兄妹神の試練

日の入りの鐘の時刻になった。

大きな街のように鐘の塔はないが、広場の中心に鐘が設置されていて、係りの者が鳴らす。

街で聞くよりも、澄んだ高い音が響いた。




アナリナとカウティスは、村長の案内で建物の中に入る。

入るとすぐ大きな広間になっていて、薄布を何重か掛けた衝立で、幾つかの部屋に分けられている。

一年を通して気温の高い、ネイクーン王国の平民の家によくある造りだ。

広間を横切り、更に奥の部屋に通される。

広間を通る時から、薬草を煎じている匂いがしていた。


部屋に入ると、奥の窓際に寝台が置いてあり、そこに老婦人が横になっていた。

上半身を斜めに起こして、クッションで支え、薬師が煎じたお茶をすすっている。

村長が近付いて何かを話しかけると、老婦人は顔をこちらに向け、シワだらけの優しい微笑みを浮かべた。



村長に促され、アナリナは寝台の側の椅子に腰掛ける。

「このような所まで、ようこそおいで下さいました。聖女様」

老婦人はしわがれた声で言うと、ゆっくりと頭を下げた。

彼女の長い髪は殆ど白く、元の色はよく分からないが、瞳は白濁した茶色で、優しい光を灯していた。


老婦人は飲んでいた薬草茶を枕元の机に置くと、軽く咳き込む。

アナリナが老婦人の身体に手を添えようとすると、彼女はやんわりと断った。

救済神聖魔法は不要です、聖女様」

「え? でも……」

老婦人は微笑んで首を振る。

「私は元神官です。神聖力は失いましたが、月光神様の御手が近付いていることは、不思議と分かるのです。その御手を取りたいと思っています」

老婦人の顔は、とても穏やかだ。


アナリナは、目の前が暗くなるような気がした。

自分の存在意義が揺らぐ。

死を目前にした人でも、聖女の力を必要としないことがあるなんて。

アナリナが膝の上で握った手を、老婦人の節くれ立った手がそっと撫でた。

「替わりと言っては何ですが、少し私とお話して頂けませんか? 寝たきりになってから、家族以外の話し相手がおりませんの」

「は、はい……」

アナリナは戸惑いつつも頷く。

「嬉しいわ。聖女様のお名前は何と仰るの?」

「アナリナです」

「アナリナさん。アナリナさんのご出身はどちら?」



アナリナは、おっとりと喋る老婦人に名を呼ばれ、神殿や聖女に関係のない、世間話のような会話をしている内に少し落ち着いてきた。

薬師は二人の様子を見てそっと出て行き、カウティスは椅子を勧められて、壁際に座って様子を見ていた。


「私も平民出の神官で、父は食堂の料理人だったんですよ」

老婦人が懐かしそうに話すと、アナリナの顔がパッと輝く。

「私の父も料理人です! 露天商でしたけど、こんな大きな串焼きが看板商品で」

アナリナが目を輝かせて手振りで大きさを示し、白い祭服の裾がヒラリと舞う。

「私と母は、毎日お肉を串に刺すのを手伝って……」

不意に、アナリナの目から涙が溢れた。

「あ、あれ……」

ポロポロ溢れる涙に、彼女自身が戸惑う。

老婦人がそっと、アナリナの膝を擦る。

「アナリナさん、随分我慢していたのねぇ」

暫く呆然と老婦人の顔を見ていたアナリナが、くしゃりと顔を歪めた。

涙がどんどん溢れて、祭服の袖で押さえるが止められず、そのうちしゃくり上げて声を上げて泣いた。




頭が痛くなるほどわんわん泣いて、ようやく涙が止まった頃、老婦人が言った。

「私が現役の神官だった頃、若い太陽神の聖人様が巡教しておられたの。彼は神に与えられた使命だと自分を追い込んで、神聖力生命力を使い果たして亡くなりました」

アナリナは思わず両手を強く組む。

「でも、神が神聖力を与えるのは、そんなことが使命だからではないと思うのです」

老婦人は穏やかに遠くを見る。


「私が神官だった頃、大好きになった人とお付き合いしていたんです」

神官や司祭などの聖職者には、婚姻が認められているが、それは聖職者同士の場合のみだ。

それ以外の婚姻は、オルセールス神聖王国から認められていない。

それで、一般の者と夫婦のような関係になるが、婚姻はしない神官達が増えた。

老婦人は、エスクトの街で神官をしていて、街の衛兵と夫婦のような付き合いをしていた。


「ある時、大怪我をしたあの人に、神の救い神聖魔法を施しました。月光神様に、『私の全ての神聖力を捧げますから、どうかこの人を助けて下さい』と祈ったのです」

「助かったのですか?」

アナリナが緊張した面持ちで聞く。

老婦人は頷いた。

「はい。そして私は神聖力を失くしました」

アナリナは目を瞬く。


神聖魔法を手に入れた者は、殆どが死ぬまでその力を持っている。

しかし、稀に神聖力を失くして、オルセールス神聖王国に除籍され、一般人に戻る者がいた。


「彼が助かり、身体から神聖力が抜け出て行く時、私はこの時の為に神聖力を与えられていたのだと感じました。神聖力を失くす者は、不思議と皆その瞬間に、『この時の為に与えられていたのだ』と感じるそうです」

「……貴女は、その人を助ける為に、与えられていたということですか?」

アナリナの質問に、老婦人はゆるゆると首を振る。


「私が、“持てる力の全てを使って彼を助けるか”、試されたのです」


アナリナと共に、話を聞いていたカウティスも、そっと眉根を寄せる。

「試す……」

「兄妹神は、その御力を貸し与え、人間の“進化の具合”を試しているのではないかと、私は考えています」


『未だ進化は続いており、我々人間は、太陽神と月光神の完全な世界に向かう途中である』

カウティスは神話の締め括りを思い出す。


「……では、私が月光神の力を与えられたのも、何かを試すためだというのですか?」

アナリナが泣き腫らした目で、老婦人を見つめる。

「分かりません。あくまでも、私の推測ですから。でも、兄妹神の望む進化がどういうものか分かりませんが、人間が神の御手によって創られたもので、今もその御手の上に生きていることは間違いありません」



精霊や神聖力というものが存在し、“神の降臨神降ろし”でその力を知らしめる。

この世界は、確かに神によって創られたのだ。

カウティスは、遠い話だと思っていたものが、急に不気味な色合いを濃くし、自分の上に伸し掛かる気がした。


「アナリナさん、貴女が一人で世界を背負わなくてもいいんですよ」

目線を落として考えていたアナリナの手を、優しく叩いて老婦人が言った。

「生き物はどんな形であれ、産まれれば生き、時が来れば神の元に旅立ちます。その全てに、貴女が関われるわけではないのです」

アナリナの黒曜の瞳が見開かれる。

「アナリナさんが月光神様の御力を頂いた理由が、いつか分かる時がくるのを願っています」

老婦人は温かく微笑んで、頷いた。




村長宅を出ると、心配そうな神官達が外で待っていた。

アナリナの泣き声が外まで聞こえていたらしい。

日の入りの鐘が鳴って随分経ったので、村の子供達は皆帰っていて、大人達が広場の片付けをしていた手を止めて、こちらの様子を窺う。

皆一様に、気掛かりな様子だ。

「……たくさん泣いてしまいました」

アナリナは少し恥じらうように笑った。

女神官が、何も言わずに、そっとアナリナの手を握った。




今夜も月が冴え冴えと輝いている。

アナリナは広場の長椅子に座って、月を眺めていた。

村に一軒だけある宿に、聖女と神官達の部屋を取ってあるが、少しだけ一人になりたいと出てきたのだ。

白い祭服は脱いで、淡青色の法衣の上に、薄いショールを掛けている。

 

アナリナは後ろを振り返って言う。

「一人になりたいって言ってるのに、どうして付いてきちゃうんですか」

言われたカウティスは、何かあればすぐ距離を詰められるだけ離れて立っていた。

鼻先を指で掻いて、小さく息を吐く。

「……護衛なので、神殿外で離れるわけにはいきません」

顔をしかめたアナリナの目は、神官に神聖魔法を施されて、腫れが引いている。

「さっき大泣きしたの、見てましたよね」

「…………忘れました」

アナリナに睨まれ、カウティスが答えるが、余計に目を眇められる。

「もうちょっとマシな言い訳して下さい」

「…………」

目の前で泣かれるのは居心地が悪いが、それを後で追求されると、更にバツが悪い。

「全部見てた罰として、今後、二人の時は敬語なしで!」

何の罰なのか、今一つ釈然としないが、それでアナリナの羞恥心が収まるのならと、カウティスは渋々了承した。



アナリナは長椅子に両手を付いて、大きな溜息をつく。

「……でも、久しぶりにあんなに泣いたら、何だかスッキリしました」

言って、照れたように笑う。

「私、世界中の死は、全部自分が止めないといけないような気がしてたのかも」

聖女になってから、死に近付く人々をずっと掬い上げてきた。

それが与えられた使命だと思って奮闘している内に、いつしか死を止めることが、自分の存在意義だと思うようになっていた。

「精一杯生きて、穏やかに死を迎える人だっているのに。そんなことも忘れてるなんて」

カウティスは、ただ黙って立っている。


溜め息をひとつついて、アナリナが身体を大きく反らせば、青白く月が輝いている。

「……私もいつか、神聖力この力を与えられた意味が分かる時が来るのかしら」

アナリナが、呟くように小さく言った。

「……君なら、いつかきっと辿り着く」

カウティスの声がして、アナリナは振り返った。

黒髪に濃青の騎士服を着て、月光に照らされているカウティスは、まるで月光神の眷族が降りてきた様で、その言葉は月光神の啓示に思えた。


「そして、いつか家族の元に帰れる」


そうであって欲しいと、カウティスは願う。

アナリナは、奥歯を噛み締めて、ひとつ大きく頷いた。



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