右手は、癒やしてもらわないのか?」

セルフィーネが心配そうに尋ねた。

カウティスの右手は、掌全体に火傷を負い、ガラスの破片が刺さって酷い有様だった。

その上、痛み止めを飲んで馬の手綱を握り続けたので、傷は悪化して熱を持った。

連日の無理が祟ったか、兄が助かり、セルフィーネが無事に戻って気が抜けたのか、カウティスは熱が上がって丸一日寝込んだ。

それでも休んだらスッキリ起きられたのは、辺境で鍛えた身体のおかげか。

ただ、右手の傷はなかなか良くならず、今も手首まで包帯が巻かれてある。


カウティスは苦笑いして、再び汗を拭く。

「今日、アナリナが登城するから、頼んでみるよ」

兄が呼んでいないのに自分が神官を呼び付けるのも気が引けて、右手は薬師に診てもらうだけにしていたが、どうにも治りが遅いので、神聖魔法に頼った方が良さそうだ。


アナリナに会うのも、彼女の自室を訪ねて以来だ。

王子が個人的に、未婚女性を度々訪れてはいけないと周りから諭されて、あれからは会いに行っていない。

王の使いで神殿に行った者の話では、アナリナの体調は回復して、日常に戻っているようだった。

「アナリナが来るのなら、私も会いたい。謁見の時に、来ても良いだろうか」

「勿論だ」

毎朝こうして会っているが、今日はもう一度顔を見られると思うと嬉しい。

セルフィーネも目を細め、嬉しそうにする。


カウティスの胸の奥が疼いた。


セルフィーネを好きだと自覚してから、少しずつ彼女と心を繋ぎ、その度に幸せな気持ちになった。

今もそうだ。

彼女が嬉しそうに笑う姿が、こんなにも愛おしい。

それなのにどうして、もっと、と思ってしまうのだろう。

セルフィーネを、もっと笑わせてやりたい。

もっと色々な物を見せて、瞳を輝かせるところが見たい。

驚いて目を見開くところも、恥ずかしそうに目を伏せ、長いまつ毛を揺らすのも、カウティスが触れて、潤む瞳も……。

「カウティス?」

気が付くと、長剣を持っていない方の手を伸ばしていた。

包帯の巻かれた右手が、彼女の白い頬に触れる。

長い水色の髪がサラサラと音を立てて、カウティスの腕を撫でていく。

カウティスのこめかみに汗が一筋流れると、セルフィーネの紫水晶の瞳が、潤んで揺れた。


もっと、見たい。

もっと……触れたい。


カウティスが泉の縁に片膝をつき、セルフィーネの薄い唇に顔を近付けた時、日の出の鐘が高らかに鳴った。

「時間だ、カウティス。……行かないと」

セルフィーネが一歩下がる。

少し俯いたその頬は、鮮やかな桃色に染まっている。

「ああ……」

少し気まずい思いで、カウティスも下がる。

「また、午後に」

セルフィーネが小さく笑って、消える。

カウティスは大きく息を吐き、汗を吸って垂れた前髪を掻き上げた。

「何をやってる、俺は」





聖女アナリナは、オルセールス神殿の居住棟で、身支度を整えている。


アナリナの熱と頭痛も三日ほど続き、何の不調もなく元気に動けるようになったのは、二日前のことだ。

「だいぶ伸びましたね」

月光神の女神官が、彼女の青銀の髪を後ろで編み込んでいる。

「そうね。少し切ろうかしら」

アナリナは前髪を摘んだ。

女神官が眉を寄せる。


青銀色の髪は、月光神を降ろした証だ。

神官にとっては恐れ多い神の色をした毛のようだが、アナリナにとっては嬉しいものでもない。

以前の髪の色の方が、ずっと好きだった。

そう、カウティスのような、陽光で艷やかに輝く、漆黒の髪の方が……。


「出来ましたよ」

女神官に声を掛けられて、目を瞬く。

立ち上がって、薄い水色の祭服を整えた。

以前の白い祭服は、両方の上腕の部分に血のシミが付き、容赦なく爪を立てられて生地が傷んでしまった。

お直しして使いたいと言ったのだが、聖女の衣装は特別だと却下され、新しい物を下ろされた。

平民感覚だと勿体ない限りだ。

それでも、新しい祭服に刺された、鮮やかな青と白の刺繍が気に入って鏡で見ていると、女神官がしみじみと言う。

「以前のように、『王城へ行くのは嫌だ』と仰るのではと心配しましたが、安心しました」

そういえば、前にそんな風にごねた事があった。

あの時は、王族になんて、会いに行きたくなかったのだ。

だがカウティスに会うには、公的に王城を訪ねるのが早い。

カウティスはもう来ないのかと零したアナリナに、彼は王族で、未婚女性の所を個人的に訪れることは控えるべきなのだと、神官達に説明されたからだ。


「仕方ないわ、カウティスは王子だから……」


呟くように口から出た言葉に、自分でも驚いた。

私は、カウティスに会いたいと思っていたんだ……。

手で口を押さえて女神官を窺うと、彼女は下働きの者に何やら話しかけられているようで、アナリナの呟きに気付いていない。



アナリナは口に当てていた手を、ゆっくりと真新しい祭服の胸に下ろす。

自覚した気持ちに、鼓動が早くなっている。


「……私、カウティスが好きなんだわ……」




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