夢の終わり

高台から見える時計塔で、日の入りの鐘が鳴った。

西の空で、太陽が月に変わる。



「ありがとう、カウティス。私の我儘に付き合ってくれて」

セルフィーネが立ち上がり、柵に凭れる。

高台に吹く風は、日中の暑さがまだ残っている。

「何もかも楽しくて、夢のようだった」

彼女は柵の下のオアシスと、その向こうに続く砂漠の方を向いていて、表情は見えない。

「本当に人間になったようだった……」


「……人間になりたいと思っていたのか?」

カウティスが聞いた。

アブハスト王時代の手記には、セルフィーネが実体を望んだと書かれてあったが、カウティスには信じられなかった。

セルフィーネは後ろ姿のまま首を横に振る。

日除けのフードが、風を孕んで膨らむ。

「一度も思ったことがない。私は精霊だ」

キッパリとした答えだった。

「……アブハスト王に実体を望まれて、身体を与えるから妃になるよう言われたことはある」

カウティスは思わず立ち上がる。

「なんだそれは」

「私が拒絶した後に、王は王妃と側近達に弑された。……でも」

セルフィーネは、柵を持っていた手を離し、見つめる。

「人間が、好意を持った相手に触れたいと思う気持ちは、今になって理解出来たかもしれない」

セルフィーネが肩越しに振り返る。

日除けのフードを被っているので、片目がチラリと見えただけだった。

「カウティスから伝わる熱は、とても心地良かったから」


カウティスは後ろから近付き、セルフィーネを懐に抱く様に、左右の手で柵を持った。

この身体はアナリナのものだ、俺が抱き締めてはいけない。

そう思う自分と、セルフィーネが仮にも実体を持っている今、彼女にこの熱を伝えたい、と思う自分がせめぎ合っていた。




背中にカウティスの熱を感じ、振り返ることができないまま、セルフィーネは目を閉じて呟く。

「一年、西部へ留まることになった」

「……父上に頼まれたのか」

柵を握るカウティスの手に、力が籠もる。

セルフィーネが小さく頷く。

「国境地帯の復興に必要なのだと」

魔術調印式の前に、水の精霊の声を聞かせるというのも、休戦協定に必要だったということだろう。

カウティスは奥歯を噛み締める。

結局人間は、強い力や特別な何かを持っていれば、使わずにはいられないものなのだろうか。


「…………怒らないでほしい」

小さな声で言われて、カウティスは我に返った。

考えに沈み、黙り込んでいたことに気付く。

「怒ってない。……あんなに嫌がっていたのに行くということは、最終的には、行くべきだとセルフィーネが判断したのだろう?」

カウティスは一度息を吐く。

「ただ、そなたを守ってやれない自分の力のなさが、悔しいだけだ……」



セルフィーネは水の精霊で、人間の自分が代わりになることは出来ない。

強くなって守ろうと努力しても、こんな時にどう守ってやれるだろう。

どんなに足掻いても、手が届かない気がして、もどかしい。


―――それでも、突然の別れで、泣いて叫ぶだけだった頃には戻らない。

二度とあんな風に諦めはしないと、誓ったから。



「……悔しいけど、セルフィーネを止めることは出来ないから、俺は出来るだけ西部の復興の手助けになるよう動くよ」

「え?」

セルフィーネがそっと振り返る。

小柄なアナリナの身体では、カウティスの顔を見上げる形になる。

「セルフィーネが少しでも早く、王城に戻れるように。西部の民が、早く日常に戻れるように。俺は、俺の立場で出来ることをやる」

カウティスは、普段の騎士服よりも開いた襟元から、銀の細い鎖を引いて、ガラスの小瓶を出す。

それをセルフィーネに見せて、そっと握った。

「心はずっと、一緒にいるから」



不意に、セルフィーネがカウティスの身体を抱き締めた。

背中に回した手で、彼の白いシャツを握る。

「カウティス。あの日、私を見つけてくれて、ありがとう」


王城の庭園の隅に隠された、小さな泉。

薄闇に沈んでいたセルフィーネの中に、軽い足音と共に、投げ入れられた小さな赤い光。

それを受け止めたあの日から、少しずつ、少しずつ、世界が変わってきた。

笑顔を向けられる喜びも、共にいられない寂しさも、寄り添う時の愛おしさも、全てカウティスが教えてくれた。


「カウティスに出会えて、私は幸せだ」

これから先、何があっても、それだけは決して変わらないだろう。



カウティスは、セルフィーネをそっと抱き締めた。

心臓が、痛いほど強く鼓動を刻む。

抱き締めた小さな身体からも、早い鼓動を感じた。

伝わるのは、確かにセルフィーネの心だ。

下を向くと、カウティスを見上げたセルフィーネの瞳と視線がぶつかる。

紫水晶の美しい瞳が、真っ直ぐにカウティスを見つめている。

その白い頬に骨ばった大きな手をそっと添えれば、彼女の瞳が揺れ、熱を帯びて潤んだ。

カウティスは、彼女の細い顎を掬い上げ、顔を寄せる。

息がかかるほどに近付いた時、セルフィーネが潤んだ瞳をゆっくりと閉じた。



カウティスは、瞬間、小さく息を呑んだ。

瞳の閉じられた彼女の顔を見て、顎に添えていた手を離し、顔を逸らした。


この身体は、セルフィーネではないのだ。




「……なーんだ、残念」

背に回されていた手が緩み、添っていた身体が離れる。

自然とカウティスが一歩下がって視線を戻せば、柵に背中で凭れたアナリナが、小首を傾げてこっちを見ていた。

その大きな瞳は、黒曜のような輝きだ。


「アナリナ」

カウティスは、驚きに目を見張る。

「セルフィーネは、出ちゃいました。神殿に戻ったんだとは思いますけど」

アナリナは言って、肩を竦める。


カウティスは、長椅子に座って項垂れた。

「あと少しだったんですけどね」

彼女は、自分の薄い桃色の唇を指で突付いた。

「……見ていたのか?」

「いいえ? 目が覚めたら、カウティスに抱き締められてて、顔が側にあっただけです」

カウティスはバツの悪い顔をして、フードを引き下ろす。

顔は上半分が完全に隠れてしまった。

「すまない、君の身体だった。分かってたはずなのに……」

始めは混乱していたのに、いつの間にか、話し方や仕草で、セルフィーネにしか見えなくなっていた。

「セルフィーネは強い魔力の塊ですから、少し影響を受けたんでしょう」

“神降ろし”の時でも、近くにいる者が何かしら影響を受けることがある。



アナリナはカウティスの隣に腰掛ける。

月と共に、星が輝き始めた空を見上げた。

「セルフィーネが人間だったら良いのにと、思いましたか?」

「……それは意地が悪い質問だ」


もしもセルフィーネが人間だったなら、と思ったことがないわけではない。

だが、もし彼女が人間だったら、あんな風に出会わなかっただろう。

出会わなかったなら、“もしも人間だったら”なんて、考えることもない。

“もしも”の話は、ただの空想だ。

結局は、今自分が出来ることを、最善に向けて精一杯やるだけなのだ。

自分が愛しいと思うのは、人間ではなく、水の精霊なのだから。




「神殿に帰ろう。アナリナの身体に負担はなかったか?」

カウティスが立ち上がって、隣に座っていたアナリナを見下ろした。

「降ろす時に、苦しかっただけです。後は、寝ていたみたいな感じで」

アナリナは座ったまま答え、手を差し出した。

カウティスは当然の様に、アナリナの手を取って引き上げてくれたが、彼女がしっかり立ち上がると、すぐに手を離した。

歩き出したカウティスの背中を見て、アナリナは口をへの字にする。


本当は、夢を見てたみたいに、所々見えた。

抱き上げられて歩いた街路。

心から楽しそうに笑った彼の顔。

大通りを歩く間、大事そうに握られた手。



「私の手は、すぐ離しちゃうんだなぁ」

何故かアナリナの胸は、チクリと傷んだ。




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