前夜

カウティスとラードが、出発の準備を整えたのは、夕の鐘が鳴る半刻前だった。

カウティスの右掌は火傷している為、厚い綿を置いた上に、作業用の革手袋を着ける。

動かしづらいが、そうしなければ手綱を引けない。


マルクはカウティスに薬包を渡す。

「薬師から貰ってきました。痛み止めと解熱剤です」

恐らく馬に乗って走れば、右掌の痛みで熱を持つだろう。

心配に栗色の瞳を曇らせるマルクに、カウティスは声を掛ける。

「昨日から、随分無理をさせたな。マルクのおかげでセルフィーネを引き上げられた。感謝している」

カウティスに軽く目礼をされて、マルクは驚いて口を開けた。

「……私が西部を離れる間、セルフィーネを頼む」

マルクは急いで口を閉じると、真剣な顔で立礼した。


カウティスは、テントを出る前に、水差しの水に向かって言う。

「セルフィーネ、絶対に、もう無理をするなよ」

「カウティスも、気を付けて……」

水が微かに揺れ、心配そうな小声が聞こえた。

セルフィーネは西部に留まらねばならないので、このまま魔力の回復に努める。

カウティスは後ろ髪を引かれながらも、テントから出て行った。





エルノートの症状は、午後になると急激に悪化した。

高熱が続いて、常に呼吸は浅く、水分補給もままならない。

一度咳が出るとなかなか収まらず、解熱剤や気管を広げる薬が処方された。

鎮静効果のあるハミランは使えない為、別の薬香が焚かれる。

神官の神聖魔法で一時的に症状が緩和されるが、解毒は出来ない為、根本的な解決にはならなかった。



「エルノート……」

王がエルノートの部屋を訪れたのは、日の入りの鐘が鳴る直前だった。

マレリィが先に来ていたようで、寝台の側に座り、心配そうに見つめている。

昼に様子を見に来た時には、エルノートは浅い眠いについていた。

今は、神官の神聖魔法で症状が緩和された後で、多少楽になっているはずなのに、寝台に横たわる息子の姿は痛々しい。


「聖女はいつ戻るのだ」

王が侍従に尋ねるが、侍従は顔を歪めて、答えることが出来ない。

訝しがる王に、エルノートが言った。

「要請は、取り消しました」

「何だと?」

「民の為の、聖女です」

少し喋っただけで、息が上がった。

王が息を呑み、震える手でエルノートの手を握る。

「……己の命を何だと思っている? そなたは、次の王になる者なのだぞ!」

エルノートは荒い息を整えながら、出来るだけ強く微笑んで見せた。

「だからこそ、我が為だけに、聖女を奪えません。民は皆、王の、子供、でしょう」

そこまで言って、激しく咳き込む。

侍従がエルノートを支え、薬師が彼を診る。

王は、弾みで離れた息子の手と、やつれた姿を呆然と見つめてよろめいた。



執務室に戻り、王が声を上げる。

「バルシャーク、今すぐに、近衛騎士を向かわせろ! 聖女を迎えにやるのだ!」

騎士団長バルシャークが、日に焼けた顔に焦りの色を浮かべる。

「陛下、それはオルセールス神聖王国への越権に当たるのでは」


オルセールス神聖王国は、フルブレスカ魔法皇国が唯一手を出せない神の国だ。

所属する聖人聖女は勿論、司祭や神官にも不可侵が約束されており、要請はできても強要してはならない決まりだ。

「あくまで要請するのだ」

「陛下、武具を持った騎士が出向いては、強要に当たります」

宰相セシウムが王を窘めるが、王は白いものが混じった銅色の髪を掻きむしる。

「では、誰なら聖女を連れてこられる!? 明後日までは待てぬ……!」

王の苦悩の姿に、誰もが言葉を失う。

彼の脳裏には、恐らくエレイシア王妃の最期が写っているのだ。


その時、魔術師長ミルガンが入ってきた。

「陛下、カウティス王子から通信が入りました。明日の午前の一の鐘に、南部街道の分岐点へ護衛騎士を向かわせるようにと」

全員の視線がミルガンに集まる。

「聖女が戻るので、迎えよと」

王がキツく目を閉じ、両の拳を握って額に押しやる。

「カウティスよ……」





カウティスとラードは、西部入りする時に一泊した宿に、日の入りの鐘で滑り込んだ。

月は美しく青白い光を放ち、気は急くが、翌朝までは待機するしかない。

マルクの予想通り、手綱を持ち続けるとカウティスの右掌はかなり痛み、熱を持った。



宿の一室で痛み止めを飲もうとしていると、ラードが戻って来た。

この街の魔術士ギルドに行って、王城と連絡を取ってきたのだ。

水差しからグラスに水を注ぎ、カウティスに手渡しながら、報告する。

「明日、午前の一の鐘に、南部街道の分岐点に護衛騎士をやるよう伝えました」

カウティスは頷く。

「聖女の動きはどうだった?」

「王子の予想通りでした。城下から一番近い町に移動したようです」

マルクに指示をして、魔術士ギルドの通信で、王太子の状況が聖女の耳に入るようにした。

それから鐘一つでアナリナが移動したということは、やはり、彼女も王太子を助けようという意志で動き始めたのだ。


「……兄上の状態は?」

「かなり悪いようです。毒は確定出来たようですが、やはり解毒は難しいらしく……薬師の診立てでは、明日一日保つかどうかだと」

カウティスはきつく目を閉じた。

何故こんなことになったのだろう。

ほんの数日前には、一緒に笑い合っていたはずだ。


「薬を飲んで下さい。包帯も替えましょう」

ラードの声に、カウティスは目を開く。

痛み止めの薬包を広げて、差し出される。

それを受け取ると、胸の詰まりと共に水で飲み下した。

ここで悩んだところで、何の解決にもならない。

自分がやれることをやるのだ。



「王子は王城で待機ですか?」 

ラードが、カウティスの右手の包帯を外す。

張り付いた布を剥ぐと、外気に晒された掌は針で刺されたように痛んだ。

「王城で馬を替えて、城下まで行く。聖女をけしかけたのは俺だ。王城へは俺が連れて行こう」

ラードは、消毒液をカウティスの掌にかけた。

その激痛に、思わず顔を歪ませる。

「では、途中の街でも馬を替えられるよう手配します。……この手で、走れますか?」

「誰に聞いてる」

カウティスの答えに、ラードが笑う。

「まったく、騎士が利き手を大怪我するとか、笑えませんよ」

「笑っておいて、言うな。剣なら左でも扱える」

剣だけは、いざという時の為に、両手で鍛錬し続けてきた。

利き手には劣るが、左手でも並に戦える。

「いいですけどね。湯浴みの介助だけはしませんよ。野郎の裸洗うなんて、御免なんで」

「こっちが願い下げだ!」

鼻の頭にシワを寄せて吠えるカウティスを見て、手際よく包帯を巻きながら、さも可笑しそうにラードは笑った。



カウティスの右手の包帯を巻き終わり、ラードは立ち上がった。

「馬の手配をしてきます。大人しく休んで下さいよ」

「ラード」

出て行こうとするラードに、思わず呼びかけた。


今の状況で一人だったら、こんなに落ち着いていられなかっただろう。

気が急くばかりで、右往左往しただけかもしれない。

カウティスは、自分を理解してくれる者が側にいるということが、どんなに心強いことだったか思い出した。

「……そなたも休めよ」

振り返ったラードの顔を見ると、何と言えば良いか躊躇われて、カウティスの口をついて出たのはそんな言葉だった。





「聖女様、大丈夫ですか?」

水の入ったグラスを持って、女神官が心配そうに、しゃがみ込んだアナリナの顔を覗き込む。

渡された水を、アナリナは一気に飲み干す。


日の入りの鐘までに、隣町にやってきた聖女アナリナは、神官が一人しかいない小さな神殿で、今日二度目の“神降ろし”を行った。

一日に二度行うのは初めてのことだった。

感覚で、やれば出来るとは思っていたが、想像したよりもずっと消耗した。

降ろす時の痛みも然ることながら、月光神が去った後の体力消耗が酷い。

神聖魔法は使う者の生命力が媒体であるというが、アナリナは正直、“神降ろし”以外では生命力を削られたと感じたことがなかった。

それこそが、特別聖女なのだろうが、今日はその、“特別”の許容範囲を超したようだ。


身体が重く、だるい。

異様に喉が乾き、そして、急に空腹を感じる。

そういえば、急いで出発したので何も食べてなかった。

「何か食べるもの、あるかな?」

何とか身体を起こして言うと、世話役として近くにいた町民が、急いで準備すると言ってくれた。



神殿の敷地内にある居住棟で、休憩するアナリナが、女神官に尋ねた。

「そういえば、どうして王太子の情報を知ることが出来たの?」

「カウティス王子がお知らせ下さったのです。知らせなければ、聖女様が後で傷付くだろうと」

さすがカウティス、とアナリナは軽く笑う。


町民が料理を運んできて、アナリナの前の机に置く。

隣の机には、護衛騎士用の料理も用意された。

「あなた達も食べて下さい」

アナリナが、ノックス達護衛騎士に言う。

ノックスがくすんだ灰色の眉をひそめ、首を振る。

「結構です。喉を通る気がしません……」

護衛騎士二人も、躊躇っている様子だ。

「王太子が心配で、食事どころじゃないってことですか?」

ノックスは答えないが、その様子から肯定と取る。


アナリナは、盛大に溜め息をついた。

苛立ちに、言葉も粗くなる。

「なっさけない。護衛騎士が聞いて呆れるわ。そんなんで、一体誰を護れるの」

「聖女様、お言葉が過ぎます」

ノックスが気色ばむ。

アナリナは少しも気圧されず、ノックスを睨んだ。

「あなたがここでウダウダしてて、王太子が良くなるの? 寝ずに馬を走らせて、王城へ戻れば毒が消える!?」

ノックスが歯を食いしばる。

「甘えないで。寝不足で腹ペコの護衛騎士なんて不安で、そんな人の馬に乗せてもらえないわ。別に乗せてくれる人を探します」

「聖女様!」

怒りを滲ませるノックスに、アナリナが、より一層黒曜の瞳に力を込めた。


「あなたに今出来ることは何? 私は食べて、寝る。回復出来るだけ回復して、明日、王太子を助けるの。私が弱ってたら、助けられないから!!」

本当はいつだって怖い。

自分を頼りにする人は、後がない人達だから。

間に合わなければ、終わりだ。

だからこそ、自分が弱ってはいけないのだ。

動けなくなれば、手を伸ばしても届かなくなる。


アナリナは、パンに齧りついた。

満腹にして、泥のように眠り、明日、日の出と共に出発する。

今は、それ以外は考えない。


女神官がアナリナの隣の席に座って祈り、食事を始める。

拳を震わせ、歯を食いしばっていたノックスが、騎士とは思えぬ荒さで椅子に腰を下ろし、フォークを掴んだ。

護衛騎士二人も、続いて席に着く。



五人は無言で、料理を口に運んだ。







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