精霊降ろし
南部エスクトの街のオルセールス神殿では、前広場の噴水で、カウティスと聖女アナリナが会っていた。
アナリナは予定通り、午後からは休息になっていて、カウティスの同行を条件に、お忍びで街に出ても良いことになっている。
勿論、以前城下の街へ出掛けた時のように、青銀の髪の毛を全部隠す。
後ろでしっかり縛って、南部でよく使われている大きめの日除けフードを被り、袖口の広い白の薄衣を着ている。
ズボンは、砂地仕様に裾を絞ってある幅の広い物を履いていた。
カウティスも騎士服ではなく、傭兵がよく着ている首元の広いシャツで、上にやはり日除けのフードを被る。
夕の鐘が鳴る。
「セルフィーネ、来ませんね」
アナリナがカウティスの胸元を見て言う。
神殿の敷地内とはいえ、まだ日の入りでないので、噴水でなくカウティスのガラスの小瓶に来るはずだ。
「王城で何かあったのか……?」
カウティスが眉根を寄せる。
「ところでカウティス、どうしてそんなに落ち着かないんですか」
噴水の縁に腰掛けたアナリナが、呆れ気味に言う。
四半刻前にアナリナが来た時には、カウティスはもうここで待っていて、それからずっと、噴水の縁に腰掛けたり立ってみたり、噴水の周りをぐるぐる歩いたり、とにかく落ち着かないのだ。
今も、あっちへ数歩、こっちへ数歩と、行ったり来たりしている。
「……逆に聞きたい。アナリナは何故そんなに落ち着いてるんだ」
カウティスが半眼になってアナリナを見る。
アナリナは、フードを揺らして首を傾げた。
「私は、いつもとやることは変わりませんからね。……まあ、少しドキドキします」
彼女は噴水の縁から、カウティスを見上げる。
「セルフィーネが私に入って、カウティスに触れたら、どんな風に感じるんだろうって……」
この手で、セルフィーネはどんな風に彼に触れるんだろう。
その時、彼はどんな顔をするんだろう。
アナリナがあまりにも見つめるので、カウティスは何となく気不味くて目を逸らした。
「……あ、言っときますけど、ヤラシイことしないで下さいね」
「するかっ!」
カウティスの緊張を見て取って、アナリナが茶化すと、顔を赤くして目を剥かれた。
その顔が可笑しくて、アナリナが笑っていると、涼しい声がした。
「楽しそうだな」
「セルフィーネ」
カウティスの左胸の辺りに、小さなセルフィーネが姿を現す。
「遅くなった」
いつもと変わらない様子のセルフィーネに、カウティスが聞く。
「遅いので心配した。王城で何かあったのか?」
「魔術調印式の前に、皆に声を聞かせるよう頼まれたのだ」
何でもない事のように言ったセルフィーネに、カウティスが眉を寄せた。
「調印式に、何故セルフィーネが?」
「……詳しいことは、また後で話そう」
セルフィーネが薄く笑んだ。
彼女がそう言うなら、本当に後で話すつもりなのだろう。
カウティスは、今は聞くのを止めることにした。
三人は神殿の前広場の門から出て、エスクトの街に出る。
神殿の敷地内で“精霊下ろし”をしては、神官達に気付かれてしまう。
そこで街に出て、巨大なオアシスへ繋がる南へと向かった。
街の南に繋がったオアシスは観光地として人気で、他所から来た者が多く訪れる。
火の季節の今は、特に日の入りの鐘が鳴ってから訪れる者が多いので、今の人通りはそれほど多くなかった。
街を囲む壁は、オアシスに繋がるところで途切れ、そこから更に先に見えるのは砂漠の砂地だ。
カウティスとアナリナは、壁の途切れたところから街の外側へ出た。
足元は、石灰色の石畳の街路から、茶味の薄い砂に変わる。
カウティスは左胸のセルフィーネを見る。
何も言わず、ただ彼の胸に添っているのは、彼女も緊張しているのかもしれない。
そしてアナリナも、街の中を抜ける間、殆ど喋らなかった。
「この辺でいいですね。……セルフィーネ、本当にやるのね?」
足を止めたアナリナが、確認する。
小さなセルフィーネが、カウティスの左胸でコクリと頷く。
「セルフィーネ……」
カウティスが呼ぶと、彼女はカウティスを見上げ、薄く笑んだ。
カウティスの正面にアナリナが真っ直ぐに立って、深呼吸を二度すると、目を閉じた。
周囲の空気が変わる。
カウティスの左胸からセルフィーネが消え、同時にアナリナが己の身体を抱き締めて、前のめりになる。
彼女の顔に脂汗が滲み、キツく目を閉じて軋むほど歯を食いしばり、痛みに耐えているのを、カウティスは身動き一つ出来ずに見守った。
カウティスは今回の巡教で“神降ろし”を何度か見たが、いずれの時も強大な力に圧倒され、金縛りのように動くことは出来なかった。
アナリナが突然、身体の強張りが取れてその場に膝を付いた。
日除けのフードが剥げて、首の後ろに落ちる。
同時に、カウティスも周囲を支配していた圧力から開放された。
砂の上に手をついて、肩で息をしているアナリナに声を掛けようと、カウティスが彼女の側に寄る。
「……!」
声を掛ける前に、そっと顔を上げたアナリナの瞳を見て、カウティスは息を呑む。
青銀の前髪の間からカウティスを覗いたのは、紫水晶の瞳だった。
カウティスは、声を出せずに見守った。
彼女は座り込んだまま、辺りをゆっくりと見回す。
大きな紫水晶の瞳を目一杯見開いて、周りの物を唯一つも見逃さないように。
そして一周回って、カウティスの顔に、ひたと視線を止めた。
「……カウティス」
彼女が微笑んで名を呼んだ。
その声は確かにアナリナの声なのに、呼び方が全く違った。
顔形もアナリナの物なのに、目を細めて柔らかく微笑む表情が別の物だ。
「…………セルフィーネ?」
彼女は小さく頷いて、笑みを深くする。
それは確かにセルフィーネだった。
アナリナの身体に、間違いなくセルフィーネが入っている。
セルフィーネが、そっと両手を持ち上げた。
掌に付いた砂が、サラサラと零れ落ちる。
その指で、自分の腕をなぞると、呟く。
「柔らかい……」
カウティスはその場で動けずに、身体の感触を確かめるセルフィーネをただ見つめていた。
アナリナの姿だが、セルフィーネなんだと分かる。
だが、手を伸ばすのは躊躇われた。
「セルフィーネ」
カウティスが側に膝をついて、小さく名を呼んだ。
セルフィーネはカウティスを見て、自分の腕に触れていた手を、彼の顔に伸ばす。
その指先が、カウティスの日に焼けた頬に触れた。
ピクリと身体を震わせて、セルフィーネが目を激しく瞬いた。
柔らかい指先が、何かを確かめるようにカウティスの顎の方へ降りていく。
「……カウティスは、温かいのだな」
紫水晶の瞳を細めるセルフィーネの、その頬に手を伸ばそうかとカウティスが逡巡したその時、突然声が掛けられた。
「あんた達、座り込んで大丈夫か?」
弾かれたようにカウティスが顔を上げると、見回りの衛兵らしき男が、壁の終わりの所からこちらへ出てくるところだった。
「街の外壁沿いでも、軽装で砂漠へ出るのはおすすめしないぞ」
「大丈夫だ。もう戻る」
衛兵が近付いてくるので、カウティスはセルフィーネを隠すように移動して、彼女の首の後ろに落ちていた日除けのフードを被せた。
立ち上がって、セルフィーネに手を差し伸べる。
彼女は出されたカウティスの手に、躊躇いがちに右手を乗せる。
カウティスがその手を引いて立ち上がらせると、彼女は上手く足を動かせなくてよろけた。
咄嗟にカウティスが、すくい上げるように彼女の身体を横抱きに抱き上げる。
小柄で軽い身体は、あっさりとカウティスの腕の中に収まった。
衛兵の目から逃げるように、カウティスは大股で街の中へ戻る。
セルフィーネは、そっとカウティスの胸に手を添え、過ぎてゆく街並みを瞬いて見ていた。
人の目で見る世界は、何と色彩豊かで、賑やかなのだろう。
いつもセルフィーネが見ている世界は、四大精霊の魔力が薄く混じり合って広がっていて、全ての輪郭がごく僅か滲んで見えていた。
全てがはっきりとしていて、鮮やかに見えるこの世界が、とても眩しい。
そして、カウティスから感じるこの熱は、何と心地よいのだろう。
これが“触れる”という事なのだろうか。
セルフィーネは、カウティスの胸に添えた手の横に、そっと頭を傾ける。
彼の速い鼓動が聞こえて、紫水晶の瞳を閉じた。
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