政略婚

ザクバラ国の使節団がネイクーン王国を訪れた翌日。

午前に一度、午後に二度目の会談が行われた。


ネイクーン王国側の主張は、“水の精霊によるベリウム川の氾濫抑制”を守ることが出来なかったのは、フォグマ山噴火という想定外の災害による不可抗力で、条約違反には当たらないというものだったが、ザクバラ国側は親書の要求を崩さなかった。





「ザクバラ国へ行かれると仰るのですか?」

第三王子付きの乳母、ソルが声を上げた。

セイジェは湯浴みの準備をしながら、乳母と話していた。


セイジェは夕食の後、王の執務室に呼ばれ、そこで王からザクバラ国からの要求を聞かされた。

そして、今回の会談で協定が結ばれれば、政略婚としてザクバラ国へ行って欲しいと言われた。

明日午前の三度目の会談にも、参席するよう命じられている。


「向こうはカウティス兄上を望んできたようだけど、兄上を他所へやるわけにはいかないからね」

水の精霊と縁の深いカウティスを、他国へは行かせられない。

ここで“予備”の出番というわけだ。

「敵国に行けと言われて、何故そんなに落ち着いておられるのですか!」

ソルが声を上げると、セイジェは困ったように笑って、人差し指を立てて口に当てる。

まだ正式決定ではない。

乳母以外を人払いしてあるが、大声を上げては聞かれてしまう。


「良いと思うよ。エルノート兄上の即位後の地盤強化に、私は国内の高位貴族の所へ婿に入るのだろうと思っていた。それが、隣国の次期王配だ」

地位も申し分なければ、考えようによっては、この国の為に最も役に立つかもしれない。


セイジェは、顔色を失っている乳母を見る。

「ソル。もしも協定が結ばれて、正式に私がザクバラ国に向かうことになったら、お前は乳母を辞めて、この国で安らかに暮らせ」

突然の解雇宣言に、ソルは口を開いて動けなくなった。

「お前がザクバラ国に対して、消えることのない憎しみを持っているのをよく知っている。連れて行くような酷いことはしないよ」


乳母のソルは、先代王の治世で、西部の国境付近に小領地を持つ貴族の娘だった。

ベリウム川氾濫で領地が荒れたところにザクバラ国に攻め込まれ、父である領主は、領地を守れずに呆気なく没落した。

それからは親類の屋敷に身を寄せていたが、縁あってセイジェの乳母になり、エレイシア王妃とセイジェの為に生きてきたのだ。



「……どうか、ザクバラに行かないで下さいませ」

震える声で、ソルは訴えた。

セイジェの濃い蜂蜜色の瞳が、こちらを向く。

我が子同然に慈しみ、育ててきた、王子。

故郷を奪われ、我が子を亡くしても生きてこられたのは、この美しい王子が必要としてくれたからだった。


「ソル、お前には感謝している」

セイジェはソルにそれだけ言って微笑むと、一人湯殿に入って行った。

取り残されたソルは、呆然とセイジェの去った重い扉の前に立っていた。





日の入りの鐘が鳴った頃、フェリシアの自室では、彼女が鏡の前に座り、侍女が髪を梳かしてた。

今夜は王太子夫妻の共寝の日だ。


赤褐色の巻毛を梳かされながら、フェリシアは尖った声を出した。

「セイジェ王子をザクバラ国にやるですって?」

「はい。ザクバラ国はカウティス王子を望んだようですが、ネイクーンはセイジェ王子を推し、ザクバラ国側も概ね了承したようです」

フェリシアは、突然視界が曇ったような気分だった。



ネイクーン王国での生活を、今、何とか続けていられているのは、日々の僅かな潤いがあるからだ。

毎朝の内庭園の散策。

美しく、華やかな花々に囲まれて過ごすひととき。

そして、その時、側で笑ってくれる人―――セイジェ王子だ。


そこまで考えて、胸を押さえた。

いつの間にか自分の心を占めているのは、祖国でも、夫のエルノートでもなく、セイジェになっていることに、今気付いた。

頬に朱が差し、胸が高鳴る。

こんな気分になったのは何時ぶりだろう。

ドキドキと落ち着かない気持ちになると共に、セイジェがネイクーン王国を出ることに、恐怖に似たものが襲う。

せっかく得たこのときめきを、最早奪われるのか。


「お時間です」

侍女に言われて、フェリシアは立ち上がった。




エルノートが共寝の部屋に入ると、室内は淡く香が焚かれていて、白い夜着を着たフェリシアが、寝台に腰掛けて待っていた。

赤褐色の巻毛が滑らかに肩に掛かり、窓から入る月明かりに映える。

最近は“嫌々ここに来ました”という態度だったのに、珍しい。

そういうエルノートも、侍従に急かされて渋々部屋には来たものの、まだ仕事をするつもりで書類の束を抱えて来ていた。




「セイジェ王子が、ザクバラ国の王女と政略婚されると伺いましたが、本当ですか?」

挨拶もそこそこに、フェリシアが尋ねるのを聞いて、エルノートはそういうことかと思った。


「情報が早いな。まだ一部の者しか知らぬことだぞ」

エルノートは口元を歪める。

王城内には、皇国に傾倒した官吏もいる。

貴族の子息子女は、フルブレスカ魔法皇国に四年間留学して学ぶ為、その間に皇国に連なる者と何かしらの縁を結んだり、皇国のやり方に傾倒する者も少なくない。

そういう者は、フェリシアを未だ擁護する。

エルノートとフェリシアの仲が上手くいっていないからこそ、その縁を取り持とうと画策する者もいる。

フェリシアがいち早く情報を得ているのも、その者達のせいだろう。


「何故、カウティス王子を出さないのですか」

「国政に初めて口を出すのが、そんなことか」

壁際にある自分の机の上に書類を置きながら、エルノートは溜め息をつく。

何故カウティスをネイクーン国外へ出さないか、王城に居るものなら誰でも分かりそうなものだ。

彼女はそんなことにも関心がないのだろうか。

「政略婚が和平に必要なら、受け入れる。受け入れられるのがセイジェしかいないから、セイジェを出す。それだけだ」

エルノートは薄青の瞳でフェリシアを見る。

フェリシアの赤褐色の瞳は、怒りなのか悔しさなのか分からないが、不満の色が濃く滲んでいる。


「……親しげだとは思っていたが。なるほど、それ程にセイジェが大事だったか」

フェリシアが弾かれたように顔を上げる。

目を見開き、頬が紅潮する。

エルノートは見下げたような顔で、フェリシアを見た。

「セイジェはザクバラにやる。諦めよ」

淡々と言って、机に向かおうとするエルノートに、フェリシアは納得がいかず追い縋る。

「ザクバラはカウティス王子を望んだのでしょう。ならばカウティス王子でも……」

「貴女の政略婚の相手は私だ」

フェリシアの言葉を遮って、エルノートが言う。

「例えカウティスをザクバラにやっても、貴女の相手はセイジェではない」

フェリシアはエルノートの薄青の瞳に、僅かな苛立ちを見て取った。

そして、それを別の意味に受け取った。

机に向かうエルノートの後姿に、彼女は呟くように問いかけた。


「……まさかエルノート様は、私がセイジェ様をお慕いしたから、遠くへやると仰るのですか……」


皇国にいた時から、蝶よ花よと可愛がられ、自分に愛情を向けられることが当たり前だったフェリシアは、エルノートの苛立ちを、セイジェへの悋気だと受け取ったのだった。


虚を突かれたように、呆然とエルノートはフェリシアを見返した。

やはり、とフェリシアが思うと同時だった。

エルノートは顔を歪めると、くっと喉で笑う。

笑い始めると止まらず、手で顔半分を覆って笑い始めた。

そこまできて、初めてフェリシアは自分が大きな勘違いをしたのだと気付き、みるみる青ざめて唇を噛んだ。


ようやく笑いの収まったエルノートが、両手を握りしめて夜着一枚で震えるフェリシアに近付く。

「そうか。思っていたよりも、貴女はずっと子供だったのだな」

フェリシアがカッとなって手を上げ、エルノートの頬めがけて振り下ろしたが、彼は難なくその手を掴む。

「私はこれでも、期待していたのだ。愛し合うことはできなくても、貴女が民の為に私の横に並び立ってくれることを。……今更だな」

エルノートは彼女の手を離す。

「望むなら、離縁しよう。祖国に帰りたければ帰ると良い」

エルノートが事も無げに言って、背を向ける。

あまりにもあっさりと言われた言葉に、フェリシアは唖然とする。

皇国わたくしとの縁を捨てるというのですか!?」

声が震える。

「皇国と縁を繋ぎたいなら、自力で繋ぐ。我が国に残りたいというのなら、残っても構わないが、私は側妃を娶り、その者に妃としての実権を任せるだろう」

フェリシアの血の気が下り、目の前が暗くなる。

「……皇女の私に、お飾りの王妃になれと?」


エルノートは、氷のように冷たい薄青の瞳で、彼女を見下ろした。

「貴女は、ネイクーン王国この国の民の為にならない」

完全な拒絶だった。

エルノートは、さっき置いた書類をまとめて持つと、踵を返し、微塵も躊躇わず部屋を出て行く。




残されたフェリシアは、醜く顔を歪め、唇を噛んだ。

真っ赤な下唇に血が滲み、怒りの涙が溢れる。

彼女が今まで生きてきて、ここまで無下にされたことはなかった。

爪が喰い込むほどに、拳を握り締め、叫びたくなるのを堪えた。

「絶対に許さない……」




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