南部巡教 (2)
アドホの街のオルセールス神殿にも、前広場がある。
城下の神殿と同じ様に、細い水路があり、地下から水を汲み上げて使う水場もあった。
アナリナは青白い月明かりの下、座って水路に足を浸けて涼んでいた。
聖女を示す祭服も脱ぎ、薄布の法衣一枚だ。
南部は、夜も暑い。
靴音がして見上げると、マントを外して騎士服の襟元を緩めたカウティスがいた。
「一人で出歩かないで下さい」
アナリナは唇を尖らせる。
「神殿の敷地内くらい、大目に見て下さいよ」
足を動かすと、涼しげに水音がする。
唐突にアナリナが言った。
「あの子、孤児院預かりになりました」
「そうですか」
母親以外に身寄りがなければ、そうなるだろう。
「どうしてあの子を抱き締めたんですか?」
アナリナが黒曜の瞳を、真っ直ぐにカウティスに向ける。
「ただの感傷です」
「感傷……」
王子という生き物が、薄汚れた貧民層の子供を、感傷で抱き締めるような事があるのだろうか。
素っ気なく答えて、目を合わせないカウティスを、アナリナは、おかしな王子だと思った。
カウティスは、地べたに座ったままのアナリナを見下ろす。
「……大丈夫ですか?」
「まあ、暫くは大変でしょうが、孤児院には歳の近い子もたくさんいますから」
アナリナが肩を竦める。
カウティスが溜め息をついた。
「あの子じゃない。アナリナ、君だ」
アナリナが大きな目を瞬いた。
カウティスが、敢えて自分を名前で呼んでくれた事に、気遣いを感じる。
だから、本音で話すことにした。
「ちっとも大丈夫じゃないです。どれだけ沢山の人を助けて感謝されても、救えなかった一人の涙の方が、刺さります」
アナリナは水から足を引き上げ、膝を立てて顎を乗せる。
「『どうしてもっと早く来なかった』って、よく言われます。セイジェ王子にも言われましたよ」
王城に招かれて、セイジェ第三王子の病を治すために“神降ろし”を行った。
その時の王子は、自力で満足に呼吸をするのが難しい程、衰弱していた。
しかし、瞬く間に身体が軽くなった王子は、喜ぶよりも先に、痩せ細った顔を歪ませて言った。
『こんなにも簡単に治せるのなら、なぜもっと早く来てくれなかったのだ。そうすれば、母上は……』と。
エレイシア王妃もセイジェと同じ病で亡くなっていた。
「すまない……」
目を伏せるカウティスに、アナリナが苦笑する。
「カウティスが謝ることないでしょう。まあ、あの時は、『箱入り我儘王子が何言ってる』って思いましたけどね」
彼女は、ふうと溜め息をつく。
「大事な人を亡くせば、そう言いたくなるのも分かります。でも
まるで、仕方ない事だと、無理矢理自分に言い聞かせているようだった。
アナリナは顔を空に向けて、青白い光を降らせる月を睨む。
「聖女って呼ばれても、結局大した事出来ないんですよ。どうして神は見てるだけなんでしょうね。何でも出来ちゃうなら、パッパッとみーんな救ってくれたらいいのに。人間だけが、いつも理不尽に泣かされてる……」
睨んだ月が、じわりと滲んだ。
「あー! もう、泣きたくなってきた。カウティスのせいですよっ」
アナリナが顔を伏せる。
八つ当たりだと分かっていたが、口をついて出てしまった。
「泣きたいなら、泣いていい」
カウティスが怒りもせず、呟くように言うので、彼女は上目に睨んだ。
その目から一粒涙が溢れる。
「泣いたって、私は抱き締めてくれないくせに」
拗ねた口調で呟く。
辛い時や心細い時に抱き締めてくれる人は、アナリナにはいない。
愛する家族は、果てしなく遠くだ。
カウティスは小さく息を吐くと、アナリナの隣にしゃがんで、彼女の青銀の頭を軽く撫でた。
その大きくて固い手は優しくて、心地良い。
「子供扱いして。私はカウティスより二つ上ですよ」
「そ、そうだったのか……」
カウティスの、確実に年下だと思っていたらしい反応に、アナリナは思わず笑った。
ようやく、笑うことが出来た。
翌日、朝食の後、神殿でアナリナと神官達が今日の打ち合わせをしていると、“神降ろし”を行う場所が、領主邸に変更になったと知らせがあった。
巡教の日程は伝えてあるが、場所などの準備は現地の人間に任せてある。
不都合がなければ神殿で行うはずだが、動かせる患者は一箇所に集めるよう伝えてあるので、その都合で場所が変更されたのかもしれない。
用意された馬車に神官達と乗り込み、護衛騎士を連れて、四半刻程移動する。
どうやら街を出たようだった。
アナリナ達が郊外の領主邸に着くと、大広間に通された。
派手な装飾がされた広間には、今から宴が始まるような料理が並べられ、着飾った貴族達が集まり、聖女を待ち構えていた。
「お待ちしておりました、聖女様」
無駄に多い装飾のついた服を着て、領主を名乗る男が挨拶に出てくると、次々に貴族達が挨拶を始める。
「領主様、これは一体……」
太陽神の男神官が尋ねると、ねっとりと笑った領主が、広間を指す。
「聖女様は、昨夜は神殿で殆どお食事を摂られなかったとか。色々と用意させましたので、共にお話などしながら……」
「巡教目的の旅程ですから、歓待の宴はお断りしたはずです」
「固いことを言うな」
食い下がる神官に、領主はつまらないものを見るような顔をする。
「私が診るべき患者は何処ですか。見たところ、ここにはいないようですが」
アナリナの固い声に、領主は笑顔を深める。
「おお、すぐに“神降ろし”を行なって頂けるのですか? 聖女様に診ていただきたい者は、あの者です」
領主の示したところには、布で腕を肩から吊り下げた男が一人いるだけだ。
「……あの方だけですか?」
「そうなのです。幸い重病の者は、この辺りにはおりませんでしたので」
周りの貴族達も笑顔で頷く。
「“神降ろし”は日に何度も行えません。あの方は、神官の神聖魔法で大丈夫そうですから、私は神殿の方へ集まる患者を診ます」
アナリナが扉の方へ向こうとすると、領主が大袈裟な声を上げる。
「おおー、皆聞いたか。聖女様は、なんと慈悲深い。平民もその御手で救って下さるとは。それでは明後日、患者が神殿に集まるよう通達致しましょう」
「明後日?」
アナリナの顔色が変わる。
「もしかして、今日“神降ろし”を行うと、街の住人に通達していないのですか!?」
「神殿からの通達が、民に広く伝わっていないようで。これからでは多くを集められるかどうか……」
側にいた貴族が言う。
「では、聖女様の滞在を延ばして頂いては?」
「それがいい。もう少し、聖女様とお近付きになりたいものです」
周りの貴族達が口々に言って、作り物の笑顔で囲う。
「聖女様は旅程が決まっているのです」
神官が顔を引きつらせて言うが、領主や周りの貴族達は意に介さず笑っている。
「そんなものは、調整すれば良いだけのこと。神官風情が口を挟むな」
領主は神官を押しやって、アナリナに近付く。
「せっかく世界にたった一人の聖女様が、この街を訪問されたのだ。もう少しここに居て頂きたい。貴女の“神降ろし”とやらを見てみたい者は大勢おります」
アナリナは目を見開いて、拳を握った。
「見てみたい……ですって?」
この貴族達は、切羽詰まって聖女を必要としているのではなく、珍しい現象を観賞したいというのだ。
命を救うのが使命だと思い、血を吐く思いで多くを手放してきた。
それなのに、ただの見世物として見られている。
アナリナは怒りと悔しさに震える。
領主がアナリナの手を握ろうと、手を伸ばした。
静かに控えていた聖女の護衛騎士が、影のように彼女と領主の間に入り、長剣の柄を領主の手に向けて下から勢い良く突き上げた。
鈍い音がして、領主の出した手の指が、おかしな方向に曲がる。
「おぐぁっ!」
領主が手を押さえて無様に床に転がり、悶えた。
護衛騎士は、南部でよく見られるフード付きのマントを着ていて、顔が鼻から下しか見えなかった。
「その程度の傷ならば、治療院に並べば“神官風情”が治してくれるだろう」
言い捨て、アナリナと神官を連れて出ようとする。
囲んでいた貴族達が、慄いて間を空けた。
「ぐぬぅっ貴様! 許さんぞ! 衛兵、奴を捕らえろ!」
ツバを散らして領主が喚くと、広間の中に護衛として配置されていた兵士の内、近い兵が飛び掛かった。
フードの騎士は、アナリナをノックスの方へ押しやると、飛び掛かった兵士の腕を掻い潜り、滑るように懐に入る。
長剣の柄で下から顎を突き上げ、続けて二人目の足を払うと、足首を踵で強く踏んだ。
骨が軋む鈍い音がした。
扉が開いて、更に十人程の衛兵が雪崩れ込んできた。
フードの騎士は、深く息を吐く。
「手加減出来る気分ではない。怪我をしたくないなら、来るなよ」
騎士が長剣の柄を握る。
息と共に漏れ出る怒気に、衛兵がたじろいた。
それでも何人かの衛兵が、フードの騎士に向かっていこうとした時、笑いを含んだ声が響いた。
「やめておけ。その人、お前等が束になっても敵わないから」
後から広間に入って来た衛兵の一人が、壁にもたれ掛かってこっちを見ていた。
無精髭を生やし、濃い灰色の髪をオールバックにしたその衛兵は、フードの騎士を見て笑う。
「相変わらず、思い切りがいい戦い方ですねぇ、王子」
「……ラード?」
フードの騎士、カウティスが怒気を薄めて呟いた。
「お久しぶりです、カウティス王子」
オールバックの衛兵が笑う。
南部で共に魔物討伐を行っていた、ラードだった。
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