不穏 (後編)
午後、カウティスはラードを伴って魔術士館へ向かう。
ラードは、昨日王城に帰ってすぐ使用人棟の別棟に部屋を用意されたが、昨夜は城下の街に出ていたようだった。
カウティス個人が付けた従者なので、王城の中にいるとき以外は、規則に縛られない。
「王子はちっとも、一所に落ち着かれませんねぇ」
休戦処理が終われば復興業務に就くため、西部へ向かう事を話すと、ラードが呆れ気味に言った。
「現場で動く方が、性に合ってる」
「まあ、知ってましたけど」
ラードが肩を竦めて笑う。
「それで、一度視察に行く。俺が西部にいた頃から二年以上経っているし、色々と状況も変わっているだろう。明日出られるように準備してくれ」
「分かりました」
魔術士館は、図書館の近くに立っている、黒灰の石造りの建物だ。
今日も忙しそうに、魔術士達が出入りしている。
「魔術士を連れて行くんですか?」
「ああ。通信できれば早い対応が出来る。俺達の補佐も出来る者を一人選んで、魔術師長に許可を取る」
入り口をくぐれば、中は魔術で心地良い微風が吹いている。
二人が奥の魔術師長室に向って歩いて行くと、廊下沿いの部屋から出てきた緑のローブを着た魔術士が、明るい声を掛けた。
「カウティス王子。あれ? ラードさんもいる」
短い栗毛で、同じ色の垂れ目を瞬いて、驚いたように言ったのは、南部辺境警備で一緒だったマルクだった。
カウティスとラードは目を合わせる。
「……決まりましたね」
「そうだな」
何のことか分からずキョトンとして見ているマルクを、二人は魔術師長室まで連行した。
午後になって、フェリシアは自室で昼食を摂り、化粧を直す。
王太子の執務室に午後通うのは、今日で四日目だ。
王太子妃と王妃の公務については、殆どマレリィと文官達に教わるが、慈善事業についてはエルノートの方が詳しいと聞き、それについて教えを乞いに通っている。
名目上はそうだが、距離を縮めようと努力しているように見せるのが一番の目的で、エルノートも分かっていて付き合っているのだろう。
努力する者には寛大だという、エルノートらしい心配りだった。
午前と同じ様に薄化粧を施すと、フェリシアは鏡台の前の小さな宝石箱を開ける。
小振りな耳飾りが入ったその箱の、更に底を開けると、隠された小さな薬包を出した。
指先でそっと開けると、粒子の細かい半透明の粉が出てくる。
それを、髪やドレスに満遍なく振り掛ける。
その粉は触れるとすぐに馴染み、見えなくなった。
フェリシアの身体に付着して、新緑のような、清涼感のある香りを放つ。
午前に付けていた香油は、この薬粉の元となる葉を使った物だった。
薬粉を振るのは、午後に、エルノートの執務室に行く前だけだ。
王の執務室にセイジェが訪れたのは、午後の一の鐘が鳴って、半刻程経った頃だった。
「セイジェ」
王が執務机の椅子から立ち上がって、出迎える。
セイジェの側に寄ると、肩を叩いた。
「随分顔色が良くなったな。調子はどうだ?」
セイジェは、ここ暫く着ていたような薄衣ではなく、若葉色の詰襟を着ていて、臙脂色のマントを付けて凛々しく立っている。
「もう大丈夫です。ご心配をおかけしました、父上」
息子のその様子に、王は軽く目を見張る。
ずっと、どこか諦めたようだったセイジェが、今日は前向きな目をしている。
「それで、今日はどうした」
王の問い掛けに、セイジェはしっかり顔を上げて答える。
「ザクバラ国には、予定通り私が参ります。それを伝えに来ました」
乳母の件があって、セイジェをザクバラ国にやるのは難しいのではないか、という声が、貴族院の面々から上がっていた。
セイジェが伏せってからは尚更だった。
王子をザクバラ国に送るのは、エルノートの即位を待ってから、水の季節の予定だ。
半年以上先の事ではあるが、セイジェの気持ちを慮ると、このまま話を進めて良いものか王は内心躊躇していた。
ところが、今、本人が行くと言う。
「本当に、良いのか?」
王は恐る恐る、といった風に聞く。
セイジェは父王の顔を正面から見た。
「兄上達は、私が王配に相応しいと言って下さいました。父上も、そう思って下さいますか?」
「勿論だ」
王は即答したが、明るい銅色の眉を下げて、寂しそうな表情になる。
「……セイジェ、そなたはエレイシアそっくりだ。顔立ちもそうだが、その素質も、立ち振舞も。母は素晴らしい王妃だったのだ。そなたも、必ずそういう王配になれると私は思っている」
王はセイジェの側頭に掌を置き、その親指でそっと撫でる。
「大きくなったな……」
「父上……」
王は目を細めてセイジェを見つめる。
懐かしい物を見るような、優しい瞳だった。
セイジェは、父もまた、ずっと自分を見守ってくれていたのだと感じ、胸が温かくなる。
「……しかし、エルノートは何故いつもいつも、私が言いたいことを先にそなた達に言うのだろうか」
不満気に口を歪める父王に、セイジェは明るく笑った。
エルノートは王太子の執務室にいると聞き、セイジェは王の執務室を出て、その足で兄の元に向かった。
執務室に通されると、机の端に資料らしきものが広げられ、その横に濃緑のドレスを着たフェリシアが立っていた。
セイジェが入室したのに気付き、驚いたように顔色を変えた。
セイジェもまた、義姉の普段との雰囲気の差に驚いた。
噂には聞いていたが、王妃教育に真剣に取組んでいるのだと、感心する。
エルノートが奥から読み込まれた本を持って出てきた。
「ああ、セイジェ。すまない、少し待ってもらえるか」
言って、フェリシアの前に持って来た本を開く。
「お忙しいようでしたら、また改めて参ります」
「いや、それ程かからないから、待っていてくれ」
セイジェの言葉に、エルノートは笑顔で答えてソファーを示す。
セイジェは頷いて、柔らかい濃紺のソファーに腰を下ろした。
エルノートが、机の上の資料と開けて置いた本を示してフェリシアに何か話しているが、彼女はソファーに座っているセイジェが気になるのか、集中出来ない様子だった。
「……明日まで資料をお借りしても良いですか? 自室で読み込んで参ります」
「ああ、構わない」
広げていた資料を纏めると、本と一緒に抱えてフェリシアは俯きがちに早足で扉に向かう。
入り口近くの壁際に控えていた侍女に、持っていた資料を渡そうとして、数枚がはらりと落ちた。
ソファーの近くに滑ってきた一枚を、セイジェが拾い上げ、フェリシアに渡す。
「ありがとうございます」
気のせいか、軽く一歩引いて受け取ったフェリシアから、清涼感のある香りがして、セイジェは深く吸って微笑む。
「この香りは、ハミランの葉ですか?」
フェリシアは身体を強張らせた。
「……ご存知なのですか?」
「ええ、鎮静効果があるとかで、病の時に薬師に処方されました」
ハミランという植物は、強い鎮静効果のある薬草で、葉を主に薬剤として使用されるが、その香りから香料としても活用される。
生命力が強く、葉を取った後、根を残して肥料を与えると、新しい茎を伸ばす。
「そうですか。すっきりするので、昼間使っているのです」
フェリシアが微笑んで侍女に資料を渡し、軽く膝を曲げて挨拶すると、部屋を出て行く。
部屋を出るとすぐ、前から侍従がお茶の用意をしたワゴンを運んで来た。
脇に避けて頭を下げる侍従の横を通りながら、フェリシアは蜂蜜の入った丸い小瓶を横目で見る。
まさか、セイジェ王子はあれを飲んだりしないだろうか……。
エルノートが仕事に切を付けて、ソファーに座った。
「公務中なのに、中断させて申し訳ありません」
「いや、ちょうど休憩するところだった」
二人が話していると、侍従がワゴンを運んできた。
「兄上。私はザクバラ国に参ります。誰かの代わりではなく、私なりのやり方で、ザクバラに交わろうと思います」
セイジェが穏やかな顔で言った。
エルノートはセイジェの決意を受け止め、深く頷いた。
「セイジェなら、私の代でザクバラ国とネイクーン王国の仲立ちが出来るのではと、期待しているのだが、どうだ?」
企んだような言い方をして、侍従がカップにお茶を注ぐのを見ているエルノートに、セイジェは思わず失笑する。
「何だ? 本気だぞ」
「いえ。もうそこまで考えておられたかと、感服致しました」
眉を上げるエルノートに、セイジェは答える。
「ご期待に添えるよう、励みます」
自分の事を本気で信頼してくれているのだと感じ、セイジェは自然と笑みが溢れた。
柑橘の香りが辺りに広がり、エルノートはいつものように、蜂蜜を一匙、カップに垂らす。
「これは気に入っている。入れるか?」
「では、少しだけ」
“ザクバラ国産”と札の付いた瓶から、セイジェは半匙程蜂蜜を垂らす。
酸味を邪魔しない、スッキリした甘さだ。
何かを思い出したのか、エルノートが口元に拳をやって肩を震わせる。
「午前にカウティスに飲ませたら、驚くほど入れていたぞ」
「カウティス兄上は、かなり甘党ですからね」
思い当たる節があって、セイジェも笑う。
お茶を飲む間、二人は、過去にカウティスの甘い物好きに驚いた話で盛り上がり、楽しい時を過ごした。
ずっと遠くに感じていた兄と、こういう時間を過ごせたことが、セイジェは嬉しかった。
この日も、エルノートは吐き気を催して夕食を中座した。
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