休戦協定

日の出の鐘が鳴る前、まだ月が薄っすらと見えているが、火の季節の空は明るくなってきている。



南部辺境警備所の訓練場に、兵士が数人出てきた。

太陽が出て気温が上がる前に、自主訓練を行うためだ。

雑談しながら訓練場に入ると、誰もいないと思っていたのに、一人で剣を振っている人物がいる。

「カウティス王子?」

白いシャツ一枚と黒いズボンで、愛用の長剣を振っていたのは、カウティスだった。


集中していたカウティスは、声を掛けられて我に返り、剣を下ろす。

「早いですね……って、え! 王子、いつからやってたんですか?」

南部辺境警備に就いていた時の顔見知りだった兵士は、カウティスの汗の量を見て驚いた。

髪の毛がぺったりと顔に張り付いて、白いシャツも肌が透けるほど汗を掻いている。

早朝鍛練を欠かさない人だと知ってはいたが、今日のそれは、いつもとは違うようだった。


「……夜中に目が覚めてから、眠れなくて」

カウティスが耳の上辺りを掻きながら、気不味そうに笑う。

「ああ、会談の状況が気になりますよね」

「そうだな……」

ザクバラ国との会談は、今日が最終日だ。

午前の会談で、合意か決裂かが決まる。

辺境警備に配属されている魔術士の通信で、予定通り会談が続いていることは聞いているが、内容などは勿論外部に漏れるはずもなく、状況は分からないままだ。



曖昧に濁して、カウティスは訓練場を出る。

確かに会談の状況も気になる。

だが、カウティスが夜中に起きてから眠れなかった理由はそれではない。

今日、セルフィーネがアナリナの身体を借りる約束をしている。

改めてそれを思い出すと、緊張に似たものが込み上げてきて、眠れなくなってしまったのだ。


「いや、俺は、見守るだけなんだから……」

そんな独り言を言って、水を浴びに行く。

水場に着いてシャツを脱ぎ、手桶に水を汲もうとして、湧き水が溢れている水栓を見た。

サラサラと音を立てて、澄んだ水が流れるのを見て、セルフィーネの流れる髪の毛を思い出す。

鼓動が速くなり、頬に血が上る。

カウティスは口元を手で覆い、一人狼狽える。

「俺は、何でこんなに緊張してるんだ」


触れたいと願った彼女に、本当に触れられるのだろうか。

いや、身体はアナリナなのだから、触れたことにはならないだろう。

夜中に起きてから、カウティスは頭の中で、そんな堂々巡りを繰り返していた。


はー、と大きく息を吐けば、首から下げているガラスの小瓶が揺れて、銀の細い鎖がシャラと音を立てる。

夜中に起き出したので、小さな魔石は部屋の窓際に置かれたままだ。

日の出の鐘が鳴り、月が太陽に変わる。

カウティスは、空の小瓶を太陽に透かした。

細かな彫りの入ったガラスの小瓶は、陽の光を複雑に反射して、美しく光る。

今日も熱くなりそうだった。





会談最終日。

午前の五回目の会談で、両国は合意した。

夕の鐘の刻に、魔術調印が行われる。



「父上、本当に水の精霊様を西部へ行かせるのですか」

執務室に戻るなり、エルノートが詰め寄る。

王は緋色のマントを外して侍従に渡し、疲れ切った溜め息をつく。

「復興が何より優先だ。ベリウム川を今抑えねば、何にも手を付けることが出来ん」

襟元を緩め、王は革張りの大きな椅子に身体を預ける。

「しかし、水の精霊様が西部に留まっていれば、国境で恩恵の差が出てしまうのでは? 新たに争いを生むかもしれません」

「ではどうする!」

王が机を掌で叩いた。

その瞳に苦悩が滲んでいる。

「後の憂いを案じて、今苦しんでいる者を放っておくか?」

エルノートが、言葉に詰まった。

「ザクバラ国が、あれほど休戦を望んだのは初めてだ。何か裏があるのかもしれぬ。だが、今回はそれに乗る。休戦と復興が第一だ。違うか!?」

王は睨むようにエルノートを見た。


実際、リィドウォルが昨日受けた傷は、小剣すら握ったことのない女が刺したにしては、深すぎる傷だった。

だが、ネイクーン王国の者が使者を害したのは事実で、城下に神官を連れに走り、あれ程騒ぎが大きくなってしまっては、箝口令も敷けない。

それでも会談の続行を望んだザクバラ国は、とにかく休戦を望んでいると周知させた形になった。


十三年半前の災厄以降、ネイクーン王国は各地で多くの我慢を強いてきた。

その最たる場所が、西部だ。

フォグマ山を含む北部には、優先的に救済にあたってきたが、西部には行き届いていないのが現状だ。

ザクバラ国と共同で復興にあたれる機会が、次にいつ訪れるか分からない。

水の精霊が戻り、ようやく明るい兆しが見えてきたのだ。

今、優先的にやらねばならない。

「そなたが即位すれば、いずれにせよ、そなたがやらねばならない事だ」


王の強い言葉に、エルノートは一度目を閉じると、深く息を吸って自分を立て直す。

「……分かりました。呑み込みます」

そう言ったエルノートは、既に普段の空気に戻っている。

「ですが、父上。カウティスへの報告は、父上からお願い致します」

「…………。」

黙る王を、エルノートは冷ややかに見下ろした。




炎天下の庭園の泉に、花壇の小道を歩いてやってきたのは、マレリィだった。

細身の紺のドレスを纏い、蝶の形の髪飾りをつけたマレリィは、気温の高い日中だというのに、どこか涼し気に見える。


侍女を花壇の縁に待たせ、マレリィは泉の側まで来ると、姿勢良く立ったまま声を掛ける。

「水の精霊様」

一拍おいて泉に水柱が立つと、美しい人形ひとがたが現れた。

「マレリィ妃。そなたが呼ぶとは、珍しい」

セルフィーネは水色の細い髪をサラサラと揺らし、マレリィを見つめる。

マレリィは胸に掌を当て、スカートを摘み、女性の立礼をする。


挨拶を終えたマレリィは、漆黒の瞳を瞬いて、セルフィーネを見上げる。

柔らかい生気を帯びたその姿は、別の場所にいる生きた人間を写しているようだった。


「此度も水の精霊様に助力を頂くことを、心苦しく思っております」

マレリィは両手を腹の前で合わせて、背筋を伸ばしたまま、やや目を伏せる。

「……それが私の役割だ」

セルフィーネは感情の乗らない声で答える。

「いつ、西部へ向かわれるのですか?」

「魔術調印前に、ザクバラ国使節団が、私が直接了承するのを聞きたいのだとか。故に、それより後になる」

精霊は嘘をつけない。

魔術素質の高い者ならば声が聞けるので、直接水の精霊が約束をするところを見れば、使者も安心できるといったところだろうか。



「もしや、カウティスに黙って行かれるおつもりでは?」

不意にマレリィに問われ、セルフィーネの瞳が揺れた。 

「……なぜ?」

「今朝の様子を見て、もしやと思ったのです。……以前よりも、とても感情が表に出ておられますので」

マレリィが声を落として言った。

セルフィーネの目線が逸らされ、躊躇いがちに白い手が胸元で握られる。

やはり、とマレリィは思った。

「なぜ、黙って行くおつもりなのですか?」

セルフィーネは逸らしたたままの目を閉じ、呟くように言った。

「……カウティスに行くなと言われたら、行けなくなってしまう……」

その心細い声に、マレリィは驚き、目を見張る。

あのガラスの人形のようだった水の精霊が、これ程に生気を帯び、カウティスを想ってまつ毛を揺らす様子は、まるで少女のようだ。


「それでも、どうか伝えてやって下さい。母として言わせて頂けるなら、カウティスは十三年間、多くを耐えてきました。水の精霊様と再会出来て、今ようやく心から笑えているのです。黙って行かれては、きっとあの子は悲しむでしょう」

マレリィは、腹の前で合わせていた両手に力を込める。

「言わなければ伝わらない事は、多いものです。どうか、カウティスが他から聞くのではなく、水の精霊様が直接伝えてやって下さい」

セルフィーネは目を開け、マレリィと見つめ合った。




魔術調印式は、夕の鐘の刻に謁見の間で行われる。


鐘が鳴る前、謁見の間では、護衛騎士イルウェンを除く、正装したザクバラ国の使節団と、ネイクーン王国の王族と貴族院が揃う。

調印式に先駆けて、王が美しく彫りの入ったガラスの水盆の前に立った。

「水の精霊よ」

王の呼び声に、一拍おいて小さな水柱が立つと、ザクバラ国使節団から小さく感嘆の声が上がった。



王が水の精霊に、ベリウム川抑制を要請をする間、リィドウォルは食い入るように水盆を見つめていた。

彼の目には、水盆に立つ水柱の周りに、何重にも美しく魔力が揺蕩い、そこから薄く薄く空へ広がる幻想的な光景が映っている。


何故これ程に、ネイクーン王国の水の精霊は特別なのか。



夕の鐘が鳴り、水の精霊が王の要請を了承すると、パシャと小さな水音を立てて、水柱が落ちた。

リィドウォルは、小さく広がる波紋が消えるまで、水盆の水を眺めていた。




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