救命 (1)

火の季節後期月、五週三日。



日の出の鐘が鳴る前、まだ東の空に薄く月が輝いているが、火の季節の外はもう随分明るい。

カウティスとラードは宿を引き払い、王城に向けて出発した。



同じ頃、聖女アナリナは、町長と代表の者に別れを告げる。

昨夜、魔術士ギルドから通信が入り、街道分岐点まで王城から迎えが来る事になっていると知らされた。

この町には、今日の午前中に、隣町に置いてきた巡教中の太陽神の神官達がやって来て、引き続き町民達を診てくれることになっている。


「聖女様、参りましょう」

馬に乗り、ノックスがアナリナの後ろから言った。

その声は、昨日よりも強い。

「お願いします」

アナリナの声に、ノックスは馬の腹を蹴った。





日の出の鐘が鳴る。

既に明るくなっていた東の空で、月が太陽に替わるのを、フェリシアは啓示のような思いで、うっとりと眺めていた。


王太子エルノートの容態が悪化し、昨夜から王城は落ち着くことがない。

毒の的を絞ってからは、薬師も神官も解毒と延命に必死のようだが、致死量以上に摂取したハミランの毒は、解毒など出来ない。

侍女の話では、既に呼吸困難に陥っているというから、そう長い時間は保たないだろう。

いっそ、早く楽にしてやれば良いのにとも思うが、自分を苦しめた分、苦しめば良いとも思った。



「ここにいらっしゃいましたか、義姉上」

背後から声がして、フェリシアは振り返る。

そこには、若草色の詰襟の首元を緩め、疲れの滲んだ顔で静かに立ったセイジェがいた。

目の下には薄くクマが浮き、肌は普段よりも白く感じる。

セイジェは昨日、公務の合間に何度かフェリシアを尋ねて部屋に来たが、彼女は取り合わなかった。

侍女を通して、「何も知らない」と返事をしただけだ。


「何をしていたのですか?」

不思議とセイジェの静かな問い掛けに、もう追求は諦めたのかと思った。

「早く目が冷めたので、エルノート様にお花をと思い……」

フェリシアは満開の花々を見る。

生きているエルノートに贈る、最後の花はどれが良いだろうか。

そう考えたフェリシアの手を、不意にセイジェが取った。

何でもない時に手を握られるのは初めてで、思わずドキリとする。

「花は要りません。私と共に、兄上の所に参りましょう」

セイジェはフェリシアの手を引き、歩き始める。

昨日の焦った様子とは、あまりにも違うセイジェの落ち着きに、もしやエルノートはもう命を落としたのかと思った。

しかし、エルノートの部屋に近付くにつれ、部屋の中から感じるバタバタと慌ただしい様子と、漏れ聞こえる声に、そうではないと分かった。

焚かれた薬香と、漂う苦悶の気配に、フェリシアは怖じ気付く。

彼女は掴まれた手を引くが、セイジェの力は緩まない。

フェリシアの侍女が止めようとするが、セイジェの侍従に阻まれた。


「貴女は、兄の下へ行くべきです」

セイジェは歩みを止めず、静かに言う。

「……私は、何も知りません」

「ええ、知らないのでしょう」

部屋の入り口に着き、セイジェはフェリシアの細い両肩を後ろから掴むようにして、部屋の中へ踏み入る。

「毒を受けた者の苦しみも、死を目前にした痛みも」

広い部屋には薬香が立ち込め、数人の薬師が慌ただしく動いていた。

大きな寝台の側には、太陽神の神官が、首から下げた珠を握りしめ、祈りを捧げている。

隣には側妃マレリィが、同じ様にして祈っていた。


寝台に横たわるエルノートが、身体を折って激しく咳込んだ。

離れて見ても分かる程、身体が揺れ、侍従が彼の口元に充てがった白い布に、赤い飛沫が散る。

激しい咳が続き気管が傷付いたのか、それとも毒が肺に影響を与えているのか、咳と共に血を吐くのだ。

侍従が、赤く染まった水と布が入った盥を抱えて、フェリシアの横を擦り抜けて行く。

それを目で追ったのか、エルノートの顔がこちらを向いた。

健康的だった肌は毒素のせいで黒ずみ、唇は乾いて割れている。

明るい銅色の髪が、汗でべったりと貼り付いた額の下に、落ち窪んだ瞳がある。

その薄青の瞳だけは、未だ力を失っておらず、逆にそれが奇妙に浮いて見えて、恐ろしかった。


小さく息を呑んで、後退ろうとするフェリシアの両肩を、セイジェが離さない。

「良く見るのです。貴女が招いた事でしょう」

その両手に力が籠もる。

「私は……知らない……」

「……それでも、貴女は王太子妃だ。王太子の側に行き、最後まで見るのです!」

セイジェが後からフェリシアを押し出す。


フェリシアは、人間が死ぬ瞬間を見たことがなかった。

紛争で人が死ぬのも、事故や病気で死ぬのも、老衰で死ぬのも、彼女にとっては、等しく“命を失う”という事。

本で読み、話に聞いたもので、直接感じたことはなかった。


近付く死の空気と、抗う人々。

祈りに震える声。

今、フェリシアは生まれて初めて見て、感じ、そして恐怖した。

「ひっ……」

エルノートの視線がフェリシアに向けられ、思わず小さく悲鳴が漏れた。

理不尽に命が奪われる事に、全身全霊を以て戦っている、その意志の力に押され、彼女はその場にへたり込む。

「私のせいじゃない……、私は悪くない……」

弱々しく首を振るフェリシアを、セイジェは奥歯を噛んで見下ろした。





カウティスとラードは、前もって手配しておいた中継地点で何度も馬を替え、全速を保って城下に戻った。


午前の一の鐘が鳴ってすぐ王城に入り、前庭で馬を降りた。

手綱を離すと、右手が痛みに震えたが、今は気にしている場合ではない。

新しい馬を用意して待機していた馬番が、すぐに近寄る。

水の入った水筒を受け取り、馬に乗ろうとした時、声がした。

「カウティス兄上!」

「セイジェ」

城の前門から駆け出てきたのは、セイジェだ。

「兄上の容態は?」

「先程から意識が混濁し始めました。もう時間がありません」

セイジェが顔を歪める。

カウティスが歯を食いしばり、馬に跳び乗った。

「急ぎ聖女を連れ帰る。何としても、兄上の命を繋ぐのだ」

ラードが先に駆け出し、カウティスはセイジェが頷くのを見て、馬を蹴った。




アナリナ達は予定通り、午前一の鐘が鳴る頃に街道分岐点に到着し、迎えに来ていた王城の護衛騎士の馬に乗り換えた。

知らない護衛騎士と乗るよりはいいと、馬を替えたノックスが引き続きアナリナを乗せる。

女神官を護衛騎士が乗せ、城下へ急いだ。 


誤算だったのは、アナリナが馬に乗ったことがなかった為に、想像以上の高さと速さ、乗り心地に緊張して、疲労が激しいことだった。

四半刻程走り、城下街の外壁に到着して馬を降りると、足がガクガクと震えてへたり込んだ。

「聖女様!」

女神官が駆け寄り、急いで神聖魔法を施す。



座り込んでいる場合じゃないと、アナリナが心の中で自分を叱咤した、その時だった。

「アナリナ!」

呼ばれて顔を上げると、東の空から降りてくる太陽光に、青味がかった黒髪が照らされたのが見えた。

眩しくて細めた目に、近付く人影が映る。

逆光で表情はよく見えなかったが、アナリナは自分でも驚くほどホッとして、思わず笑みが溢れた。


「どうした、大丈夫か?」

立ち上がろうとするアナリナを、カウティスが支えた。

「大丈夫。馬に乗ったことなくて、ちょっと身体がびっくりしただけです。それより、急いだ方がいいんでしょう?」

カウティスが険しい顔で頷き、馬に乗る。

「ノックス、先導しろ。聖女は私が乗せていく。アナリナ、こっちに」

差し出した左手に、アナリナが右手を乗せると、カウティスは難なく引き上げた。

アナリナはカウティスの前に収まったが、緊張から、途端に身体を強張らせた。


両手で手綱を持って、いざ走り出そうとしたカウティスが、アナリナの緊張した様子に気付いた。

青銀の髪を後ろで束ねて、露わになっている右耳の後ろに、一息、吹きかける。

「ひゃあ!」

珍しく顔を赤くして、アナリナが振り返った。

先導しようとしたノックスも、何事かと振り返り、護衛騎士達も注目する。

「緊張しすぎだ。馬は賢いから君を落としたりしないし、私もちゃんと支える」

「べ、別の意味で緊張したんですけど……」

「?」

女神官を乗せていたラードが、微妙な顔をして片手で頭を抱えるのを見て、両手が塞がっていたのでした事だったが、不味かっただろうかと、カウティスは眉を寄せた。




幾分、緊張の解れたアナリナを抱え、馬を走らせる。

午前の一の鐘を半刻程過ぎて、街には人が溢れている。

大通りを全速で走るのは危険な上、余計な時間が掛かると判断して、距離は延びるが、街の外周を走る事になった。



アナリナは馬上で声を張り上げる。

「王太子の容態は!?」

「半刻前に、既に意識の混濁があると!」

カウティスの答えに、アナリナは顔を曇らせた。

今までに、幾度となく毒に侵された者を見てきたが、どの毒も、意識の混濁が表れてから命を落とすまでの時間は短い。

既に半刻経っているなら、このまま王城へ向かっても間に合わないかもしれない。

心臓が嫌な音を立て、背筋が冷える。

どうすればいい?

“神降ろし”は、対象者の姿を、アナリナの目に映さなければ行えない。

しかし、エルノートは動かすことは出来ず、アナリナが出向かなければ見ることは出来ない。


……見る?

アナリナは、思い付いたことを反芻する。

出来るだろうか?

いや、王太子を助けるには、やるしかない。



「カウティス! セルフィーネは!?」

カウティスは突然の質問に、眉根を寄せた。

「西部にいる!」

決意を込めて、アナリナは声を上げる。

「神殿に向かって! セルフィーネの力を借りる!」






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