救命 (2)
エルノートは、過去の夢を見ていた。
約七年前の、風の季節、後期月半ば。
第一王女フレイアとエルノートは、王城の泉の庭園に来ていた。
フォグマ山の灰の影響で、泉の水は抜かれ、空だ。
「今年も、カウティスは帰らなかったのね」
フレイアは、青味がかった艷やかな黒髪を風に揺らして、赤い唇を引き結ぶ。
その顔は、母親のマレリィによく似てきたが、微笑む時は、人好きする雰囲気が父王に似ている。
カウティスは、フルブレスカ魔法皇国の三年目を終了し、本来なら帰城している頃だった。
しかし、一年目を終えて帰国する際、馬車に向けて、民が石を投げつけるという出来事があった。
水の精霊を失ったことに対する民の気持ちだったのかもしれないが、王は怒り、貴族院は民の気持ちを擁護し、カウティスは一人傷付いた。
翌年は皇国に残り帰国せず、今年の水の季節にエレイシア王妃が亡くなると、葬儀の為に一度戻ったが、それからまた戻らないままだった。
「やっぱり、
空っぽの泉を見て、溜め息をつきながらフレイアが言うので、エルノートは眉を上げる。
「水の精霊様の帰還を待っていたら、完全に行き遅れになりますよ、姉上」
「まあ! 嫌味ねっ」
フレイアは漆黒の瞳でエルノートを睨めつけた。
フレイアは、エレイシア王妃の喪が明けるのを待って、大陸最北端の魔術国、フォーラス王国に嫁ぐ事が決まっている。
皇国で繋いだ縁で、王族同士では珍しい恋愛結婚だ。
それならば尚更早く向こうへ行きたいであろうに、カウティスや国を心配して延期を考える姉に、エルノートは苦笑する。
「
すっかり王太子が板に付いている弟に、フレイアは大きく溜め息をついて、濃紺のドレスの腰に手をやる。
「心配しているのはカウティスだけじゃないわ。貴方のこともよ、エルノート」
予想していなかった言葉に、エルノートは薄青の瞳を瞬く。
「第六皇女が輿入れされたら、心を尽くして良い関係を築くのよ?」
「勿論そうするつもりですよ。この国の母になる女性なのですから、大事にせねば」
さも当然のように言う弟に、フレイアは落胆の息を吐く。
「そういうところが心配なの。国の母である前に、皇女は貴方の妻になるのよ?」
エルノートは、意味が分からないというように、軽く首を振った。
「それはそうですが、そもそも政略婚なのですから、向こうも王妃の座が目的でしょう? 私達が、父上と母上のような関係になることはないでしょう」
王と王妃は幼馴染で、若い頃から想い合っていた仲だ。
そんな国王夫妻と同じ様な関係に、自分がなれるとは思わない。
フレイアは痛ましいものを見るような目で、エルノートを見た。
「姉上?」
「エルノート、例え政略婚でも、添う相手と情を交わすことを最初から諦めてはいけないのよ」
フレイアはそっとエルノートの手を取り、両手で握り締める。
「貴方の情が国民に注がれるのを、敬意を以て見てきたわ。このような王を掲げる国は、きっと幸せだろうと。でも、民だけでなく、貴方に近しい人もちゃんと見るのよ? 王の幸せも、民の幸せに繋がるのだから」
その真剣な漆黒の瞳は、エルノートを真っ直ぐに見つめていた。
「姉……う、え……」
寝台の上に力なく横たわったエルノートが、小さく呟いた。
寝台の側に座り、エルノートの左手を握っていた王が、弾かれたように顔を上げる。
「エルノート」
夢を見ていたのだろうか、さっきまで閉じていたエルノートの目が僅かに開く。
薄青の瞳に灯る光は、今にも消えてしまいそうだ。
「……聖女はまだかっ!」
王が苦しい声を絞り出す。
逃げることも出来ず、寝台の側にマレリィと並んで座っていたフェリシアは、ただひたすらに、この恐ろしい時間が早く終わることを願っていた。
エルノートの激しい咳は治まり、今は喉の奥から、ざらついた酷く耳障りな呼吸音だけを響かせている。
彼の目が、王の反対側に座るフェリシアの方を向いた。
「……皇女……は」
エルノートの口から出たうわ言のような言葉にマレリィが気付き、フェリシアの手を取った。
「フェリシア妃、王太子の手を握ってあげて下さい」
マレリィに引かれ、エルノートの黒ずんだ冷たい手に触れたフェリシアが、小さく悲鳴を上げて払った。
「嫌! どうして……!」
ガタンと椅子を倒して立ち上がったフェリシアの目に、生気のないエルノートの顔が映る。
背に怖気が走り、彼女は目を閉じて叫んだ。
「どうして! どうしてまだ死なないの!」
部屋の中の空気が冷え、誰もが我が耳を疑って、驚愕の表情でフェリシアを見た。
その時、水差しと盥の水が、僅かに波打った。
フレイアの漆黒の瞳を見つめ、エルノートは呟く。
「でも、姉上。フェリシア皇女は、最初から私を見ていませんでした。私には分からないのです。こちらを見ない者を、無理にこちらに向けるべきだったのでしょうか」
フレイアは何も言わず、ゆっくりと姿を消してゆく。
辺りは薄闇に包まれ、エルノートは庭園で一人きりで立っていた。
その身体も、少しずつ薄れていく。
私は、何か間違ったのだろうか。
間違ったから、罰を受けているのだろうか。
王になれず、このまま消えるのが罰だろうか。
……疲れた。
このまま、眠ってしまえば良いのか。
不意に、薄闇に沈んでいた庭園の泉に、澄んだ水が湧き、細い噴水が上がった。
その美しい水の煌めきが、泉から溢れてエルノートの足元まで届く。
まばゆい輝きが目に沁み、彼はギュッと力を込めて瞼を閉じた。
そして、その感触に、まだ生きているのだと知る。
―――まだだ。
まだ私は生きている。
まだ、死ねない。
王城に向おうとしていた一行は、聖女アナリナの指示で、城下のオルセールス神殿に馬を走らせた。
既に街の外周を走っていたので、指示されてから到着までは僅かだった。
神殿の前庭で馬を降りると、神殿に残っていた神官に驚かれながら神殿内に駆け込んだ。
時間が惜しいので対応は護衛騎士に任せて、アナリナはさっさと月光神殿を占領する。
祭壇の間の入り口にはノックスと女神官を残す。
「中から指示するまで、絶対に誰にも邪魔させないで!」
「はっ!」
ノックスが姿勢を正す。
祭壇の間に入ったのは、アナリナとカウティスだけだ。
入り口の扉をしっかり閉めると、二人は祭壇に近付く。
祭壇には、月輪を背負った静謐な月光神の像が立つ。
その前には、月光神の眷族である水の精霊の銀の水盆と、土の精霊の銀の稲穂が置かれてあった。
アナリナは、祭壇脇に常備されている聖水を指差す。
「水盆に注いでて下さい」
「ここでどうするんだ?」
カウティスは指示されたように、水盆に聖水を注ぎながら聞いた。
アナリナを信頼して言う通りにしたが、何の説明もされていない。
「ここから王太子に“神降ろし”を行います」
アナリナは、女神官から渡されていた祭服を着て、身支度を整える。
「ここから? 離れていても出来るのか」
「見えないと出来ません。だから、セルフィーネの目を借ります」
カウティスが険しい顔で振り返った。
「目を借りる?」
「そう。セルフィーネなら、離れていても見えるから」
南部アドホの街で、セルフィーネは貧民街を“見て”、聖女の神聖力を必要とする人々を探し出してくれた。
セルフィーネの目なら、ここから王城の王太子を見られるはずだ。
「だからセルフィーネを降ろしたまま、王太子の姿を捉えて、月光神を降ろします」
アナリナは真剣な顔で、身支度を終える。
カウティスは驚愕し、アナリナの前に立つ。
「“精霊降ろし”と“神降ろし”を同時に行うというのか? そんなことをして、アナリナは耐えられるのか!?」
南部巡教に同行して“神降ろし”を行うところを何度も見たが、あれは相当な苦しみを伴う行為のはずだ。
アナリナはカウティスを睨んだ。
「他に方法がないんです。王太子の容態は、もう、いつ亡くなってもおかしくない。このまま王城に行っても、間に合わないのよ!」
カウティスは息を呑む。
「私はやる! 今、王太子を助けられるのは、世界中に、私しかいないの!」
アナリナは、白い祭服の胸を張り、黒曜の瞳に力を込めて水盆を指した。
「精霊の意識が近い程、“精霊降ろし”の負担が減るわ。カウティスがセルフィーネを呼んで!」
決意の固いアナリナを見て、カウティスは全ての言葉を飲み込んだ。
大きく息を吸うと、紺のマントを翻して水盆に向き直り、両手を水盆に添えて叫ぶ。
「セルフィーネ!」
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