兄弟の思い (後編)
暫くして、少し目を赤くしたセイジェが、照れくさそうに顔を上げた。
セイジェは何かを思い出すように、窓の外に視線を向けながら言う。
「子供の頃から、私が落ち込んだり寝込んだりすると、引き上げてくれるのはいつもカウティス兄上でしたね」
「そうか? 私はいつもここに来て、そなたと一緒に菓子を食べたいだけだったかもしれないぞ」
カウティスは少し恥ずかしそうに笑った。
自分にとってのエルノートのような兄になりたいと、セイジェの世話を焼いていたのは確かだ。
自分に懐いてくれて嬉しく、度々体調を崩すセイジェの見舞いに通ったが、その度に持って行ったのは菓子や果物だった憶えがある。
「でも、菓子と一緒に、いつも本を持って来て下さったでしょう? 外に出られない私は、あれで随分救われたのですよ」
なかなか外に出られず、室内に閉じこもりがちな生活の中、カウティスが持って来てくれる本は、日々の楽しみだった。
種類も色々で、世界地理に始まり、植物図鑑、冒険譚、歴史、空想物語、魔術式学など、いつもその時期に適していて、少し頑張れば読み切れる程度の本を選んでくれていた。
あの日々があったからこそ、本が好きになり、病で学ぶ機会が少なかったセイジェでも、独学で本から多くを学ぶことが出来たのだ。
しかし、カウティスは鼻の頭を指で掻いて、苦笑する。
「それは私ではなく、エルノート兄上だ」
「え?」
想像もしていなかった答えが返ってきて、セイジェは目を瞬く。
「私がセイジェの見舞いに行くと言うと、兄上が本を選んで下さっていたんだ。『今のセイジェなら、これくらいは読めるはずだ』と、毎回渡して下さった」
セイジェは驚きのあまり、考えていた事が口に出た。
「エルノート兄上は、私にはあまり関心がないと思っていました……」
「エルノート兄上は、今も昔も、そなたをとても大事に思っておいでだよ」
驚いた顔のままのセイジェを見て、カウティスは眉を下げて小さく溜息を付いた。
エルノートはカウティスを可愛がってくれたが、同母の弟であるセイジェを、同じように気にかけていた。
その証拠に、セイジェの体調の良し悪しや、勉学の進み具合はどうで、今どの程度の本が読めて、何に関心を持ちそうかなど、カウティスが知らないことを把握していた。
だが、歳も離れ、会うたびに気後れした様子を見せる弟に、自ら近寄ることは控えていたように思う。
「兄上は本当は、そなたをザクバラ国にやりたくなかったはずだ。だが、両国の今後を考えて、そなたを選んだ」
セイジェが自嘲気味に首を振る。
「選んだなんて。私は、カウティス兄上の代わりに過ぎません。ザクバラ国だって、兄上を望んでいたのですから」
「向こうが私を望んだのは、自国の血が入った王子だという理由だけだろう。次期ザクバラ国女王の王配に、私とセイジェのどちらかをというなら、当然、我が国の誰もがそなたを推すだろう」
「勿論です。皆、カウティス兄上をネイクーンに残したいでしょうから」
セイジェは伏せ目がちに言う。
カウティスは呆れたように、口を開ける。
「そうじゃない。王配に相応しいのがセイジェだからだ」
「……相応しい? そんなわけありません」
セイジェは緩く首を振る。
自分が王配に相応しいから選ばれたなんて、考えられない。
優秀な兄達の代わりになることでしか、表舞台に出ることはない“予備”なのだから。
カウティスはセイジェの肩に、手を置く。
「物腰柔らかで目配りがきき、状況判断が出来て周囲の雰囲気を和らげ、支援できる。……そなたはそういう者だ。正に、王配に相応しい素質だろう。私にはとても難しい」
セイジェは顔を上げる。
カウティスは困ったような顔で笑っている。
そんな風に評価されたことはなく、一瞬よく理解出来なかった。
「でも……兄上は水の精霊との繋がりがあって、我が国から出すわけにはいかないからと…」
セイジェが言うので、カウティスは渋面になった。
「大方、貴族院の者にでも聞いたのだろう? 確かに私と水の精霊の繋がりを重要視する向きもある。だが、もし私が国から出されても、ネイクーン王族がいる限り、この国の水源は枯れない。そういう契約だ。それに」
カウティスはふと、柔らかく笑んだ。
「彼女は私がいないからといって、国を護ることをやめるような、そういう
夕食は、約一ヶ月ぶりに大食堂で摂った。
王と、マレリィ、エルノート、フェリシアが揃う。
フェリシアは髪を下ろし、昼間よりも華やかなドレスを着ていた。
セイジェは自室で夕食を済ますと報せがあったので、五人での食事が始まる。
カウティスが久しぶりに戻ったので、南部の様子や、聖女の巡教の話題が中心に食事が進む。
「エルノート様?」
給仕の声に、皆の視線がエルノートに集まった。
エルノートは、手にしていたフォークを置いて、ナプキンで口を覆っていた。
「どうしました?」
マレリィが声を掛け、侍従が近付くと、エルノートはナプキンを下ろして手を振る。
「申し訳ありません。今日は少し、喉を通りにくいようで……」
見れば、やや顔色が悪いようにも見える。
「それはいかん。薬師を呼べ」
王が侍従に指示を出す。
「少し横になられた方が良いのでは?」
「大事ありません。しかし、今日はもう下がらせて頂きます。先に席を立つ非礼をお許し下さい」
マレリィの言葉に、エルノートが微笑んで立ち上がる。
「私も参ります」
隣の席のフェリシアが食事を終えようとするのを、エルノートが止める。
「良い。ゆっくり食事しなさい」
エルノートとフェリシアは、相変わらず事務的な距離を保って見えたが、一時期のフェリシアの棘々しい雰囲気はなくなっているようだ。
昼間、王太子の執務室をフェリシアが訪れていたことといい、王城を空けている間に、何かあったのかもしれないとカウティスは思った。
カウティスも手早く食事を終えようとすると、エルノートに笑って釘を刺される。
「そなたも後で心配して来ぬように。戻ったばかりなのだから、今夜は休め。主命だぞ」
言い返す間もなく、エルノートは大食堂を出て行った。
エルノートの自室に、セイジェがやってきたのは、日の入りの鐘が鳴った少し後だった。
エルノートの自室は白茶を基調に、実用性重視の家具が揃う。
壁二面には、どっしりとした書棚が並び、細かく分類された本が整然と並んでいた。
「驚いたな、そなたが私の部屋に来るのは、初めてではないか?」
セイジェが部屋に入ると、嬉しそうに笑ってエルノートが言う。
日の入り後も気温は高いが、エルノートは窓を開けて外の風を入れていた。
「そなたには暑いな。閉めてくれ」
侍従に指示し、セイジェにソファーに腰を下ろすよう勧める。
侍従が窓を全て閉めて、バルコニーに出るガラス戸の上に魔石をはめると、魔術送風具から心地よい涼しさの微風が流れた。
兄のこういう気遣いが、嬉しかった。
「執務室に行ったら、兄上が体調を崩されて、自室に戻ったと聞いて……。大丈夫なのですか?」
セイジェが心配そうに聞くと、エルノートが笑った。
「大袈裟に言ったな。最近の疲れで胃の調子が悪かっただけだ。もう平気なのに、今日はもう公務はやめて自室に戻れと、皆が執務室を追い出したのだ」
エルノートが侍従を軽く睨むと、侍従は目線を逸らす。
「……ですが、まだ仕事をされているのでは」
机の上に、魔術ランプと資料らしき本が開かれているのを見つけ、エルノートを上目で見ると、彼は眉を上げた。
「自室で何をするかは、私の自由だろう」
セイジェは軽く吹いた。
侍従が冷たい果実水を持って来て、グラスに注ぐ。
氷が揺れるのを、セイジェは見つめる。
「何か用があったのか?」
「え、……あの……」
改めてエルノートに聞かれ、セイジェは何をどう話したらいいのか、躊躇った。
セイジェの様子を暫く見ていたエルノートが、目を伏せて口を開いた。
「セイジェ、そなたの乳母を奪うことになって、すまなかった」
思わぬ謝罪を受けて、セイジェは弾かれたように顔を上げた。
「兄上のせいではありません」
「そなたをザクバラ国にやると、強く推したのは私だ。結果的に苦しむ者を生んでしまった」
エルノートは目を開いて、薄青の瞳でセイジェをひたと見る。
「だが、ザクバラ国に行くのは、やはりセイジェ、そなたが適任だと思う。困難もあるだろうが、どうか呑み込んで欲しい」
ここでも“適任”などと言われ、セイジェは驚いて目を見張った。
どうしても聞きたかったことが、ようやく言葉になって出てくる。
「……私は、カウティス兄上の代わりに行くのではないのですか?」
エルノートは盛大に眉根を寄せた。
その仕草は父王にそっくりだ。
「王配などという役割を、簡単に誰かが代われるものか」
「しかし、カウティス兄上は国から出せないから、と……」
政略婚の話を聞いた時、誰もがそう言った。
しかし、エルノートは更に眉間のシワを深くする。
「それはそうだろう。
カウティスに対する散々な評価に、セイジェは驚いて口を開けた。
「私はそういうカウティスが好きだが、王配には向かない」
きっぱりとエルノートが言い切った。
セイジェの胸の内に固まっていた物が、徐々に小さくなり、その最後の欠片を、彼は声を絞り出すように吐き出した。
「では……では、私は誰かの代わりに生きるのではないのですか……?」
ずっと、思うようにならない身体を支えていたのは、せめて尊敬する兄達の“予備”として、役立てるような者になるという決意だけだった。
「馬鹿を言うな!」
思いの外強い兄の言葉に、セイジェは身体を震わせる。
セイジェを見据える兄の薄青の瞳には、強い力が籠もっていた。
エルノートが、セイジェの白く細い手を強く握る。
その手はとても熱い。
「セイジェは、セイジェだ。代わりに
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