不穏 (前編)

西部では、ベリウム川に沿って隣国ザクバラ国との国境がある。

幅広い川の向こうは、隣国だ。



セルフィーネは、強く弾かれてベリウム川の底から外に出された。


ベリウム川の勢いを抑えることを目的に、西部に来た。

しかし、西部はどこへ行っても血の匂いがして、苦しい。

特に川沿いの国境地帯は血の匂いが濃く、火の精霊の勢いに加え、風の精霊が狂いかけていて、突風がよく吹いた。

これを抑えることが出来なければ、復興に先駆けて堤防を造ることは難しいだろう。


これまで両国共に復興が進んでいないのは、小競り合いが続いていたことも理由の一つだが、堤防建造が滞っていることが大きい。

建築技術と魔術の併用で建造される堤防だが、ベリウム川の氾濫で建造途中に壊れる事も過去にはあった。

水の精霊を西部に留めるのは、長期間ベリウム川を抑えることで、集中的に建造を進めるのが狙いだった。



南部でカウティスと分かれて、四日経つが、未だセルフィーネは、魔力の中に潜りきれていなかった。

南部で地中深くに潜ろうとした時に感じた違和感が、もっと大きくなっている。

入り込もうとすれば、強く弾き出された。

何故、精霊達は私を弾こうとするのだろう。

人間の流した多くの血によって、狂いかけているのが原因なのか。


« お前は 変化している 

 気をつけろ 人間に関わりすぎれば 

 我等と共にいられなくなるぞ »


フォグマ山で、火の精霊に言われた。

“変化”とは何だろう。

私の何が変わってしまったというのか。

入れないのは、それが原因なのか。

セルフィーネは躊躇していた。

無理矢理にでも入り込もうとすれば、狂いかけていている精霊に引きずられないだろうか。

怖い、怖くてたまらない。



………カウティス。助けて。



ゴウという突風の音に、我に返った。


今、私は何と思った?

精霊が、己を案じて人間に助けを求めようとは……。

こんなことは今でまなかった。

これが、火の精霊の言う“変化”なのか?


彼女は大きく首を振る。

アドホで水の精霊に、花を捧げた少女の笑顔を思い出す。

エスクトの街で、皆が幸せそうに笑っていた水場を思い出す。

西部の人々に、あの光景を見せてやれるようにしなければ。

私は水の精霊だ。

己の役割を捨てて、存在してはならない。


彼女は決意して、荒れるベリウム川に飛び込んだ。

痛いほど激しく抵抗を感じたが、決して弾き出されまいと力を込める。

意識を保ち、流されないよう、慎重に少しずつ潜っていく。


そうして、混沌の魔力が渦巻いている、底へ底へと降りていった。





火の季節の後期月も、終わりに近付いたが、日差しが和らぐことはない。

内庭園の腰掛けの上で、僅かな風に、日除けの緑と薄緑の布が柔らかく揺れていた。


セイジェは今朝、自室で朝食を軽く済ませ、内庭園に降りていた。

穏やかに朝を向かえて、ここに来るのは何日ぶりだろうか。

腰掛けに座れば、目の前には黄色の花が満開で、小さな花弁を揺らしている。

乳母のソルに蕾を渡したものが、今満開なのだ。


昨夜、エルノートに自分の存在を肯定されてから、ずっと心臓がうるさい気がする。

それなのに、心はとても軽い。

自分は“予備”の王子で良いと言いながら、本当は押し込まれ続けた気持ちがあったのだろうか。

誰かに、お前はお前で良いのだと、ずっと言ってもらいたかったのかもしれない。


黄色い花が、風で揺れる。

「ソル、どうか許してくれ。私はやっぱり、ザクバラ国に行くよ」

セイジェは穏やかな声で呟いた。



誰かの足音がしてそちらを向くと、満開の花の小道から、フェリシアがやってきた。

「セイジェ王子」

セイジェを見付けて、足早に近付く。 

「お加減はもう良いのですか?」

赤紫のドレスに赤褐色の巻毛を揺らし、華やかな笑顔で、セイジェの隣に滑り込む。

「はい、義姉上。……先日は、お恥ずかしい姿を見せてしまい、申し訳ありません」

ソルが亡くなった日の夜、ここで無様な姿を見せたことを思い出し、セイジェは恥ずかしそうに目線を下げた。

「そのような。私はむしろ、弱いところを見せて頂けて嬉しかったですわ」

フェリシアがにっこりと笑って、セイジェの腿に手を置いた。

「ありがとうございます」

既婚女性にしては寄り過ぎる接触に、セイジェは笑顔でやんわりと手を取って腿から下ろし、立ち上がった。


「そういえば、最近の義姉上は、講義にも意欲的になられたと聞きましたよ」

セイジェが花に触れながら言う。

「……この国で生きていくと、決意したのです。遅いと笑わないで下さいませ」

拗ねたようにそっぽを向くフェリシアに、セイジェは柔らかく微笑む。

「きっと、遅いなどということはないですよ。どのような時に気付きがあるかは、人それぞれでしょうから」

セイジェ自身も、昨日初めて、心の奥にしまい込んでいた物を見付けたばかりだ。

「ええ、そうですね……」

フェリシアはセイジェの微笑みを見つめる。



「エルノート兄上も、お喜びですね。お二人が並び立って即位式に臨むのが、今から楽しみです。とてもお似合いでしょう」

元々二人が並んで立つと、最初から一対であったかのように、よく似合う男女だった。

そこに愛情や親しみが生まれれば、完璧な王と王妃だろう。

二人が並び立ち、王と王妃として民の前に姿を見せれば、皆が熱狂するに違いないと思った。


しかし、フェリシアから帰ってきたのは、固い声だった。

「……本気でそうお思いなのですか?」

「はい。……義姉上?」

フェリシアはドレスの端を握りしめて、セイジェを恨めしそうに見た。

そしてくるりと踵を返す。

「何でもありません。戻ります」


フェリシアの後ろ姿を見ながら、セイジェは首を傾げた。

何か、気に障ることを言っただろうか。



フェリシアは、侍女を引き連れて部屋に戻った。

沐浴をして、花の香りや、髪につけている香油の残り香も全て洗い落とす。

そうして、落ち着いた濃緑のドレスに着替え、薄く化粧をする。

「フェリシア様、そのように唇を噛まれてはいけません」

侍女の言葉にはっとして、唇を緩めた。


セイジェの言葉が恨めしい。

エルノートを排除するまでは、フェリシアが彼に歩み寄って、王妃になるために努力していると思わせなければならない。

しかし、セイジェに“お似合い”と言われて、そうではないと叫びたかった。


私を蔑ろにし、無下に扱ったエルノートに、ほんの僅かでも心を寄せるものか。

必ず後悔の中で息絶えさせてやるのだ。

彼の最期を想像して、フェリシアは心を落ち着ける。


化粧が終わると、新緑の香りがする香油を僅かに馴染ませて髪を編む。

午前はマレリィや文官達と、講義やネイクーン貴族社会、王妃の公務、振る舞いについて学ぶ。


そして午後には、王太子の執務室を、必ず訪れる。





カウティスとエルノートは、王の執務室から王太子の執務室に移動したところだ。

王の執務室の続き間を使うようになってから、両方の部屋を行き来することが多い。

どちらかに纏めてしまえば手間がないような気はするが、エルノートは王太子と王の公務は線引しておきたいらしい。


「西部に行く際に、魔術士を一人付けたいのですが、構いませんか」

カウティスが聞く。

風魔術に堪能した者ならば、風魔術による通信が使える。

「構わん。魔術士館に行くなら、ミルガンに渡しておいてくれ」

エルノートが答えて、紙の束を差し出す。

カウティスが受け取っていると、侍従がお茶を運んできた。

爽やかな柑橘の香りが漂う。

「一息ついて行かないか。甘い菓子はないが」

エルノートが笑い含みに言う。

「何時でも甘味を食べているわけではありません」

カウティスが顔を顰めたが、侍従も近衛騎士も、若干笑っている。


ソファーに座って、エルノートは侍従が入れたお茶に、丸いガラス瓶から一匙、蜂蜜を垂らした。

ガラス瓶の首のところには小さな札が付いていて、“ザクバラ国産”と書かれてある。

ザクバラ国の北部は養蜂業が盛んで、蜂蜜の生産量は大陸一だ。

カウティスも瓶を受け取って、匙を手に取る。

やや薄めの色をした、サラリとした蜂蜜だった。


「使節団が持ってきた土産物らしい。クセがなくて、好みの味だ。…………カウティス、どれだけ入れた?」

エルノートが眉を寄せる。

瓶の蜂蜜が随分減っている。

「……お気になさらず」

カウティスはスプーンでくるくると混ぜると、コクリと飲む。

このくらい蜂蜜を入れなければ、エルノート好みのお茶はカウティスには酸味が強いのだ。


「それでは蜂蜜の味しかしないだろうに」

素知らぬ顔をしてお茶を飲むカウティスを見て、エルノートがくっくっと楽しそうに笑った。




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