触れたい
オルセールス神殿は静かだった。
夜番で門番の任務に付いていた兵士が、カウティスに気付いて敷地内に入れてくれる。
前広場は明日の為に、大きな日除けの布が何枚も張られ、風にはためいてパタパタと音をたてている。
前広場の中央にある大きな噴水は、王城の小さな泉と違って、中央に大きく一本噴水が上がり、その周りに小さな噴水が斜めに六つ吹き上げている。
青白い月光が噴水を照らし、空中に散る水滴が、水晶の欠片のようだった。
カウティスは近付く前に、ささくれ立つ気持ちを落ち着けるため、一度深呼吸した。
カウティスが噴水に近付くと、小さな水柱が立ち、周囲の月光が集まるように
細く柔らかく、サラサラと流れるような水色の髪。
輝く紫水晶の瞳。
瞳の上で儚く揺れる、長いまつ毛。
白い肌は柔らかい曲線を描き、淡く桃色を滲ませる。
薄い唇は淡紅色で、その唇が開いて、優しく名を呼ばれる。
「カウティス」
等身大のセルフィーネを見るのは、彼女が南部に向かった夜、王城の泉で会ってから、およそ二十日ぶりだった。
カウティスは惚けるようにセルフィーネを見ていた。
セルフィーネはこんな風だっただろうか?
姿形が変わったわけではない。
しかし、より生気を帯びたようだ。
手を伸ばせば、触れることが出来そうだと思った。
カウティスは自然と手を伸ばすが、彼女の白い手は擦り抜けた。
「久しぶりに同じ大きさだな」
カウティスが誤魔化すように笑って言うが、セルフィーネは目線を下に落としてしまった。
「セルフィーネ?」
「…………私はやはり、幻のようなものか?」
カウティスはハッとする。
「もしかして、ラードと言い合っていたのを見たのか?」
セルフィーネは目を伏せる。
「カウティスも、私に触れたいと思っているのか? 触れられない私では、駄目なのか?」
「そうじゃない! 俺は……」
言いかけて、止まった。
そうじゃない? 本当に?
カウティスは自問した。
さっきラードに言われた言葉を思い出す。
『人間なら、惚れた相手に触れたいと思うもんです。誰だってそうですよ』
―――その通りではないか。
触れたいと、何度も願って手を伸ばした。
その度に彼女の身体は擦り抜けて、手を伸ばしたことを悔やんでしまうのに、それをセルフィーネが気付いていないわけがないではないか。
カウティスはセルフィーネを見る。
悲しんでいる、その姿。
俺はこんな辛そうなセルフィーネを見たくて、十三年間努力していたのか?
彼女にもっと、幸せそうに笑って欲しかったのではなかったか?
俺は、彼女と再会したら、どうしたかったんだ。
「…………やめた!」
カウティスが、強い口調で言った。
驚いて目を開けたセルフィーネの前で、カウティスは日除けのフードを投げ捨てて、噴水の縁に片膝をついて乗り出す。
王城の泉と違って吹き上げる水が多いので、縁にいても水飛沫が散るが、カウティスは構わずセルフィーネに向けて両手を広げる。
「セルフィーネ、来て」
セルフィーネが目を丸くする。
「……でも」
「いいから、早く」
カウティスに急かされ、セルフィーネはおずおずと一歩前に出る。
もう一歩前に出ると、カウティスは彼女の身体に両腕を回す。
「やせ我慢はもうやめた」
「……やせ我慢?」
「そうだ。我慢してたけど、俺は本当は、いつだってセルフィーネに触れたいと思っている」
セルフィーネは目を瞬く。
「アブハスト王を思い出させるから、言ってはいけないと思っていた。でも、本音を隠しきれずにそなたを悲しませるなんて、俺は阿呆だった」
カウティスはセルフィーネを見下ろす。
彼女の潤んだ瞳が、すぐ側にある。
カウティスの鼓動が速くなる。
「本当は、手を掴みたい。抱き締めて、こうやって俺の身体で包みたいし、髪だって撫でたい」
カウティスの手の下で、今もセルフィーネの細い髪は、サラサラと美しく揺れている。
「そなたの頬にも、首筋にも、……もっと、触れたい。本音を言えば、触れられないのは、少し悲しい」
カウティスは骨ばった大きな掌を、セルフィーネの頬に添える。
カウティスの手が彼女の頬を滑り、親指が淡紅色の薄い唇をなぞる。
セルフィーネの唇が、小さく震えた。
「……不安にさせて、すまない。だけど、俺が触れたいと思うのはセルフィーネだけだし、触れられなくても、やっぱりそなたといたいんだ。他の人間がどう思うかは関係ない。
カウティスの青空色の瞳を、セルフィーネは見つめる。
「……私に、触れられなくても?」
水飛沫が月光を弾いて輝く。
「触れられなくてもだ。セルフィーネはずっと、俺の“特別”なんだ」
セルフィーネの紫水晶の瞳が揺れる。
カウティスはそっと腕を戻し、セルフィーネの顔を正面から見つめた。
「……俺が触れたいと言うのは、嫌か?」
セルフィーネが、何度も何度も首を横に振る。
細い水色の髪が、サラサラと音を立てて広がった。
「カウティスが、私だけに触れたいと言ってくれて、嬉しい」
セルフィーネの頬に、ふわりと赤味が差した。
潤む瞳で、セルフィーネがカウティスを見上げる。
自分を見つめる、澄んだ青空のようなカウティスの瞳。
セルフィーネは躊躇いがちに、呟く。
「……“触れる”とは、どんな感じだろう……」
セルフィーネが白い手を持ち上げ、カウティスの日に焼けた頬に細い指を添わせる。
実体のないセルフィーネには、“触れる”感覚がよく分からない。
カウティスが側に来てくれて、手を添え合ったり、自分の頬に手を伸ばすのが、とても心地良く、嬉しい。
でも、人間が“触れたい”と思うのは、それ以上の心地良さなのだろうか。
「私もカウティスに触れられたらいいのに……」
カウティスが微笑んで、彼女の白い手の上に自分の手を重ねた。
「身体、貸してあげましょうか?」
「うわっ!」
突然、後ろから声を掛けられ、カウティスは驚きのあまり噴水に落ちそうになった。
辛うじて前のめりで踏ん張り、振り返る。
水色の法衣を着て、後ろに手を組んだ聖女アナリナが、いつの間にか背後に立っていた。
少し離れた所に、新しい護衛騎士が立っていて、申し訳無さそうにカウティスに一礼する。
セルフィーネの方に集中しすぎて、人の気配に全く気付いていなかった。
騎士として猛省すると共に、見られていたことに羞恥が襲う。
「…………いつから聞いてた?」
「うーんと、『カウティスが、私だけに触れたいと言ってくれて嬉しい』って、二人で見つめ合ってた位から?」
カウティスの顔に血が上る。
「もっと早く声をかけろっ」
アナリナが半眼になって唇を尖らせた。
「アナリナの身体を借りる? そんなことが出来るのか?」
カウティスが、聞き返す。
アナリナが、セルフィーネに身体を貸すと提案したからだ。
「セルフィーネが私に“降りる”ことが出来るのはもう分かってます。その後、身体から出なければ良いんだと思うんですよね」
アナリナの身体にセルフィーネが“降りた”ことは、二度ある。
どちらも、すぐにアナリナの身体から離れた。
「出来るかどうか分かりませんけど、試してみてもいいかなって」
月明かりの下、前広場の噴水の縁に、アナリナは腰掛ける。
カウティスがいるので、護衛騎士は一旦下がってもらった。
「“神降ろし”の時は、降ろす瞬間に負荷が掛かるの。その後は月光神の魔力が使われるから、私の負担はないわ。だから、もし上手く私の身体を使えるとしたら、消費するのは
アナリナはセルフィーネを見上げる。
「上手くいくかも、どれ程消費されるのかも分からないわ。それでも、やってみる?」
セルフィーネは躊躇わずに頷く。
「やってみたい。……でも、アナリナは本当に、自分の身体を使われていいのか?」
アナリナは、青銀の髪を揺らして頷く。
「セルフィーネなら、いいわ。“触れる”ってどういうことか、感じてみて」
「ちょっと待て」
女同士でどんどん話を進めていく二人を、呆然と見ていたカウティスが我に返る。
額に手をやって、困惑顔だ。
「アナリナの身体に、セルフィーネが入って動くってことか?」
「そういうことになりますね」
事も無げにアナリナが答える。
カウティスの眉間のシワが深くなる。
「それは、セルフィーネが触れることになるのか? アナリナが触れることにならないのか?」
アナリナは首を捻って、唸った。
「うーん、どうでしょうねぇ。初めての試みなので、なんとも……」
「おいおいおい……」
カウティスは引き気味だ。
自分の身体を使われるというのに、アナリナはまるで他人事のようだ。
神の御力をその身に“降ろす”という行為は、感覚を変えてしまうものなのだろうか。
噴水から、セルフィーネが懇願する。
「お願いだ、カウティス。一度だけでいい。やらせて欲しい」
セルフィーネに真剣な瞳で乞われて、カウティスは結局否とは言えなかった。
実行は、三日後に決めた。
アナリナの身体に、どれ程負担が掛かるかわからないので、巡教の日に予定は入れられない。
その日の午後は、聖女は休息をとることになっているので、夕の鐘の時刻に神殿外で行うことにする。
三人共に、細い緊張の糸が張られたようだった。
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