セルフィーネは、ベリウム川の底の更に深い所で、泥のような魔力の中に囚われていた。

多くの人間の血が流れ、怒り悲しみ、狂いかけている風の精霊と土の精霊が、彼女を捉えて離さなかった。


彼女は痛みに耐えながら、荒れる魔力を内に入れ、浄化して流す。


« 同胞よ この地を血で穢した 人間への怒りを解け 悲しみに 己を忘れるな »


セルフィーネはひたすらに、水場で幸せそうに笑っていた人々を想い、痛みに耐え、精霊達に働きかける。

本来なら長い長い時間をかけて守護を強めるところを、できる限りの力を以て、護りを広げていった。



そうしている内に、セルフィーネも気付かないまま、目は閉じられた。





フェリシアが受け取った、ザクバラ国の女使者からの個人的な贈り物には、懐かしい皇国の布や香油の他に、ザクバラ国産の宝石を使った装飾品などもあった。


それは、耳飾りの入った小さな宝石箱にあった。


分かりやすくずらされた底板の下には、油紙の薬包が入っていた。

匂いを嗅ぐと、ハミランの香りがする。

開けてみると、ハミランの葉から精製された、鼻から吸い込んで摂取する、粒子の細かい薬粉だった。

添えられた手紙には、当たり障りのない挨拶と、皇国での母の様子などが書かれてあった。

そして最期に、使節団の土産物として、ザクバラ国の蜂蜜を贈ると括られていた。


フェリシアには、すぐに分かった。

これは、人を殺すための物を贈ったのだと。

なぜザクバラの使者が贈ったのか分からないが、フェリシアには僥倖だった。



フルブレスカ魔法皇国の皇族は、過去に毒殺が相次ぎ、皇族の数が激減した。

そこで、皇族に生まれたものには、幼い頃から毒に関する知識を学ばせる。

その身を守るために、誤って口にしてはいけない食物から、植物毒、動物毒、毒感知に関する知識、解毒薬の精製に至るまで。

フェリシアも例外ではなく、知識として頭に入っている。


ハミランは薬効の強い植物だ。

葉は強い鎮静効果を持ち、精製して飲み薬にも、乾燥させて普段からの飲用にも使われ、香料としても有用で、香油や芳香剤として使われる。

だが、薬と毒は紙一重で、ハミランは花が咲ききると毒素を生み、葉も毒を含むようになる。

栽培する場合、蕾が付き次第取り除くことが義務付けられていて、薬用に栽培する地は徹底管理されていた。

それでも裏の世界では、毒として多く出回っているらしい。


しかし、一般に知られていない使い方がある。

真にハミランの毒が恐ろしいのは、薬として使える葉の成分と、毒素を含んでいない蜜を一緒に摂取すれば、体内で毒素を生むという点だ。

その効果は、毒素を含まない蜜を作った者が発見した。


毒素を含まない蜜。

それは、咲き始めのハミランの花からミツバチが蜜を集めて作る、蜂蜜だった。





セイジェは朝から、自室で薬師に診察されていた。

朝起きて、昨夜寝る前から胃が重かったと言ったら、侍女が急いで薬師を呼んで来たのだ。

特に問題はなかったが、セイジェは幼い頃からあまり丈夫な方ではないので、飲み薬を出された。

「エルノート兄上は、大丈夫なのか?」

夕食の席で顔色が悪かったのが気に掛かっていた。

「薬師長が診察しましたが、病ではないようで、過労によるものだろうと言っていました」

「……毒ではないのだな?」

ネイクーン王家は暗殺には縁が薄いが、気に留めておくことは必要だ。

「はい。王太子様は、常に魔術具を身に着けておられますので」

エルノートは、毒感知の指輪を交換時以外に外さないので、毒を含む物を口に運ぼうとすれば分かるはずだ。

「念の為お聞きしますが、セイジェ王子と王太子様が、食事時以外で同じ物を食べられたということは……」

「……そういえば、兄上がいつも休憩で飲まれるお茶を一緒に飲んだ。午前にカウティス兄上も飲んだと聞いたが」

「調べてみます」

薬師は急いで立ち上がった。


すぐに薬師達が、茶葉や蜂蜜に加え、カップやポットまで調べたが、特に何も出なかった。

念の為、カウティスの診察もされたが、体調の悪いところはなかった。




「やはり、西部へ向かうのを少し遅らせましょうか」

カウティスの言葉に、エルノートは眉を寄せる。

「そなたが側にいれば、私の体調が良くなるならそうしてくれ」

突き放すように言われて、カウティスが言葉に詰まる。


薬師の処方した薬の効果か、昨夜よりはマシな顔色のエルノートが、執務室で座っている。

薬師の診察では、過労による体調不良ということで、周囲から散々自室で安静にしろと言われて、幾分機嫌が悪そうに見える。

急ぎの案件だけ処理して休むと言い張ってここに至るわけだが、本当に休むつもりがあるのだろうか。


言葉に詰まったカウティスに、エルノートは小さく息を吐く。

「私の身体は薬師が診る。そなたは、そなたのやるべき事をやれ」

「……はい」

今から西部へ向かうことになっているカウティスは、唇を引き結ぶ。

兄の事も気掛かりだが、西部に留まっているセルフィーネの事も心配だった。

今朝は、日の出前に庭園の泉に行ったが、反応がなかった。


結局、エルノートの言う通り、カウティスが一緒にいても彼の体調に関して何も出来ないので、予定通り西部へ出発した。




午後の一の鐘が鳴って、いつものように、フェリシアが王太子の執務室にやって来た。

カウティスの予想通りエルノートは自室で休んでおらず、執務机の前に座り、難しい顔をして机の上の書類を見ていた。

側には心配そうな侍従が控えている。


「お休みにならなくて良いのですか?」

机の側まで来て、フェリシアが尋ねる。

顔を上げたエルノートの顔色は、あまり良くない。

「もうそんな時間だったか? ……流石にそろそろ引き揚げなければ、後がうるさそうだな」

苦笑して、見ていた書類を揃える。

立っていた侍従が、明らかに安堵した様子だ。


「食欲が無いと聞きました。神官を呼んではどうです?」

昨日借りた本を返し、幾つか質問をしてからフェリシアが言った。

「明日になっても改善しなければそうしよう。心配するな。食が進まないだけで、皆大袈裟だ」

エルノートは溜め息を付いた。

昼は少し食べられた。

やはり胃が疲れているだけで、メニューによっては食べられるのかもしれない。

だが、確かに立ち上がると倦怠感があるので、今日は大人しく休んだ方が良さそうだと思った。


フェリシアが動くと、清涼感のある香りがする。

「その香り、鎮静効果があると言っていたな。確かに、気分が良い」

何気なく、エルノートがフェリシアの頭に顔を近付けた。

フェリシアは反射的に一歩引いてから、ハッとしたように作り笑顔を浮かべる。

「お気に召したなら、薬師に処方させましょうか」

その反応に、エルノートが苦笑する。

「心配せずとも、何もしない」

フェリシアが気不味そうに目を逸らす。


お茶の準備をした侍従が入ってきた。

「飲んで行くか?」

エルノートにそんなことを言われたのは、結婚して半年程ここに通っていた以来だ。

「……いいえ、戻ります」

「そうか」

フェリシアは侍従の横を通って、部屋を出る。

ワゴンには今日も蜂蜜の瓶が乗っている。



もう一度機会が欲しいと宣言してから、エルノートが端々に見せる心配りに、フェリシアは苛立っていた。

今更、優しい態度を見せるなど卑怯だ。

これではまるで、今まで私が努力していなかったが為に、突き放していたようではないか。

そんなことは認めない。

フェリシアは赤みを抑えた唇を噛む。


―――そもそも、もう遅い。

エルノートの体内に蓄積された毒は、既に効果を表し始めている。





カウティスは、ラードとマルクを伴って、夕の鐘が鳴る頃には、西部へ入った。

西部でも、戦禍に巻き込まれていない地域の街だ。

ベリウム川の国境付近は、安心して宿泊出来るような宿屋は無いため、ここで一泊する。

明朝出発して、午前にベリウム川沿いに到着する予定だった。


宿屋の前で馬を降りると、妙な顔をしたマルクが、目を細めて西の空を眺めている。

「どうした、マルク」

ラードが声を掛けると、マルクは顔を顰めた。

「西部に派遣されている魔術士なかまから聞いてはいたんですけど、あの辺の魔力が、何だかおかしいというか……」


カウティスとラードは、西の空を見上げて目を細める。

西に傾いた太陽は、まだ熱気を緩めておらず、眩しくて直視出来ない。

だが、魔術素質のない二人には、いつもと変わらない空に見える。

「おかしい? 何か違うのか」

カウティスの胸に、不安が過ぎる。

「水の精霊様の魔力が広がっていて、キレイなんですけど、その……」



マルクは言いづらそうに一度口を閉じたが、二人の視線に押されて続けた。

「毒々しい色が、滲んでるんです」


カウティスは息を呑み、服の上から、胸の小瓶を強く握った。



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