西部国境

昨日、エルノートは早目に公務を終えて、自室に戻った。

侍従がお茶の準備をした後だったので、普段は公務の休憩でしか飲まないが、自室に戻ってから飲んだ。

仕事に関するものを、王命で全て取り上げられ、仕方なくカウチソファーで寛いで本を読み、夕食はそのまま自室で軽めに摂った。


深夜、気になって様子を見に入った侍従が、エルノートが発熱しているのに気付いた。





朝起きて、深夜にエルノートが熱を出したと聞いたセイジェは、身支度を整え、すぐにエルノートの自室に向かった。


廊下でフェリシアとばったり会った。

エルノートを見舞いに行くところのようだ。

彼女は普段通り、華やかな赤いドレスを着ていて、赤褐色の巻毛を揺らしている。

公務の時間と、区別を付けているのだろう。


「セイジェ王子は、その……、調子が悪いところはありませんの?」

挨拶の後、すぐにそう聞かれて、セイジェは眉をひそめた。

なぜセイジェの体調を心配するのだろう。

今は、エルノートの心配が先に来るべき時だ。

「……私はありませんが。なぜですか?」

フェリシアがフイと目を逸らす。

「いえ。エルノート様が、伝染るような病ではないのかと心配しただけです」

言って、彼女は横を通り過ぎる。

小さな違和感を感じながら、セイジェは後に続いた。



部屋に通されると、寝台に座ったエルノートの腕を、薬師が取って診ているところだった。

「なんだ、朝早くから」

エルノートが苦笑して二人を見た。

彼の顔色はあまり良くなかったが、夜中に解熱剤を飲んだということで、今は微熱程度のようだった。

「今日は神官に診てもらう。心配するな」

笑顔はいつもと変わらないが、寝台にいるエルノートを見たことがなかったセイジェの胸には、不安が膨らむ。


部屋を出てからも、その不安は大きくなる一方だった。

兄のあれは、本当に過労からくるものなのだろうか。

薬師は病ではなさそうだと言うが、本当は大変な病気だったとしたら。

母の痩せ細った姿を思い出し、セイジェは身震いした。


そっと、フェリシアが彼の腕に手を添えた。

セイジェは驚いて彼女を見る。

彼女は微笑んで彼を見上げている。

「心配せずとも、きっと大丈夫ですわ」

咄嗟に、セイジェは初めてフェリシアの手を払った。

「……申し訳ありません。失礼します」

驚いて目を見張る彼女を置いて、そのまま踵を返し、振り返らずに去る。


気味が悪かった。

その真っ赤な唇に、状況に不釣り合いな美しい微笑みを浮かべているのが。

セイジェはそのまま、薬師館へ向かった。





日の出の鐘が鳴る前に、カウティス達三人は宿を立ち、国境地帯へ向かった。


約一刻程すれば復興を必要とする辺りに入ったが、その頃には、何やら空気が悪くなった。

何がどうということはない。

ただ、自分を取り巻く空気が、何となく重く感じるのだ。

それは、カウティスの気のせいではなかったようで、魔術士のマルクは、通常と違う精霊の魔力に気分が悪くなる程だった。

それが原因で、魔術素質のない人間にも空気が悪く感じるらしい。



三人が馬を降りたのは、以前は村だった場所だ。

戦禍に巻き込まれて住人はいなくなり、何年も放置されていた。

休戦協定が結ばれ、国境近くに配備されていた兵士達の多くが、ここを通って中央に帰って行く。

ここが現場での休戦処理の中心で、兵士達の撤退を終えれば、復興の拠点になるだろう。


「実際、ここに来て体調を崩したり、兵士同士で妙に揉めることが多かったりしたようですよ」

ラードが言った。

いつの間に情報を仕入れていたのか、国境地帯の様子に詳しい。

「それでも四、五日前から、随分マシなようです。確かに、聞いていたよりは魔力の色が濁ってないな……」

マルクが周囲を見回してから言った。

魔術士館では、各地に派遣している魔術士と、風魔術の通信で定期連絡を行っている。

西部には、土魔術に特化した魔術士を優先的に派遣していて、作業魔術士として堤防建造に協力していた。

彼等からの定期連絡では、この一帯は酷い魔力の色になっていたらしい。


精霊の魔力には、それぞれ色がある。

水の精霊は薄青。

火の精霊は赤。

土の精霊は緑。

風の精霊は黄。

世界は、それらの魔力が薄く広がり、互いが干渉し合いながら成り立っている。

魔術素質の高いものには、世界に広がる魔力の層や流れが見えるというが、カウティスには少しも見えない。

見えないから気にしていないが、世界に当たり前に存在するという精霊魔力は、やはり全てに於いて密接に繋がっているのだろう。



「四、五日前……、セルフィーネが西部に来た頃からだな……」

「そうだと思います。ベリウム川のあの辺り」

カウティスの呟きに、マルクが頷いて川を指差す。

疎らに木々が生えた先に、今は流れの落ち着いているベリウム川が見える。

「一帯に、毒々しく濁った魔力が集まって水面に降りていってます。でもよく見ると、水中から、澄んだ魔力が僅かに溢れ出てるんです」

「つまり?」

ラードが、訳が分からないという顔で問う。

マルクは手振りを加えて説明する。

「つまり、水中に留まっている水の精霊様が、周辺の濁った魔力を取り込んで、綺麗にしてから外に出しているのだと思います」

カウティスは眉根を寄せる。

「浄化しているのか……」


水の精霊が留まっているだけでも、護りが働いて様々な恩恵を受ける。

南部では以前、砂漠化が抑えられたし、気温の急激な上昇も止まった。

他の地域でも、魔獣の出現数が減るなどの報告がある。

だが、セルフィーネは留まるだけではなく、西部を早く鎮めようとしているのだろう。


「これと似たような空を、見たことがあります」

マルクが言いづらそうに、栗色の瞳で上目に言った。

「似た空? どこでだ?」

「……フォグマ山です」

カウティスの背に、冷たいものが走った。

「十三年半、水の精霊様がフォグマ山で眠っておられた時、こんな風に赤黒い魔力を取り込んで浄化されていました。ただそれは、何年も経ってから魔力の変化で分かったことで、こんな目に見えて分かるような急激なものではありませんでした」

あの頃のマルクが見たのは、季節一つ、二つと過ぎるごとに、フォグマ山の上に渦巻く赤黒い魔力が、山を抱きしめるように広がった水色と薄紫の魔力を通り過ぎて、澄んだ赤に変わっていく光景だった。

今のベリウム川は、それを早回しで見ているかのようだ。


「無理をしている……」

セルフィーネは、自分は精霊だからと感情を抑え、役割を果たそうとする。

しかし、カウティスはもう知っている。

彼女が人間と同じ様に、多くのことを感じ、豊かな感情を持っていることを。

エスクトの街で、くるくると表情を変えて幸せそうに笑っていたのを思い出すと、胸が痛んだ。



「二日前から反応がないのだ。セルフィーネの身に、何か起きているのではないかと思う」

不安に、カウティスの声が自然と低くなる。

反応がないのはセルフィーネが目を閉じているか、意図的に無視しているかだが、そんなことを彼女が望まないと信じている。

「王子からは呼び掛けられないんですか?」

ラードが自分の胸を指差した。

カウティスは藍色の騎士服の上から、胸のガラスの小瓶を握り、首を振る。

「彼女が目を閉じていなければ出来るが、閉じているのだとしたら、声は届かない」

カウティスは奥歯を噛みしめる。

「せめて、無事なのが分かれば良いんだが……」


いつもこうだ。

こちらからは手を出せない。

せめて、自分に魔術素質があれば、彼女の魔力を見ることくらいできるのに。

こんな時は、魔術素質の高い者が恨めしい。


思わずマルクを見ると、気持ちが目に籠もっていたのか、彼がビクリとした。

「何か手はないのか、マルク」

魔術や魔力に関しては、全く手を出せないラードが、腕を組んでマルクを見る。

二人からの視線を受け、冷や汗を垂らしながら、マルクは栗毛の頭を掻く。

「ええーっと……、あー……、今は水の精霊様の目が閉じてて、通信不可……」

何やらあれこれ頭を捻っていたが、ふと、思い付いたように顔を上げた。

「……とにかく、王子の声が届けばいいんですよね?」

「出来るのか!?」

カウティスとラードが向き直る。


「風の魔術で通信出来るのは、簡単に言えば音が空気を振動させるからなんですが、水中でも、水の振動で音を伝えられるはずなんです。だから、通信の魔術符を応用すれば……」

「さすがマルクだ! 頼む!」

「お前、天才だな!」

説明中に、二人に両肩を強く掴まれ、マルクは舌を噛みそうになった。

暫く会わない内に、この二人の息が妙に合っているのは気のせいだろうか。



「出来るかどうかは、やってみないと分かりませんよ! それに魔術陣も組み直さないといけないので、すぐには無理です。時間を下さい」

「どのくらい掛かる?」

カウティスの食い気味の問い掛けに、マルクは眉を寄せ、指を折って考える。

「明日の午後…………あ、朝までには何とかしてみます!」

“明日の午後”と言った瞬間の、カウティスの表情に気圧されて、マルクは期限を早めた。


今晩は、眠れないかもしれない。





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