未来
深夜、聖女の護衛をノックスと交代し、カウティスは宿の一室に戻る。
街にはオルセールス神殿があるので、夜の警護は付かないが、村での宿泊の時には交代で夜番に付く。
今日のカウティスの当番は、前半だった。
部屋に入るとすぐ、首から下げている銀の細い鎖を引いて、ガラスの小瓶を手に取る。
窓に近付き、薄いカーテンを引いて窓を少し開き、月光が入るのを確認すると小瓶を置いた。
小瓶の中の小さな魔石に月光を当てるのは、日課になっている。
マントを外して壁に掛け、濃青の騎士服の上着を脱ぐ。
シャツのボタンを外していると、彼を呼ぶ小さな声がした。
「カウティス」
振り返ると、窓際で月光を複雑に反射しているガラスの小瓶の上に、小さなセルフィーネが立っていた。
水色の細い髪は、腰の下で毛先を揺らしていて、月光を浴びて淡く輝く姿は今日も美しい。
「セルフィーネ。どうした、何かあったのか」
カウティスは窓際に近付く。
聖女一行がアドホを出発する際、セルフィーネは王城へ戻ったはずだ。
カウティスが側に来ると、セルフィーネは少し戸惑うようにしてから言った。
「……カウティスに会いたくて」
カウティスの心臓が強く打つ。
最近、セルフィーネは自分の気持ちを口に出すことが増えた。
それが嬉しくて、カウティスも正直に気持ちを伝える。
「俺も、会いたかった」
カウティスは、小さなセルフィーネに手を差し出す。
彼女は小さな白い手をカウティスの指に乗せ、微笑んだ。
「王城は変わりないか」
「ない。アドホには早々に官吏が送られた。近い内に、新しい領主を据えると王が言っていた」
カウティスは安堵する。
貧民街で見た光景を思い出し、これで暮らしが改善されると良いと思った。
「疲れているようだな」
セルフィーネに心配そうな顔で見上げられ、苦笑いする。
「今日、兄妹神の話を聞いて、少し当てられただけだ」
「……休んだ方が良いな。私は戻る」
「セルフィーネ!」
セルフィーネがカウティスの指から小さな手を引いたので、咄嗟に呼んで手を握ったが、実体のない彼女の手はすり抜けてしまった。
驚いて、セルフィーネが目を瞬く。
「驚かせてすまない。……そなたと居たい。もう少し、ここに居てくれないか?」
カウティスが少し恥ずかしそうに笑うので、セルフィーネは嬉しそうに頷いた。
「もしかして、もう西部へ向かうのか?」
着替えを終えて、椅子を窓際に運び、腰掛ける。
以前、南部の次は西部へ向かうと聞いていた。
行く前に会いに来たのだろうかと思った。
「西部へは、もう一度様子を見に行ったが……」
セルフィーネは表情を曇らせる。
「……あそこには行きたくない。精霊が狂いかけている」
「精霊が……狂う?」
不穏な言葉に、カウティスは眉を寄せる。
セルフィーネはカウティスを見上げる。
「以前から、西部は血の匂いがして、あまり心地良い所ではなかった。だが、これほど
精霊は血が嫌いだと、以前聞いたことがある。
西部の国境付近は、ベリウム川の氾濫で犠牲者が出て、それを主原因としてザクバラ国と度々争ってきた場所だ。
精霊が狂いかけているという程に、血が流れたのだ。
カウティスは、アナリナが聖女になった時の話を思い出し、一度目を閉じた。
「……ザクバラ国と、また争ったんだ。随分犠牲者が出たと聞いている」
紛争が一番激しかった時期、カウティスは未成人の上、フルブレスカ魔法皇国に留学期間で、直接関わる事は許されなかった。
ベリウム川は、水の精霊が常に気を配り、氾濫抑制してきた場所だ。
水の精霊が眠っている間に、フォグマ山の噴火と共に、大規模な氾濫が起きることは当然だったのかもしれない。
セルフィーネは目を伏せ、長いまつ毛を震わせる。
「何故、人間は争いを止めないのだ……」
長く続いた争いの影響で、火の精霊だけでなく、風の精霊も無駄に勢いを増している様だった。
精霊を収めなければ、また何かしらの害が出るかもしれない。
やはり西部に長く留まり、守護を強めるべきなのだろう。
しかし、あそこに長く入り込めば、引きずられてしまいそうで、恐い。
もしも、またカウティスを忘れるようなことがあれば……。
「……行きたくない」
口をついて出たのはそんな言葉で、セルフィーネは苦しくなる。
精霊なのに、まるで小さな子供のようだと思った。
それなのに、返ってきた声はとても優しいものだった。
「行かなくていいよ」
伏せていた目を開き顔を上げると、いつの間にか、ガラスの小瓶はカウティスの手の中にあった。
「氾濫を懸念する季節は過ぎているし、魔術士も多く派遣されている。数年前に停戦になって、ザクバラも今は復興に力を入れていると聞く。無理にセルフィーネが留まることはない」
カウティスの言葉に、セルフィーネが首を振る。
一緒にサラサラと音を立てて、髪が揺れる。
「でも、私の役割だ……」
「違う」
きっぱりとカウティスが言い切った。
セルフィーネが目を瞬く。
「兄上は即位後に、俺とセルフィーネの目で、辺境の隅々まで民の声を拾って欲しいと仰った」
「二人で?」
カウティスが頷く。
「そう、二人でだ。セルフィーネは存在するだけでネイクーン王国の“護り”なんだ。そなたがそれ以上に、一人で国中を守ろうとすることを、兄上も俺も望んでいない」
カウティスが小瓶を目の高さまで持ち上げる。
澄んだ青空色の瞳が、セルフィーネを映した。
「これからは新しいやり方で、一緒に国を守っていこう」
「一緒に……」
カウティスは優しく微笑む。
「一緒にだ。俺達の、未来だよ」
紫水晶の瞳が揺れ、セルフィーネは白い両腕を差し出す。
カウティスが顔を寄せると、彼女は日に焼けた彼の頬に寄り添った。
「カウティス……カウティスが、好きだ……」
耳の側でセルフィーネに囁かれ、カウティスは思わず目を閉じて、息を詰めた。
「…………泉で、そなたに会いたいな」
詰めた熱い息と共に、ようやく一言口に出せた。
「え?」
「小さいそなたではなく、大きなそなたを見たい。小さすぎて、瞳がはっきり見えないだろ」
小瓶を指して、わざと軽口のように、明るく言った。
そうでなければ、“触れたい”と言ってしまいそうだった。
叶わない事であると同時に、セルフィーネにアブハスト王を思い出させる願いだ。
彼女の前で言うべきではない。
「……一緒に、エスクトの街まで行ってもいいだろうか」
セルフィーネが、上目にカウティスを見て言う。
「勿論良いが」
「エスクトの街のオルセールス神殿には、前広場に大きな噴水がある。神殿内は神の御力で満ちているから、姿を現せるかもしれない」
セルフィーネの頬に、ふわりと薄い桃色が差した。
カウティスが顔を片手で覆う。
等身大のセルフィーネに会えるのは、まだまだ先だと思っていたのに。
「……明日が楽しみだ」
ふふ、とセルフィーネが楽しそうに笑った。
火の季節の後期月、前半。
カウティスと聖女一行が城下を出発してから、十日経つ。
今日、南部最大の街、エスクトに到着する予定だ。
王城の王の執務室では、王が宰相セシウムに渡された書類の束を睨んで唸っていた。
「これ程の額を、よくも隠し通していたものだな」
見ていたのは、アドホ領主の不正行為を調べ上げた書類だ。
国からの補助金を横領していただけでなく、領内の貴族達と、ネイクーン王国では認められていない物品の売買等で金を稼いでいた。
エスクト領主が独自に動いていなければ、まだ発覚していなかったかもしれない。
「北部と西部に問題が多かったとはいえ、他を後回しにしたツケが、民に降り掛かる形で回ってくるとは」
王は深い溜息をつき、額を押さえる。
「何と愚かな王か……」
白いものが増えた、明るい銅色の髪の毛が、一筋額に垂れた。
「まだ季節二つ分残っています。やれることはまだまだありますよ、陛下」
白いマントを揺らして、続き間から出てきたエルノートが言う。
“父上”でなく、わざわざ“陛下”と強調するあたり、憎らしい。
「言われずとも分かっておるわ」
息子を横目で睨み、書類を机にバシリと置いた。
「セシウム、暫くは向こうの官吏と密に連絡が取れるよう、魔術士館に要請しておけ」
「はい、陛下」
セシウムが手にした綴りに書き付ける。
「それにしても、カウティスは良い働きをするな」
王が書類に羽根ペンを滑らせながら言った。
「辺境に長くいたので、臨機応変に動くことが身に付いているのでしょう。やはり、カウティスは王城に留めておくより、外の方が活かせそうですね」
企みが成功したかのように、満足気にエルノートが頷く。
南部からカウティスが戻ったら、次はどのように動かすか、既に算段しているのかもしれない。
次代のネイクーン王国は、自分の代とはまた違う国造りになるのだろう。
王はエルノートを上目に見て、こめかみを掻く。
息子達の今後が楽しみでもあり、心配でもあった。
侍従が部屋に入ってきて告げる。
「ザクバラ国の使節団が、王城の門を入ったようです」
執務室の空気がピリリと張る。
王が立ち上がり、侍従が後ろから緋色のマントを掛ける。
「奴等、今回はどんな札を出してくるか」
王が顔を引き締め、緋色のマントを翻して部屋を出る。
エルノートがそれに続いた。
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