初めての気持ち
火の季節の前期月。
式典も無事に終わり、一週過ぎた。
カウティスは近衛騎士として、日中はエルノート王太子と行動を共にすることが多くなった。
王の執務室で、王が渋面を作って、美しい細工がされたガラスの水盆を見つめている。
部屋にいるのは宰相セシウムと魔術師長ミルガンだ。
水盆には、セルフィーネが静かに立って、目線を下に落としていた。
エルノートが白いマントを揺らして続き間から入室し、紺の騎士服のカウティスが続く。
カウティスが入室したのを見ると、王は目を細めて言う。
「カウティス、そなた水の精霊に何かしたか」
「は?」
突然の質問の意図が分からず、カウティスは眉を寄せる。
王は溜め息をついて、革張りの椅子に身体を預けて腕を組んだ。
「式典後に、水の精霊は南部へ向かうと言っていたのでな、いつ向かうか聞いてみたのだ。そうしたら、『行きたくない』と言う。それ以上は何を聞いても口を開かぬ」
今までのセルフィーネなら、動けるならば、要請しなくても自ら要所へ出向いていた。
子供の頃に、セルフィーネが初めて南部へ向かった時は、数日延ばせないかと聞いても、少しでも早い方が砂漠の民のためだと言ったくらいだ。
“行けない”ではなく、“行きたくない”と、言うのは初めてだった。
「水の精霊の様子がおかしい時は、大体カウティスが関わっている。そなた、心当たりはないのか」
王が眉を寄せて、カウティスを見た。
その言われようはどうかとは思ったが、カウティスにも心当たりはなかった。
日中が忙しく、早朝鍛練と夜にバルコニーで会うだけだが、特に変わった様子はなかったと思う。
火の季節で、毎夜月は冴え冴えとしている。
セルフィーネは月光のお陰で随分と回復したようだった。
透き通った身体は、朧気でもなく安定しているようだし、白い肌や長い髪は、以前よりもむしろ生気を感じる程だ。
「セルフィーネ、何かあったのか?」
カウティスの問い掛けに、セルフィーネは一度顔を上げて彼を見たが、言葉を探す様に逡巡した後、また目線を逸した。
何も言わないということは、言いたくないか、言えないということだろう。
「セルフィーネ、行かなくてもいい。王城にいて出来ることもある」
カウティスは、視線を落としたセルフィーネを見たまま言った。
王が眉根を寄せて声を低くする。
「カウティス、軽々しく言うな」
「軽々しく言っているのではありません。ただ、水の精霊にも意思があるのですから、強要することは出来ません」
カウティスが言うと、エルノートが続く。
「確かにそうです。水の精霊様は、我が国の臣ではありませんから」
エルノートは水盆のセルフィーネを見下ろす。
「十三年間、我々の国の事は、我々の力で何とかやって来たのです。これからもそうすれば良いというだけのこと。水の精霊様には、何より大事な水源を頂いているのですから」
エルノートは、王の隣で水盆を覗いているミルガンに目を向ける。
「南部の問題は、砂漠化の拡大だ。ミルガン、魔術士の南部への派遣を増やせないか」
セルフィーネが、指示を出し始めたエルノートの顔を見上げ、紫水晶の瞳をゆっくり瞬く。
王は額に手をやる。
精霊の恩恵は受けても、人間の国の事は人間が行うべきだと、自分もそう思ってきた。
だが、理想通りにはいかないものだ。
恩恵を前にしては、皆それを欲する。
水の精霊が帰ってきたことを受け、式典後からは、各地から水の精霊の派遣を要請する嘆願が続々と届いていた。
ここで全てを断っては、王室に対する求心力を弱めることになり、引いては、エルノートの即位後に影響を及ぼすことになりかねないのだ。
ふ、とセルフィーネの小さな笑い声が聞こえて、セシウム以外の皆が水盆を見た。
「カウティス以外から、そのように言われたのは初めてだ。感謝する、王太子」
セルフィーネが薄く微笑んでいる。
王とエルノートが小さく息を呑んだ。
「王よ、私の我儘だった。すまない。今夜、南部に向かう」
「セルフィーネ」
カウティスが水盆に手を添える。
セルフィーネはその手に、小さな自分の手を乗せた。
「大丈夫だ。ちゃんと役割を果たす」
カウティスに向かって柔らかく微笑むと、セルフィーネは消え、水盆の水柱がパシャと落ちた。
「……そなたはあのような水の精霊を、ずっと見てきたのか」
王がカウティスを横目で見た。
「あのような、とは?」
カウティスが水盆から手を離して、王の方を向く。
「…………もう良いわ」
王は深い溜め息をついて、手を振った。
フェリシアは陰鬱な気持で内庭園に降りた。
今日も王妃教育という名の、つまらない講義が待っている。
“民に愛される王妃になるためには”と、誰も彼も口にするが、皇国からわざわざ辺境へやって来た私を、民はありがたがってそのまま愛するべきではないか。
今日も、暑い。
手にした扇を開こうとした時、女の声がした。
この声は、確かセイジェの乳母だ。
「あのような扱いは、あんまりでございます」
乳母のソルは、悔しさを滲ませて言った。
「そうかな。水の精霊の帰還を祝うというのは建前で、カウティス兄上を表舞台に復帰させるのが、父上の狙いだったのでは? エルノート兄上への譲位も発表されたのだから、二人が中心になるのは当然だ」
セイジェは、白い大輪の花に顔を近付け、香りを嗅ぐ。
「しかし、セイジェ様の病も快癒して、これからは国政にも参加出来るようになります。あの場でセイジェ様を、貴族院の方々と繋いで頂いても良かったはずです」
乳母はどうやら、式典でのセイジェの扱いが不当であると主張しているようだ。
収まらない悔しさに、乳母が拳を握る。
セイジェは軽く首を傾げ、呆れたような笑みを浮かべた。
「ねえ、ソル。お前は、私に一体何を期待しているの?」
「……え?」
乳母は何度も瞬きする。
「父上も母上も、私には身体を大事にすることと、王族として最低限身につけておくべき事以外を望まなかったよ」
「そのような……」
セイジェは笑いながら大輪の花を折る。
「フレイア姉上、エルノート兄上、カウティス兄上。三人共、才能があって、輝いている」
赤、白、紫と、三本の花を折って香りを嗅ぐ。
そして、黄色の花の蕾を折った。
「私はね、“予備”だよ」
「予備?」
乳母は怪訝な顔でセイジェを見る。
「そう。もしも、兄上達に何かあったときの、“予備”だ」
セイジェは乳母に蕾を渡す。
魔術素質の高さと才能を持つフレイア。
多彩な才能を持ち、天才と評されるエルノート。
誠実さとたゆまぬ努力で、
それぞれが、自慢の姉兄だ。
そして、自分は彼等に比べれば、平凡な王子だ。
「そのような!」
乳母は蕾を握り締め、セイジェに縋る勢いで詰め寄る。
「セイジェ様はエレイシア王妃様の血を引く、正当な王子です!」
「だから?」
セイジェの顔から笑顔は消えない。
「母上の血を引いていても、私が予備であることに変わりはないよ。 それに、
セイジェは花を持って、踵を返す。
「セイジェ様……そんな……」
取り残された乳母は呆然と呟いた。
セイジェが庭園の出口まで来ると、フェリシアと遭遇した。
バツが悪そうな顔をする義姉に、セイジェは笑い掛ける。
「もしかして、お聞きになりましたか?」
「え? ええ……」
セイジェは喉の奥で笑い、持っていた花の中から白の大輪を抜くと、フェリシアに渡す。
「エルノート兄上には、秘密ですよ」
セイジェは唇に人差し指を当てて、フェリシアの隣をすり抜けて行った。
日の入りの鐘が鳴り、太陽が月に替わる。
カウティスが庭園の泉に来ると、セルフィーネは照らし始めた月の光を浴びて、泉に佇んでいた。
カウティスに気付くと言う。
「来ると思っていた」
「当然だ。暫く会えなくなるのだぞ」
カウティスは泉の縁まで近付いて、筋張った大きな手を伸ばす。
セルフィーネは白い指を添えて、幸せそうに微笑んだ。
「行きたくなければ、無理に行く必要はないぞ」
王城にいても、セルフィーネは常に俯瞰で国内を見守っている。
その魔力だけでも、多くの恩恵がある。
心配そうなカウティスに、セルフィーネは首を振って見せる。
「そなたは何時だったか、『水は命だ』と言ってくれた。私の役割だ、守らねばならない」
普段のセルフィーネらしい言い様だ。
「どうして行きたくなかったのだ?」
疑問に思って聞いてみると、セルフィーネは少し困ったような表情をした。
「……分からない。ただ、行きたくないと思って……どうしてだろうか。こんなことは初めてだ」
セルフィーネは、繋いでいない方の手を自分の胸に当ててみる。
奥がザワザワとして落ち着かない気がした。
カウティスが、自分の右手の上にあるセルフィーネの白い手を見つめて、自嘲気味に言う。
「……本当は俺の方が、そなたが『行きたくない』と言ってくれないかと思っていた」
「何故?」
セルフィーネは首を傾げる。
「『一緒にいたいから行きたくない』と、言ってくれないかと……」
カウティスの右手の上の白い手が、ふわりと薄い桃色に染まる。
思わず顔を上げたカウティスの前に、白い頬を薄桃色に染め、紫水晶の瞳を潤ませて、口元を細い指で押さえるセルフィーネがいた。
カウティスはドキリとする。
「…………そういうこと……なのか」
セルフィーネが潤んだ目線を下に逸らして言った。
「……そういうこと?」
「私が行きたくないのは……カウティスと離れたくなかったからだ……」
「!」
カウティスの心臓が強く鳴る。
セルフィーネを引き寄せたい衝動に駆られて、右手を握ったが、透き通った彼女の手を掴むことは出来なかった。
「……もう、行く。国内の目は閉じない」
カウティスから手を引き抜き、胸の前で握ると、桃色に染まった顔を隠すように、セルフィーネはスイと俯き気味にカウティスから離れた。
「セルフィーネ」
カウティスが呼ぶのと、水柱が落ちるのは同時だった。
カウティスは泉の縁に手を置いて項垂れる。
「……だから、言い逃げはズルいだろう」
火照りは、すぐには収まりそうもなかった。
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