救命 (3)

西部国境地帯。

冴え冴えとした月光が輝く夜。

未だ、土の精霊の嘆きと、風の精霊の叫びが聞こえ、セルフィーネの胸を抉る。

彼女はその声を、ただ抱き止める。


« 同胞よ 赦して欲しい 

 私はもう そこへは行けない »


もう、精霊だけの世界にはいられない。

私の居場所は、人間の国にある。

私の心はカウティスと共にあるから。


セルフィーネはベリウム川を見下ろし、静かに月光を浴びた。



日の出の鐘と共に月が姿を消し、セルフィーネは視界を広げる。

そのまま、王城付近を見続けた。


王太子エルノートの命が尽きかけている。

多くの者達が、その命を守ろうと奔走しているが、彼自身の気力が失われようとしていた。

今迄、多くのネイクーン王族をあるじとしてきて、その命が消えるのも見てきた。

命が失われようとするのに抵抗したのは、一度だけ。

十三年前、カウティスがクイードに害された時だけだ。

後はただ、通り過ぎていく命を見送っていただけだった。


だが、今は、少し胸が騒ぐ。

エルノートが死ねば、カウティスが悲しむからだろうか。

それとも私が、エルノートに生きて欲しいと願っているのだろうか。

どちらにしても、精霊が人間の命をどうにも出来ない。

それは神の領分だ。


だから、ほんの少し、手を伸ばした。

彼の眠る寝台の上に手を伸ばし、励ますつもりで、その疲れ切った身体をひと撫でした。

寝台の側に置かれた水差しと盥の水が、僅かに波打った。



『 セルフィーネ! 』


その時、カウティスの声が聞こえ、セルフィーネは反射的にそちらを見た。

城下のオルセールス神殿の、月光神殿でカウティスが呼んでいる。


そこへ意識を向けた瞬間、彼女は降ろされた。




オルセールス神殿の祭壇前で、カウティスが水盆に呼びかけた瞬間、セルフィーネの魔力がこちらに流れた。

すかさず、聖女アナリナは水の精霊を降ろした。

頭から爪先にかけて、一本の針を突き刺すような痛みが走る。

彼女は拳を握り、歯を食いしばり、痛みに耐える。

息が詰まりそうになった時、痛みが去り、呼吸が楽になった。

脂汗を流しながら顔を上げる。


カウティスは水盆に両手ををついたまま、突然の圧力に身動きができず、背後でアナリナが痛みに耐える気配だけを感じていた。

唐突に圧力から開放され、即座に振り向く。

ちょうど顔を上げたアナリナを正面から見て、息を呑んだ。


その瞳は、紫水晶に変わっていた。

カウティスは思わず呼びかけようとして、左手で口を押さえて何とか留まる。

紫水晶の瞳は固く冷たい印象で、目の前のカウティスではなく、何処か遠くを見ていた。

意識を散らしてはいけないと思い、カウティスは息を殺して、そのまま見守る。

「セルフィーネ、王太子を見るのよ……」

アナリナの口から、小さく呟きが漏れた。

彼女は、自らに降ろしたままのセルフィーネと話しているのだ。



アナリナは、セルフィーネが城下の空から俯瞰で多くを見るのを、共に見ていた。

セルフィーネ、王太子を見るのよ……。

心の中で、呼び掛ける。

するとセルフィーネは、王城に視界を切り替えた。

しかし、その視界の情報量に、アナリナは圧倒される。

目の前には王城が近付いて見えるのに、頭の中には次々と、水に触れる人を、水の中から見上げている映像が流れてくる。

厨房で、庭園で、洗い場で、訓練場で、人々が水に触れる度に映し出される映像が、怒涛の勢いで流れ込み、混乱する。

精霊と人間とでは“見る”感覚が違いすぎるのだ。


アナリナは焦った。

これでは、セルフィーネが王太子を見ても、アナリナが感じることが出来ない。

ゆっくり吟味して見分ける時間もない。

焦っている間にも、次々と映像が流れ込み、アナリナの頭は痛んだ。


どうしよう……これじゃ助けられない。

アナリナの心に、初めて弱気な気持ちが湧いた時、耳にはっきりと叫び声が聞こえた。


『 聖女様! 助けて下さい! 』


アナリナが、その声を頼りに目線を向けた先に、寝台に横たわる男性と、縋る王族達がいた。

横たわるのは、毒に侵されて無残な姿を晒し、命が尽きようとする王太子エルノート。


―――捉えた!

聖女アナリナは躊躇わず月光神を降ろした。




「この者を連れ出せ!」

錯乱する王太子妃フェリシアを、王が激怒して部屋から出すよう命じた。

護衛騎士が、フェリシアを抱えるようにして立たせる。


今にも最期の光が失われるところだったエルノートの目が、僅かに揺れる。

力なく緩んでいた瞼が、ピクリと動いた。

「……わた……は……、まだ……、いきて…………」

掠れた声が、濁った呼吸音と共に吐き出され、身体が痙攣した。

「エルノート!」

「兄上!」

王とセイジェが寝台に縋りつき、エルノートの手を強く握った。


「兄上! 逝かないで下さい、兄上!」

兄の目はもうこちらを向かない。

握った手から、その命が零れる気がした。

セイジェには覚えのある感覚だった。

過去に病に侵され、もう私は死ぬのだと感じたあの日、自分の身体から命という力が、砂のように零れ落ちていく気がした。

それを掬い上げ、熱い掌でこの胸に戻してくれたのは、月光神の輝きを持つ、唯一人の女性聖女


セイジェが堪らず叫ぶ。

心の底からの叫びだった。

「聖女様! 助けて下さい!」



部屋の中の空気が瞬時に変わった。


焚かれた薬香の匂いは消え、恐ろしく澄んだ空気を感じ、突然身体に強大な魔力の圧が掛かって、誰もが指一本動かすことができない。

声を出すことも出来ず、固まる人々の前で、寝台に力なく横たわるエルノートの上に、青銀の魔力が降る。

それと共に、青銀に彩られた美しい人形ひとがたが降臨した。

人形ひとがたが、その掌で彼の身体をスイとなぞると、黒ずんだ身体から毒素が霧散する。

反対の手でもう一度なぞると、肌に生気が戻り、乾いた唇から息が漏れた。


ほんの僅かな時間だったが、とてつもなく長い時間だったようにも感じた。

突如、部屋の中が、押さえつけられていた魔力の圧から解放された。

薬香の香りが鼻を突く。

「兄上!」

「エルノート!」

王達がエルノートを覗き込む。

エルノートの肌に生気が戻り、静かな呼吸の音が聞こえる。

薬師が彼の腕を取り、暫くして顔を輝かせ、王に頷いた。

反対側で、首から下げた珠を片手で握り、エルノートの身体に手をかざしていた太陽神の神官が、安堵の息を吐いた。

「聖女様の“神降ろし”が間に合った……」





月光神殿の祭壇前で、再び魔力の圧力に押さえつけられていたカウティスは、唐突に消えた圧力と共に、目の前で崩れたように倒れるアナリナを支えた。

「アナリナ!」

床に倒れ込む寸前だったので、膝をついて支え、身体を仰向けにする。

二度目の圧力が去ったということは、“神降ろし”を終えたということだろう。


“精霊降ろし”に続く“神降ろし”の痛みは、見ていて壮絶だった。

アナリナのこめかみに筋が浮くほど歯を食いしばり、自分の身体を抱き締める腕には、両手の指が食い込んでいた。

何本も身体に杭を打たれるように、何度も身体が大きく震えた。

カウティスの腕の中、彼女の白い祭服に所々赤い血のシミが出来ている。

見れば手の爪が、数枚折れているようだった。



「アナリナ!」

カウティスは彼女を軽く揺するが、反応はない。

「しっかりしろ」

カウティスは彼女の頬を軽く叩いたが、それでも反応がないので、呼吸を確かめようと彼女の口元に耳を近付けた。

「ふうぅ……」

「!!」

近付けた耳に突然弱々しく息を吹き掛けられ、カウティスは弾かれて顔を上げる。

「……さっきのおかえしですー……」

薄っすら目を開けて、怠そうに言ったアナリナに安堵した。

彼女の目は黒曜の輝きに戻っている。

「大丈夫か?」

「……頭、すごく痛い……。動けない……」

「ノックス!」

カウティスがアナリナを抱き上げて、叫ぶ。

カウティスの呼びかけに、ノックスが祭壇の間の入り口を開けた。

「神官を! アナリナを休ませる」


軽々抱き上げて大股で歩き出すカウティスに、アナリナは小さく笑った。

王太子が助かったか、すぐにでも聞きたいだろうに、まず私の心配をしてくれるなんて。



「カウティス……。間に合いましたよ」

その一言で伝わり、カウティスは一瞬ぐっと息を詰めた。

「ありがとう、アナリナ……!」

カウティスが彼女を抱いた腕に力を込め、僅かに震えた声で感謝を告げる。

アナリナもまた、その声に安堵して、頭をカウティスの胸に預けた。





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