南部辺境警備所
翌朝、午前の一の鐘が鳴って半刻。
今日カウティスは、南部辺境警備所に行くことになっていて、ラードとは神殿の門前で合流することになっていた。
藍色の騎士服に、マントは着けず、砂漠仕様のフード付きケープを掛けている。
「昨夜はすまなかった。今日、明日はよろしく頼む」
ラードが馬を連れて門前で待っていると、現れた途端に、カウティスが平常通りにそう言うので、ラードは唖然とする。
昨夜は少々酒が入っていたとはいえ、アレはさすがに不味かったと、ラードは反省していた。
カウティスに会った途端、同行を拒否されるのではないかと思っていたので、予想外の反応に驚く。
「……は? え、王子。謝るとか、おかしいでしょう。俺は、不敬罪に問われても仕方ないようなことしましたよね」
淡々と、馬に括り付けている荷物の確認をしているカウティスに、ラードが慌てる。
「不敬罪に問われたいのか?」
カウティスが振り向いて聞くと、ラードが顔を顰めた。
「そんな訳無いでしょう。でも、あんな風に言われて、なんで怒ってないんですか」
「昨日は確かに腹が立ったが……」
カウティスは手を止めて、ラードと向き合った。
「ラードの言う通りだったからな」
ラードは眉を寄せ、怪訝な顔をする。
「相手に触れたい、触れられないと苦しい。……その通りだから」
ラードは深く息を吐いた。
やはり、そうだろう。
どんなに好きだという気持ちがあっても、見ているだけなんて辛くなる一方だ。
王子が深みに嵌って苦しむ前に、気付いてくれて良かった、と思った。
「だから、
「……は?」
続いたカウティスの言葉の意味がよく分らなくて、ラードは何度も目を瞬く。
「触れられないのは悲しいが、それでも一緒にいると約束した」
「はあ!? 何ですか、それ……」
カウティスは少しの迷いもなく、真剣にラードの目を見る。
「俺の先を案じてくれて、感謝している。理解してくれとは言わないが、セルフィーネと離れる選択肢は元より無い。この先も、触れられなくても、彼女といる」
ラードは呆然とカウティスを見ていた。
カウティスは自然体で、無理をして決意した様子ではない。
しかし、その目には確固たる意志が滲んでいた。
ラードは、はああーっと盛大に溜め息を付いてしゃがみ込む。
「ラード?」
カウティスが一歩引いた。
ラードは濃い灰色の髪をグシャグシャと掻き乱して、くっくっと笑いだした。
「あーあ。もう、参りましたよ。面白すぎです、王子」
そう言って顔を上げたラードは、言うことを聞かない子供を、呆れて見ているような表情だった。
「俺の、あんな八つ当たりみたいな意見に真剣に答えてくれちゃって。完敗ですよ」
「八つ当たりだったのか?」
カウティスが腕を組む。
ラードは服の裾を、パンッと叩いて立ち上がった。
「そうですよ。手の届かない女に恋い焦がれて身を持ち崩した、馬鹿な男の八つ当たりです」
立ち上がったラードは、短く息を吸って表情と姿勢を改める。
「昨夜は失礼なことをしてしまい、申し訳ありませんでした。辺境警備所から戻るまで、お供させて下さい」
言って、掌を胸に当てて立礼した。
「……頼む」
二人は、日除けのフードを被って馬に乗る。
「『手の届かない女』って、……諦めたのか?」
「それ、聞きますか?」
ラードは手綱を持って苦い顔をする。
「…………もう、亡くなりました」
ラードは馬の腹を蹴る。
カウティスも続いて馬を走らせた。
途中の村に立ち寄って、最近の魔獣や野獣の出現など、近況を聞いて行く。
昼の鐘が鳴る前には、二人は辺境警備所に到着した。
南部の辺境警備所は、エスクトの街から砂漠の外周を東へ進み、隣国フルデルデ王国との国境近くにある。
以前は、ここから砂漠まで距離があったが、砂漠化が進み、風が強い日は警備所の訓練場まで砂が入り込む程になった。
砂地に対応する設備を今より増やすよう、進言しなければならない。
カウティスとラードは、久しぶりに会う兵士達に囲まれて、挨拶を交わした。
警備所長と話をし、カウティスの後任に就いた騎士と引き継ぎをして、私物を片付ける。
最近の砂漠化や魔獣出現状況などを確認している内に、夕の鐘が鳴った。
今夜は警備所で一泊して、明日は国境付近を見に行く予定だった。
夕食まで時間が空いたので、久しぶりに訓練場を見に行く。
火の季節は日中厳しい暑さなので、夕の鐘が鳴ってからの方が、訓練場に人は多かった。
カウティスを見つけた兵士に誘われ、カウティスは久しぶりに手合わせする。
剣術に打ち込む時間は、子供の頃から楽しかった。
十三年の間も、剣術の稽古に没頭している間は、全て忘れられた。
訓練後に汗を流し、夕食を摂る為に食堂に向かう。
ここでも兵士達に話し掛けられながら、カウティスとラードは、一番奥の壁際に腰掛ける。
カウティスがスープを口にしようとすると、目の前に座っていたラードが、指で机を叩いた。
カウティスが目線を上げると、器用に片眉を上げたラードが、右手の親指を指す。
カウティスは口をへの字に曲げて、魔術具の指輪を嵌めた。
「そうえいば、辺境警備に就いてる間、殆ど着けてませんでしたよね」
呆れつつ、ラードが言う。
何度も一緒に魔物討伐に出たが、野営の時くらいしか着けたのを見なかったかもしれない。
肌に馴染むので、気付かなかったのかとも思ったが、カウティスのこの様子だと、やはり身に着けていなかったのではないだろうか。
野営で着けていたのも、もしかしたら現地で調達した食材の、食あたりを警戒していただけかもしれない。
「廃嫡を望まれた王子の命なんか、誰も欲しがらない」
不満気に言うカウティスに、ラードは声を固くする。
「以前はそうだったかもしれません。でも、今は立場が変わりました。自覚して下さい」
確かに、辺境で兵士に交じり魔物討伐していた頃と、次期国王の側近になった今とでは、立場は大きく変わった。
「兄上に迷惑は掛けられない。分かった、もっと用心する」
カウティスは神妙な顔つきになって、スープを口に運ぶ。
「今は、いるんですか?」
ラードの問い掛けの意味が分からず、顔を上げると、千切ったパンを持った手で、ラードがカウティスの胸元を指差す。
セルフィーネが一緒にいるのか聞きたいようだ。
「いや。王城に戻っているはずだ」
「……なら、言いますが、立場を自覚して欲しいのは、王太子の側近になったことだけじゃないですよ」
壁際に座っているので、ラードは壁の方へさり気なく背中を向けてパンをかじりながら、周囲に視線をやって話す。
「噂が広まるのは早いもんです。水の精霊様が戻って来て、第二王子を子供の頃以上に寵愛していると、民の間でも噂になってます」
城下のオルセールス神殿に行った時のこと、カウティスの周りの魔力のことなど、少しずつ色々な所から噂が広がっているようだった。
「これからは、王子と水の精霊様の繋がりを目的に、近付く者も出てきますよ」
ラードが目を細めて、力を込める。
「水の精霊様とずっと一緒にいると仰るなら、王子が水の精霊様を利用するための餌にされる恐れもあることを、覚えていて下さい」
カウティスは十三年前の御迎祭を思い出し、胸が悪くなる。
カウティスを人質にして、水の精霊を従わせたクイード。
あんなことが、二度と起こってはならない。
カウティスは持っていたスプーンを置く。
口に入れたスープの味は、もうしなかった。
深夜、王城の離宮の窓から、空を眺める者がいる。
ザクバラ国の主使、リィドウォルだ。
青味がかった黒髪が、月光に照らされて鈍く輝く。
「リィドウォル様、何をしておいでですか」
使者の一人、年嵩の男が近付くと、リィドウォルは空を指す。
「美しいものだな」
「……誠に。このような空は、他では見たことがありませんな」
ネイクーン王国の空には、水色と薄い紫色の魔力が薄く薄く重なり合い、水が揺蕩うように流れている。
魔力素質を持つ者にしか見えないものだが、そういう者ほど、一度見ると心奪われる。
使節団には、離宮にそれぞれに部屋が用意されているが、それとは別に会議室も用意されている。
その一室で、一日目の会談を終えた使者五人が集まっていた。
机の上には、大きめの防護符が敷かれてある。
防護符は大小様々あるが、どれも役割は魔術の発現を邪魔するものだ。
ここで広げた物は、範囲内盗聴防止のものだった。
窓から離れて、机に戻るリィドウォルに、別の使者が言う。
「やはり、すんなり第二王子は出してきませんでしたね」
「会談に合わせて、遠方へやるくらいだからな」
リィドウォルが鼻で笑う。
本日、一日目の会談は、午前に一度目、午後に二度目が行われた。
ネイクーン王国側は、政略婚は受け容れたが、第三王子のセイジェ·フォグマ·ネイクーンを推した。
「あの空をザクバラに頂く為には、
リィドウォルの呟きに、側に立っていた目付きの鋭い若い護衛騎士が、無表情に言う。
「第三王子を殺せば早いのでは?」
「イルウェン、物騒なことを言うな」
年嵩の使者がイルウェンと呼んだ護衛騎士を窘めるが、その顔はやや笑っている。
「まずは明日、第三王子に会ってみなければ何とも言えんな」
リィドウォルは喉の奥で笑う。
「出来ることなら、第二王子が自ら我が国に来る形が良い」
リィドウォルが、もう一度窓の方を見る。
「だが、それが難しい時は、手段を選ばぬ」
彼の右目が妖しく揺れた。
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