嵐の後 (前編)
魔術ランプの灯りが、柔らかく部屋を照らしている。
もう夜なんだわ、と、アナリナはぼんやり辺りを見回した。
何だか見覚えのある部屋で、やけに落ち着く。
目を何回か瞬いて、ここが神殿の居住棟の、自分の部屋だと気が付いた。
南部に巡教に出発してから、約一ヶ月ぶりの自分の部屋だ。
正確に言えば、ネイクーン王国に滞在する間だけのもので、“自分の部屋”と言って良いのか分からないが、もう半年以上ここに住んでいるので愛着が湧いていた。
寝台から半身を起こすと、額に置かれていた湿った布が落ちて、頭がズキズキと痛んだ。
あれ程神聖力を使ったのだから痛んでも仕方がない。
それでも、両手の爪も、爪を立てた腕もすっかりきれいになっているし、動かそうと思えば身体が動くのだから、神官達が随分癒やしてくれたのだろう。
扉が空いて、小さな盥を持った女神官が入って来た。
アナリナが起き上がっているのを見て、顔を綻ばせる。
「聖女さま。お目覚めになったのですね」
彼女は机に盥を置くと、アナリナの額に手を当てる。
ひんやりとした手が気持ち良かった。
「まだ、熱がありますね」
「
神官の神聖魔法で傷はきれいに治せるが、生命力や気力は戻せない。
アナリナは、カウティスが抱き上げて運んでいる間に気を失ったらしい。
「今は何刻?」
「日の入りの鐘が鳴って半刻程です。何か召し上がりますか?」
色々聞きたいこともたくさんあったが、今は頭も回りそうにない。
それに、女神官の顔を見て安心したのか、急激にお腹が空いた気がした。
半日以上食べてないのだから当然だろう。
頷いたアナリナに、横になって待つように言ってから、女神官は立ち上がる。
「エルノート王太子は?」
部屋を出ようとする女神官に、アナリナが聞く。
「毒は完全に消え、容態は安定したようです」
アナリナはホッと息を吐く。
“神降ろし”は成功したと思ったが、改めて聞いて安心した。
「カウティス王子が先程までお待ちだったのですが、日の入の鐘が鳴って、王城に戻られました」
「え? カウティスがいたの?」
アナリナは目を瞬く。
王太子が助かって、てっきり王城に帰ったのだろうと思っていた。
「はい。聖女様を寝台に運ばれた後、眠っておられるのを確認してから王城に戻られましたが、夕方こちらに戻って来られて、ずっと聖女様のお目覚めをお待ちでした」
女神官が微笑む。
「とても心配しておいででしたよ。明日、また来られるそうです」
言って、部屋を出ていった。
あれ程王太子を心配していたのだから、暫くは側にいたかっただろうに、それでもカウティスはこちらにいてくれたのか。
思わず笑みが溢れて、アナリナは寝台にパタリと横になる。
そして、寝台の側の窓から、美しく月の輝く空を見上げた。
「……ん?」
アナリナは、その空に流れる魔力を見て目を瞬いた。
日の入りの鐘から一刻半経った頃。
エルノートの自室に、王はそっと忍び入った。
厚いカーテンを開けて、青白い月光が窓から差し込む部屋には、薬香が薄く焚かれている。
寝台の側には、いざという時に対応できるよう、薬師が一人付いていた。
寝台には、身体を横たえたまま、窓の方へ視線を向けたエルノートがいる。
てっきり眠っていると思ったが、彼は起きていたようだ。
「起きていたのか」
側まで行って声を掛けると、エルノートは薄く笑顔を見せる。
先程までカウティスとセイジェが来ていたのだと、侍従から聞く。
エルノートの顔はやつれ、やや目が落ち窪んだ感はあるが、肌には生気が戻り、薄青の瞳に強い光が戻っている。
“神降ろし”により毒素は完全に消え、身体の機能は戻ったが、短期間に根こそぎ奪われた体力は、すぐには回復できないだろう。
「月を見ていました」
エルノートは窓の方へ視線を向ける。
「……私は、今、生きているのだと思って」
王はエルノートの手を取る。
今朝はあれ程冷えていた手が、今は温かい。
眉を寄せ、唇を震わせて王は呟く。
「……よく耐えてくれた」
「ご心配をお掛けして、申し訳ありませんでした、父上」
エルノートは王の手を握り返した。
「フェリシアはどうなりましたか」
エルノートが静かに問う。
「離宮に軟禁してある」
王が苦々しく答えた。
薬師長とセイジェから、毒の特定に至るまでの話を聞いた。
王太子妃フェリシアが引き起こした事態であることは間違いないのだろうが、彼女の周りに証拠となるものは残っておらず、現段階では状況証拠のみだ。
薬粉は全て使用されて残っていなかったが、宝石箱の底に残っていたごく僅かな粉末から、ハミランの薬粉で間違いないことは分かった。
しかし、鎮静作用のある薬で間違いない以上、落ち着いて王妃教育に取り組む為に使用したと言われれば、咎めることはできない。
侍女達は何も知らされておらず、徐々に体調を悪くしていく王太子の様子に、フェリシアが何か関係があるのではと不安になっていたらしい。
侍女頭だけは、フルブレスカ魔法皇国で、フェリシアが毒について学ぶ頃から側に付いており、王太子に毒を盛っているのではと疑った頃には、既に遅かったという。
彼女から証言を取る為、フェリシアとは別に拘束してある。
厨房の蜂蜜は侍女により処分されていたが、薬師長の下にエルノートの丸いガラス小瓶が残されていて、後日ハミランの薬粉と合わせて検証されることになった。
「……毒に苦しんでいた時に、姉上の夢を見たのです」
「フレイアの?」
エルノートが目で頷く。
「姉上が嫁いで行かれる前に、話した時のことを。『添う相手と、情を交わすことを諦めてはいけない』と言われました。……私なりにフェリシアを大事にしてきたつもりでしたが、何がこれ程彼女を追い詰めたのでしょうか」
淡々と語るエルノートを、王は黙って見つめている。
「……私には、父上と母上のように、見つめ合う方法が分からない。カウティスと水の精霊様のように、己の全てを懸けて、フェリシアを守りたいとは思えないのです」
エルノートは息が上がり、細く息を吐いて、目を閉じる。
「『貴方は私の気持ちを、全く分かっていない』と、今までエレイシアに何度言われたか分からんぞ」
突然の父王の告白に、エルノートは目を開ける。
「婚姻前には『貴方の妻にはなれない』と言われたこともあるし、一度は婚約破棄も考えた」
懐かしむように目線を上げ、柔らかい表情で王が微笑みながら言うので、エルノートは口を開ける。
「父上と母上がですか?」
「そうだ。違う環境で別々に生まれ育ち、価値観の異なる異性が夫婦になるのだ。最初からぴったり添い合えるような関係に、なるわけがない。マレリィと今のようになるのも、随分時間がかかった」
王は青空色の瞳を柔らかく細めたまま、エルノートを見た。
「何度もぶつかり、間違えながら、互いに思い遣り、少しずつ撚り合わせて添っていくのだ。“連れ添う”とはそういうことだと思う」
「連れ添う……」
エルノートは口の中で言葉を反芻する。
「これから先、そなたもそういう関係を築くことが、きっと出来る」
王はエルノートの手を優しく叩く。
「……しかし、
王の声が固くなり、怒りを含む。
『 どうしてまだ死なないの! 』
死を目前にしたエルノートに放った、フェリシアの叫びが忘れられない。
「そなたに添うのは、決してあの者ではない」
王が強い口調で断言し、エルノートは静かに目を閉じた。
翌日、カウティスがアナリナを見舞ったのは、午前の二の鐘が鳴る前だった。
アナリナはまだ熱がある上に、寝台から起き上がって動くと頭痛が酷い。
そこで、寝台で上半身を斜めに起こして面会した。
自室に王子を通すのは、かなり恐れ多いことなのだろうが、それよりも気恥ずかしい方が勝った。
「体調はどうだ?」
小さな部屋なので、入り口は開け放ち、扉の外にラードが立つ。
「熱と頭痛はありますけど、傷も治してもらったし、大丈夫です。異様にお腹は空くんですけど」
アナリナは笑いながら両手を見せる。
痛々しく折れていた爪は、傷一つなくきれいに治っている。
カウティスも安堵して軽く笑う。
「良かった。陛下から、見舞いに色々持たされたから、たくさん食べるといい」
本当は、王も直接感謝を述べたいので聖女を見舞うと言ったのだが、寝台から起き上がれない若い女性の下へ行くのは無礼だと、マレリィや侍従に窘められていた。
感謝状と見舞いの品々が、侍従によって神殿に運び込まれている。
説明されたアナリナが苦笑する。
「元気に動けるようになったら、王城に行きますから」
初めて試みた“神降ろし”だったので、王太子の様子も見たいし、南部巡教の礼も言いたい。
「アナリナ、改めて礼を言う。王太子を助けてくれて、本当に感謝している。今回は、君に相当な無理を強いてしまった」
姿勢を正して言うカウティスに、アナリナは顔を顰める。
「そういうのは、今は疲れるのでやめて下さい。『よくやった、ありがとう』でいいです」
カウティスは苦笑いして、鼻の頭を掻く。
「本当にありがとう、アナリナ」
アナリナは、満足気に頷いた。
カウティスはひとつ小さく息を吐いた。
「……それで、アナリナ。教えて欲しいのだが、セルフィーネは何処にいるだろうか」
アナリナは、やっぱり、と思った。
昨夜、月の出た空を眺めて、その魔力の流れに違和感を感じたのだ。
「呼んでみましたか?」
「ああ。庭園の泉で呼んだが、反応がなかった。西部にも戻っていないらしいのだ」
昨夜から何の反応もない。
魔術士館からマルクに通信を入れてみたが、西部からセルフィーネは消えたらしい。
時間的に、“精霊降ろし”を行った時だ。
アナリナは少し俯いて、上目遣いにカウティスを見て言った。
「……月光神に、連れて行かれたようです……」
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