嵐の後 (後編)
窓の外から、子供の声が聞こえる。
孤児院から出てきた子供達が、裏庭の井戸の側で洗濯を始めたようだった。
「月光神に、連れて行かれた……?」
カウティスの表情が険しくなった。
アナリナが申し訳無さそうに、小さく頷く。
「以前、泉の庭園で初めて会った時、セルフィーネが固まってしまったのを覚えていますか?」
セルフィーネの異常に、カウティスが激高して、アナリナの腕を掴んだ事があった。
あの時は、アナリナの目を月光神が使ったのだと言っていたはずだ。
「昨日“神降ろし”をした時に、私の中に降りていたセルフィーネも、王太子の所に連れて行かれちゃったんです。そのまま月光神と消えたから、てっきり西部に帰ったものだと思ってたんですけど……」
昨夜空を見たら、水の精霊がフォグマ山で眠っていた時のように、空を覆う魔力の色が薄くなっていた。
状況的に見て、月光神がセルフィーネを神の下に連れて行ってしまったのではないだろうか。
「……ごめんなさい」
険しい顔のまま、黙ってしまったカウティスに、アナリナが小さな声で謝る。
その声に、カウティスが我に返って首を振る。
「いや、アナリナのせいじゃない。むしろ、君があの方法を取ってくれなかったら、兄は助けられなかっただろう。感謝こそすれ責めるつもりはない」
誠実に答えるカウティスに、アナリナは小さく顔を歪めた。
「……そんなに、感謝されることでもないです。私は、……自分の為にやったんです」
喉が乾いて、頭が痛んだ。
これを告白すれば、カウティスに何と思われるのだろう。
「自分の為に?」
カウティスが怪訝な顔をする。
「そうです。カウティス、巡教の時に、一緒に元神官だった方の話を聞きましたよね。……私は、王太子を全力で助ける事が、月光神の試験なんじゃないかと思ったんです」
元神官の老婦人は、若い頃、愛する人を救うために神聖力を失くしたという。
老婦人は言っていた。
『私はこの時の為に、神聖力を与えられていたのだと感じました』と。
「もしかしたら、王太子を助けるこの日の為に、私は聖女になったんじゃないかって。王太子を助けられたら……」
アナリナはカウティスの顔を見ることが出来ず、俯いて視線を落とす。
「……私は神聖力を失くして、世俗に戻れるんじゃないかって」
神聖力を失くして、一人の平民に戻りたい。
故郷の家族の元へ帰りたい。
王太子を助ければ、その願いが叶うのではないか。
そういう思いを心の中に持って、王太子を救おうと動いたのだ。
自己犠牲など甚だしい。
感謝されることでも、褒められることでもないのだ。
しかも、全てが終わって、神聖力を失っていない事に落胆した。
アナリナは俯向いたまま、自分の浅ましさに項垂れていた。
「それが何だ?」
思いがけないカウティスの声が降ってきて、アナリナは弾かれたように顔を上げる。
カウティスは、アナリナが想像したような軽蔑の眼差しでもなく、いつも通り、澄んだ青空色の瞳で彼女を見つめていた。
「俺は、アナリナがどうやって“神降ろし”をしたのか見た。例え、君が自分の為を考えていたのだったとしても、あの瞬間、兄の命を救うために君が全力を懸けた事に、違いはないだろう?」
カウティスは、常に全力で人々を救おうとするアナリナこそ、聖女と呼ぶに相応しいと思った。
「兄を救ってくれて、ありがとうアナリナ。君は立派だと思う。俺は、いつかきっと、君が願いを叶える事を願っている」
アナリナは眉根を寄せ、唇を引き結ぶ。
カウティスの真摯な言葉に、胸が温かくなる。
「ありがとう、カウティス……」
アナリナは、泣きそうな顔で微笑んだ。
青銀の光が、辺り一面に溢れている。
セルフィーネは恍惚とその光に打たれる。
我が眷族 水の精霊よ
月光神の清浄な声が響き、自然と折れるように、セルフィーネはその場に膝をついた。
セルフィーネのその頬を、柔らかな指のような月光神の魔力が、ゆっくりと撫でていく。
セルフィーネは思い出した。
庭園の泉で聖女アナリナと初めて目を合わせた日も、こうして月光神の下へ意識を飛ばされ、中を覗かれた。
今回は、意識だけでなく、全て持って来られた。
お前は 更に進化しているようだ
我の身から生まれたというのに 不思議なこと
セルフィーネは困惑し、そっと顔を上げる。
目の前には、青銀で彩られた月の女神がいる。
青白い月光のまばゆさで、その表情も姿形も朧で、見ることが出来ない。
« 進化とは、どのようなものでしょう
私は、何か変わったのでしょうか »
セルフィーネの頬を撫でていた魔力が、首へ降り、肩へ降り、背中へ降りていく。
セルフィーネは目を閉じ、月光神のなすがままに身を任せている。
右の肩から背中へ魔力が降りる時、熱いものが彼女の中を貫いた。
喘いで手を突くが、青銀の光に呑まれてそのまま落ちていく。
恐れるな 水の精霊よ
このまま人間と交わり
お前が どれ程まで変われるのか
我に見せておくれ
そしていつか……全てを……時に……
カウティスは、神殿の居住棟から出て、苛立ちに右拳を壁に打ち付けた。
「っ!」
右掌を負傷しているのをすっかり忘れていて、その痛みに顔を顰める。
「何をやってるんですか、王子。イライラしても、水の精霊様は戻ってきませんよ」
ラードが呆れたように、カウティスの右手を掴む。
部屋の外に立っていたので、カウティスが何に苛立っているのか良く分かっている。
掴んだカウティスの手は熱く、彼自身も少し熱があるようだった。
「神官に診てもらいますか?」
ここ数日、交代で王太子に付きっ切りだった神官達は、随分消耗しているはずだ。
「いや、今は皆余裕は無いはずだ。王城に帰って薬師に頼む」
相当痛むはずなのに、頑ななカウティスに、ラードは小さく溜め息をついた。
ラードが言うことはもっともだ。
苛立っても仕方ない。
だが、どうしようもなく焦燥感に駆られた。
神の仕業だと、セルフィーネがいつ戻るのか分からない。
今かもしれないし、数年後かもしれない。
カウティスはギリと歯軋りする。
いつもこうだ。
セルフィーネを取り戻したと思う度、何か途方もない力が働いて、自分の手から彼女を連れ去ってしまうのだ。
そしてその度に、彼女が精霊なのだと思い知らされる。
「カウティス王子様だぁ」
突然名を呼ばれて、カウティスは顔を上げる。
5、6歳くらいの子供が二人、カウティスの方へ駆けて来た。
裏庭で洗濯をしていた孤児院の子供達だ。
以前エルノートと訪れたので、カウティスを覚えていたようだった。
「こら、駄目よ。すみません、カウティス王子」
10歳位の女の子が走ってきて、小さい子を止める。
「いや、構わない。手伝いをしているのか? 偉いな」
小さな子供の頭を撫でると、えへへと嬉しそうに笑う。
屈託ない笑顔を見ると、少し心が穏やかになる気がした。
「あの……」
離れた所にいた一番大きな男の子が、カウティスに何か言いたげに近付く。
カウティスが黙って待っていると、少し迷った風だったが、顔を上げて尋ねた。
「王太子様は、大丈夫なのですか?」
カウティスとラードは顔を見合わせた。
王太子の容態については箝口令が出ていたはずだが、孤児院の子供達は、いつも側にいる神官達の様子や、聖女の突然の帰還からの一連に、ある程度の事を感じ取っていたのだろう。
カウティスは強く頷いて見せる。
「大丈夫だ。聖女様や神官達が手を尽くしてくれた。すぐお元気になられる」
カウティスの答えを、息を詰めて待っていた子供達が、ホッとして笑顔を見せた。
兄が慕われていることが嬉しく、カウティスも微笑む。
「王子様、手が熱いよ」
頭を撫でられた子供が、カウティスの手を持って首を傾げ、思い付いたようにその手を引いた。
「こっちに来て! お水冷たいよ」
慌てて止める年長の子を制し、カウティスがついて行くと、引かれて行った先は、子供達が洗濯をしている井戸端だ。
大きな盥が三つ置かれ、途中の洗濯物が山になっている。
盥の一つには、汲んだばかりの澄んだ水が、陽光を反射して眩しく輝いていた。
子供はカウティスの左手を、水に浸ける。
自ずと膝をつく体勢になり、紺のマントが地面を擦った。
ラードは腕を組み面白がって見ているが、年長の子供達は固まってしまった。
王族に膝をつかせるなど、重罰を科せられる行為だ。
そんな事は想像もしていない小さな子供達は、カウティスの周りに集まり、楽しそうに笑って言う。
「気持ちいいでしょう?」
手を浸けた水は、太陽の下だというのに、ひんやりとして心地よかった。
「ああ、とても気持ち良いな」
カウティスは目を細める。
そよぐ風が澄んだ水面を揺らす。
この空の魔力は、消えていないとアナリナは言った。
セルフィーネが消えたわけではないのだ。
しかし、月光神が神の下に連れて行ったと言うが、神の下とは何処だろう。
いつ、帰されるのだろう。
また、ひとり待ち続けることになるのか。
カウティスは奥歯を噛む。
ただ側にいたいと、いて欲しいと、それを願っているだけなのに、何故、叶わない。
―――セルフィーネ。
カウティスは心の中で呼び掛け、痛む右手で光る水面に触れた。
突然、盥の水が噴き上がった。
盥の中に上空から大きな物が落ちてきたように、広く噴き上がって、カウティスと周囲の子供達の頭上に、雨のようにパラパラと降り注ぐ。
皆、驚いたが、子供達は跳ね上がってキャーキャーと大喜びした。
カウティスは黒髪の先から水を滴らせ、盥の上で、上空から降ってきたものをその両腕に抱えていた。
カウティス以外には、誰も見えない。
だが、確かに彼は抱き止めた。
「セルフィーネ……!」
セルフィーネはカウティスと目を合わせ、彼の首に白い両腕を伸ばした。
「カウティス……」
帰って来た……。
心から安堵して、震える息を吐く。
カウティスは太陽光の下、彼女の姿が朧気に消える僅かな時間、大切に抱き締めていた。
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