離愁

神殿に帰ると、門番に門を開けてもらい、二人で前広場に入る。

月光に照らされて、水飛沫を輝かせる噴水の泉に、セルフィーネが立っていた。




「ありがとう、アナリナ。素晴らしい体験だった」

「良かったわ」

セルフィーネは微笑み、アナリナは満足気に答えた。

水の精霊の魔力がどれ程消費されるかと心配していたが、殆ど変わりない様子だった。

人間の身体を動かすというのは、魔力はあまり関係ないのかもしれない。


「私はもう行かねばならない。アナリナの巡教が、恙無つつがなく終えられるよう願っている」

セルフィーネの言葉に、アナリナは頷く。

「ありがとう。一度城下に戻るから、その時にまた会えたら嬉しいわ」


聖女は南部の巡教を終えれば、一度城下に戻り、オルセールス神聖王国の指示を待たねばならない。

セルフィーネは何も言わずに、微笑む。

西部へ向かうことは、まだ内々の話なので言えなかった。

一年間西部にいれば、その間に聖女は別の国に行くだろう。

もしかしたら、会えるのはこれが最後なのかもしれない。

「じゃあ、またね、セルフィーネ」

アナリナは手を振って、噴水から離れた。




カウティスは、アナリナが神殿の中に入るのを見届けてから、噴水に向き直る。

「セルフィーネ」

手を伸ばすと、彼女が白い手を添える。

もう、さっきまでのような手触りはない。


セルフィーネが、躊躇いがちに尋ねた。

「……口付けしたのか?」

彼女が少しだけ目を逸らすので、カウティスは急いで否定する。

「していない。…………すまない、もしかして、嫌だったのか?」

カウティスの唇が触れる前に、セルフィーネはアナリナの身体から出てしまった。

もしかして、口付けしようとしたことが嫌で、戻ってしまったのだろうか。


セルフィーネはふるふると首を横に振る。

何度も振るので、長い髪がふわりと広がった。

「アナリナの身体だと思ったら、自然に抜け出てしまった」

彼女は目を逸らしたままだ。

「私が望んで身体を借りたのに、カウティスがアナリナに触れるのが、……嫌だと思ってしまって……」

逸らした瞳が潤んでいるのに気付き、再びカウティスの鼓動が早くなった。

「俺もそうだよ」

囁くような声に、セルフィーネが静かに視線を戻せば、彼は噴水の縁に片膝を付いている。

「他の人の身体だと思うと、出来なかった」


カウティスが両腕を広げるので、セルフィーネは足を踏み出し、その胸に寄り添う。

「……セルフィーネ、そなたに口付けしたい。良いか?」

囁くように、低い声で言われて、セルフィーネは顔を上げる。

熱を帯びた青空の瞳で見つめられ、胸の奥が熱く、疼いた。

彼女は潤んだ紫水晶の瞳を、ゆっくりと閉じる。

彼女の淡紅色の薄い唇に、カウティスは今度こそ、そっと唇を落とした。

実体のない口付けだった。

それでも、カウティスは唇に仄かな温もりを感じた気がした。




「魔術調印は無事終わったようだ。これから、西部へ向かう」

セルフィーネがカウティスに寄り添ったまま言った。

カウティスは奥歯を噛み締める。

「……分かった。目は閉じるなよ」

セルフィーネが国内の目を閉じさえしなければ、お互いに無事であることは確認できる。

セルフィーネがコクリと小さく頷く。

カウティスの腕の中で、細い髪がサラサラと揺れた。

「息災で」

彼女はカウティスに向けて薄く微笑むと、姿を消した。

噴水に出来ていた水柱が、パシャリと音を立てて落ちる。


一人残されたカウティスを、青白い月光が照らしていた。





翌日の午前、ザクバラ国の使節団は帰国した。

ネイクーン王城に、日常が戻ってくる。


これからは休戦処理や、西部の復興に力を入れていくことになる。

土の季節の収穫祭や、年末年始の行事、年が明ければエルノートの即位式も近付き、王城では、王や王太子を始め、貴族院や官吏、魔術士達も、気を緩める間が無い程の忙しさになりそうだった。


エルノートは、王太子の執務室で、柔らかい濃紺のソファーに腰を下ろした。

短く切り揃えた、明るい銅色の髪を掻き上げる。

ここ数日は、平常を心掛けていたとはいえ気が張る事も多く、食事もゆっくり摂れなかった。

午前に使節団を送り出し、ようやく人心地付いて、戻ったのがこの場所だ。


王の執務室の続き間で、即位に向けて父王の実務を共に行うようになったが、長年王太子としての公務を行っているこの部屋が、何といっても一番落ち着く。

今でも、王太子としての公務の細々としたことはこの部屋で行っていた。 

毎日休む自室よりもここが落ち着くというのが、エルノートらしい。



侍従がお茶を運んできて、辺りに柑橘の香りが漂った。

お茶の横には、蜂蜜の入った丸い透明の小瓶が添えられている。

彼がこの部屋で飲むのは、決まってこのお茶だ。

乾燥した柑橘が入った、酸味の強いこのお茶が彼の好みだった。

疲れを感じるときは、このお茶に一匙の蜂蜜を垂らす。

甘い物が苦手な彼が、唯一好んで口にする甘い物だった。


エルノートはお茶を一口飲んで、息を吐く。

「昼食は軽くで良いから、ここで摂れるようにしてくれ」

侍従に指示を出す。

今日は一人で手早く済ませて、溜まった書類に目を通したい。




カップのお茶を飲み干して、ソファーから立ち上がると同時に、侍従からフェリシア王太子妃の来室を告げられた。


部屋に入ってきたフェリシアは、裾に黒い刺繍が入った青紫のドレスを着て、赤褐色の髪を後ろで束ねている。

今までの華やかさとは、少し雰囲気が違うようだった。

香りさえ、いつもは濃く甘い香りの香油を使っているが、今は、新緑のような清涼感のある香りがした。

何か思い詰めたような顔をして、やや視線を下に落とし、白い羽根の付いた扇をキツく握っている。

輿入れして半年程は、エルノートから色々教わろうとこの部屋にも通っていたが、最近では部屋の前を通ることもなかったはずだ。


「ここに来るとは、珍しいな」

エルノートの言葉に、フェリシアは唇を噛んで顔を上げた。

「もう一度、機会を頂きたいのです」

「……皇国に帰るのでは?」

思いもよらなかった言葉に、エルノートは薄青の瞳を眇めた。

てっきり、離縁して皇国に帰ると宣言しに来たのかと思ったのだ。

「……祖国に私が帰る場所はありません。ご存知なのでは?」

僅かな怒りを滲ませて、フェリシアがツンと鼻先を上げた。


フェリシアが、フルブレスカ魔法皇国の皇帝に向けて手紙を送り、返事がきたことは知っていたし、その返事に彼女が憤慨していたのも知っている。

おそらく、望む返答が得られなかったのだろうとは思っていたが、王族の手紙に検閲を通さないネイクーン王国では、詳しい内容は分かるはずもない。

だがフェリシアは、エルノートが内容を知っていると思っていたようだ。


「本物の王太子妃に……王妃になる機会を、もう一度頂きたいのです」

“本物”という言葉に、エルノートは小さく溜め息を付いた。

「今も偽物ではないだろう」

突き放した言い方をするエルノートを、フェリシアは睨む。

「お飾りの王妃は嫌なのです! 例え貴方が側妃を迎えようとも、お飾りになるのだけは嫌なのです」

自尊心の高いフェリシアらしい言い様に、エルノートは思わず笑ってしまった。

「今更と思わないのか?」

「……でも私は、今、覚悟を決めたのです。エルノート様は、努力する者を排除したりしないはず」


随分都合の良い主張ではないかと、エルノートは少し呆れた。

しかし、フェリシアの瞳には決意の色がしっかりと浮かんでいて、本気のようにも見える。

さて、何が彼女をその気にしたのだろうか。

祖国には帰れないということだけが、理由だろうか?


疑問は浮かんだが、今は流すことにする。

少なくとも彼女の言葉に、嘘は感じられない。

正直、この多忙極める時期に、新しい王太子妃や側妃を選ぶだけでも煩わしい。

即位の時に、それなりに形になった王妃がいてくれるなら、それはそれで有り難いことだ。


「確かに、努力する者は嫌いではない」

エルノートが言う。

「貴女の本気がどれ程のものか、見せてもらうとしよう」


フェリシアは、赤褐色の瞳に強く決意を秘めて、エルノートを見つめ、扇を握りしめる。

口にした言葉に嘘はない。

私は必ず、正当な王太子妃に、王妃になる。


―――但し、その時私の隣に立つのは、お前エルノートではない。


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