南部巡教 (3)
「……カウティス王子だと?」
領主と周りの貴族達がざわめいた。
騎士がゆっくりとフードを剥ぐ。
日に焼けた精悍な顔立ちと、青味がかった黒い髪が露わになった。
「黒髪の……第二王子」
領主と貴族達が顔色を失くす。
ラードが姿勢を正し、掌を胸に当てて頭を下げる。
我に返った貴族達が、急いで立礼した。
「月光神の恩恵と、聖女の心を踏み躙る愚行。全てこの目で見た。このままで済むとは思うな」
床に膝を付いた領主を見下ろす、カウティスの青空色の瞳に、強い怒気が灯っていた。
ラードは、エスクトの街の傭兵ギルドの依頼で、アドホ領主の動向と街の治安状況などを調査しに来ていたらしい。
ちょうど衛兵の追加募集が出されていたので、領主邸に潜入していたところだった。
「そんなこともしていたのか」
アドホの街に帰る道すがら、馬上でラードの事情を聞いたカウティスが驚いた顔をする。
ラードは戦闘タイプの傭兵かと思っていた。
「まあ、基本的に何でもやりますよ。エスクト領主様は人使いが荒いですからね」
ラードが苦笑する。
「では、そなたをアドホに派遣したのは、エスクト領主か」
「そうです。エスクト地方は砂漠化が進んで大変だというのに、アドホの治安悪化で、エスクトに民が流れてます。それで調査を」
カウティスは昨日の貧民街を思い出した。
「詳しいことは、また後で聞こう」
領主邸は、残っていた衛兵達と、ラードがアドホの街に待機させていた傭兵に取り押さえさせた。
とにかく今は、民への聖女の救済が先だ。
街に戻り、オルセールス神殿まで来ると、前広場に集まっていた人々が馬車を囲む。
聖女の救済を求めて、他の街や村からやって来た者達だ。
しかし、この街の者が殆どいない。
アドホの神官に聞けば、聖女の巡教に関しては、街全体の告知を領主が行うと通達され、神殿ではさせてもらえなかったらしい。
神殿や治療院を訪れる者には、口伝えで広まったが、住人全てに周知されなかった。
アナリナは拳を握る。
「これだから、貴族は大嫌い」
自分達の余興の為に、街の人々のことは放ったらかしだ。
それが命に関わるなんて、微塵も想像していない。
神の国として、様々な権限を持つオルセールス神聖王国だが、辺境の国の街にある神殿には、司祭はおらず、神官が一人二人いる程度だ。
特権もなく、布教活動と治療院を見るので精一杯というのが当たり前だった。
アドホの街の神殿でも、太陽神の神官が一人いるだけで、後は奉仕の人々で成り立っていた。
領主に逆らって、何かできるような力はない。
「とにかく、“神降ろし”を必要としている人達を探さないと」
神官や奉仕の人々の知る限りの、救済が必要な人を神殿に集める。
“神降ろし”は日に何度も行えないので、一箇所に集まってもらう必要があるのだ。
街の自警団と、ラードの仲間にも手伝って貰い、街中に報せる。
動けない患者は、彼等が手伝って連れて来た。
人海戦術だが、少しずつ神殿に患者が集まり始めた。
刻々と時間は過ぎ、夕の鐘が鳴る。
「聖女様、これ以上は集まらないのでは……」
神殿の前広場には、多くの患者が集まり、聖女の救済を待っていた。
軽症の者は治療院に割り振っているので、ここにいるのは、本当に苦しいのを我慢して、“神降ろし”に縋る者だけだ。
アナリナは逡巡していた。
貧民街から来ている者がいないのだ。
昨日の状況を見る限り、あの場所こそ、救済が必要な者がいるはずだ。
しかし、貧民街は入り組んでいて、よく知った者でなければ迷ってしまう。
しかも兵士が入っていけば、警戒して姿を隠す者までいる。
貧民街から患者を待つならば、もっと時間がいる。
けれど、もうあまり待たせられない。
明朝にはアドホを出て、次の街へ向かわねばならず、今日しか“神降ろし”を行う機会はない。
滞在を伸ばせば、次の場所で聖女を待っている別の患者が助からないかもしれない。
でも、貧民街にも、今にも命を落としそうな誰かがいたら……。
昨日の少年と母親が思い出され、アナリナは目をギュッと閉じる。
「聖女様」
誰かが苦しそうな声で呼ぶ。
「どうかお助け下さい、聖女様」
一人が声を出せば、周りでいくつもの助けを求める声が上がる。
カウティスは歯痒い思いで、アナリナを見つめていた。
王子としての権限を使い、人を動員し、出来る限りの手は打った。
魔術も使えず、神官でもない自分は、護衛騎士としてアナリナの側に付いていること以外に、今すぐできることはない。
決断を迫られたアナリナの横顔が、苦しそうに歪んでいる。
「私が見よう」
突然、涼しい声がすぐ側で聞こえて、カウティスとアナリナは声の聞こえた方を見た。
カウティスの左胸に、小さなセルフィーネが寄り添うようにしていた。
「「セルフィーネ!」」
二人同時に呼んだ。
「戻った」
セルフィーネが微笑む。
「神官では手に余る患者を見つければ良いのだろう。私が見よう。アナリナ、水盆に聖水を」
セルフィーネがアナリナに言う。
アナリナの顔が輝き、頷く。
訳が分からず戸惑う女神官に、半刻だけ待ってと言い残して、カウティスと共に月光神殿に駆け込んだ。
アドホの神殿の祭壇は小さかったが、造りは同じで、月輪を背負った静謐な月光神の像が立つ。
その前には、月光神の眷族である水の精霊の銀の水盆と、土の精霊の銀の稲穂が置かれてあった。
アナリナは常備されている聖水を汲み、銀の水盆に注ぐ。
水盆に聖水が満たされると、小さな水柱と共に、ゆらりと
しかし、いつもカウティスが見る姿ではなく、長く細い水色の髪は広がり、固く冷たい印象の紫水晶の瞳で、ここではない何処か遠くを見ていた。
白い身体は、月光と同じ青白い光を放つ。
カウティスには見えていなかったが、セルフィーネの魔力が、身体から広く薄く広がっていった。
これが月光神の眷族である水の精霊なのかと、カウティスは息を呑んだ。
柔らかく笑うセルフィーネを、当たり前のように感じていた。
頬を染めて、目を潤ませる彼女を、自分と同様の存在だと思い始めていた。
しかし、やはり彼女は“精霊”なのだ。
「三人だ。いずれも自力では動けない。場所は誰に伝えれば良い?」
セルフィーネが遠くを見たままの瞳で言った。
カウティスは我に返り、即座に返事をした。
「俺が行く」
何事かと、二人の後から月光神殿に入ってきていた、神官と兵士を振り返る。
その中に、街中から戻ってきたラードとノックスを見つけ、指示を出す。
「貧民街に病人を連れに行く。担架を3台用意しろ。力のある者がいい、何人向かえる?」
「カウティス様が行かれるのですか?」
流石に貧民街に、先頭だって王子が向かうとは思わなかったノックスが、焦って聞く。
「水の精霊の声が聞こえるのは、私だけだ。アナリナの護衛を任せる」
ラードが替わりに答える。
「八人は向かえます、王子。俺も一緒に行きましょう」
「“王子”はやめろ。今はただの護衛だ」
カウティスは、面白そうに笑っているラードに一瞥をくれる。
アナリナも、まさかカウティスが向かうとは思っていなかったらしく、黒曜の目を見開いている。
「アナリナ、必ず患者を連れてくる。信じて準備をしていろ」
言いながら、濃紺の騎士服の襟元を緩め、銀の細い鎖を引いて、ガラスの小瓶を引っ張り出す。
中の水を出して、小瓶を聖水に沈める。
コポコポと小さな音がして、魔石の入った小瓶に聖水が満たされた。
セルフィーネが水盆に聖水を指定したということは、彼女にとっては、ただの水よりも聖水の方が良いのだと判断した。
カウティスは銀の鎖を首にかけ、水盆に向く。
硬質な水の精霊に向けて手を伸ばし、言った。
「セルフィーネ、おいで」
固く光っていた紫水晶のひとみに、フッと柔らかい光が戻り、薄く微笑む。
セルフィーネが水盆から消えると、水柱が落ちるのと同時に小瓶に現れ、カウティスの胸に添った。
カウティスは小瓶を優しく握り、踵を返して、足早に神殿を出て行く。
後から思い返せば、自分でも恥ずかしくなる程子供じみた行為だった。
カウティスは、セルフィーネが月光神の
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