社交界への復帰

「エルノート王太子、水盆の前へ」

静かな声が響いた。

王族と、壇上に近い位置にいた魔術士達にしか聞こえない、セルフィーネの声だ。


エルノートが水盆の前へ立つ。

まだ薄く朧気なセルフィーネが、すっと顔を上げると、突然水盆の水が舞い上がり、エルノートの頭上で霧散する。

水の小さな粒は、天窓からの陽の光を反射させ、エルノートの周りだけを輝かせた。


その輝きは、太陽神からの祝福のようだった。


カウティスは膝を折り、胸に掌を当て、エルノートに頭を下げた。

セイジェが続いて膝を折る。

波紋が広がるように、周りの者達が次々と立礼していった。



「水の精霊の加護でなく、太陽神の祝福とは。小憎い演出をしてくれるな」

王は小さく笑って水盆を見た。


王からは、水の精霊の斜め後ろの姿が見えている。

正面から見ていなくても、やはり今までの水の精霊とは少し違って見える。

纏う空気が柔らかく、つい手を伸ばし、こちらに向かせてみたくなる。

十三年前、水の精霊がカウティスに別れを告げていた時に、こういう姿を見た。


何故急に変わったのか分からないが、王族以外には水の精霊が見えないことが、幸いであったと思った。

むやみにあの姿が見えては、要らぬ争いが起きるかもしれない。

カウティスは大丈夫だと言うが、本当に十八代国王のような事は起こらないだろうかと、僅かな不安が胸に残った。





式典は無事に終わり、大広間に場を移して宴が始まる。

楽団が演奏し、中央でダンスが始まった。


最初に王太子エルノートと王太子妃フェリシアが踊る。

エルノートと、赤い華やかなドレスを着たフェリシアが踊っていると、絵画の中から出てきたように美しく、完璧だった。

しかし、二人は会話もなければ、甘く見つめ合うこともなく、儀礼的に終わりの挨拶をすると離れた。



「エルノート兄上と義姉上は、色気がありませんねぇ」

カウティスの横に来て、溜め息交じりにそう言ったのは、セイジェだ。

金糸で刺繍された若草色の詰襟に、濃緑のマントを着け、柔らかい蜂蜜色の髪を緩く後ろに纏めている。

「騎士団正式復帰と近衛騎士就任、おめでとうございます、兄上」

セイジェはカウティスを見て微笑む。

「ありがとう。……セイジェ、この間は、そなたの気持ちも考えず、すまなかった」

一昨日の庭園でのことだ。


思い返せば、セイジェとは幼い頃からよく一緒にいたが、喧嘩らしいことはしたことがなかった。

胸元を掴んで怒鳴ったなど、初めての事だった。

「…………水の精霊は、兄上の元に帰ってきたのですね」

セイジェは水盆の方を見る。


大広間に移動して、王とマレリィは上座に座っている。

王の前には、ガラスの水盆が設置されて、小さな水柱が立ち、セルフィーネが佇んでいた。

昼の鐘が鳴るまでは、皆に姿を見せるよう頼まれていて、王に挨拶を済ませた貴族達が、次々に水盆に向かって水の精霊への感謝を述べて行く。

彼等にはセルフィーネの声は聞こえないので、彼女は何も言わず立っているが、その姿は変わらず美しい。


「私はやっぱり、水の精霊は目に見えぬ精霊ものであったら良かったと思っています」

セイジェは形の良い眉を下げ、カウティスの顔を見る。

「でも、私は兄上が好きなので、兄上が幸せなら良いです。出来ればもう、兄上に辛いことが起こらないと良いと思っています」

「セイジェ……」



何人かの婦人とダンスを終えたエルノートが、一旦下がって、二人の所に来た。 

セイジェが給仕からグラスを受け取って、エルノートに渡す。

「カウティス、そなたどうやって水の精霊様を連れ戻したのだ?」

エルノートがグラスに口を付け、からかうように言う。

「…………言えません」

カウティスは視線を逸らす。

月光神殿でのことは、誰にも言えない。

「ふうん? では、何故あのように水の精霊様は変わられたのだ?」

「変わった?」


カウティスは水盆を見る。

「何か、変わりましたか?」

離れているからか、よく見てもカウティスには分からない。

エルノートは眉を上げる。

「そうだったな。そなたには、あれが普通だったか。我々の前ではいつも、もっと硬質な人形のようだったぞ」

カウティスはもう一度、セルフィーネを見た。

柔らかくドレスの襞が揺れて、見えた白い素肌が、どことなく温かな色合いになっている。

カウティスが側にいなくても、雰囲気は柔らかかった。

ふと、彼女がこちらを見てふわりと笑み、カウティスも微笑みを返した。



「カウティス、そなたも何曲か踊ってこい」

突然エルノートに言われて、我に返る。

「は? しかし……」

「父上を支持する貴族院の面々には、面を通しておけ。彼等の令嬢が何人か来ているから、誘ってくるといい」

成人後から殆ど貴族社会から離れていたカウティスにとって、社交の場は苦手なものだった。

しかし、これからは苦手と言って避けるわけにもいかないのも分かっている。


「しかし、兄上、私は……」

エルノートは薄青の瞳でカウティスを射る。

「未婚の誓いは受け入れたが、これは別の話だ。そなたが王族籍から抜けたくないのなら、尚更社交の場は重要になる。我儘は許されんぞ」

エルノートは、カウティスの肩をポンとひとつ叩いて、貴族達の輪に入って行った。

カウティスが会場に目を向けると、三人の王子が並び立っているのを、多くの者が注視していたようだった。

令嬢達は、カウティスやセイジェがダンスに誘うのを、熱い視線を向けて待っている。

「行きましょう、カウティス兄上」

セイジェがカウティスの腕を引く。


セルフィーネの見ている前で、彼女達と踊れというのか。


しかし、エルノートの言い分は正論で、避けようがない。

カウティスは眉根を寄せる。

結局、カウティスは令嬢を誘って、数人と慣れないダンスをした。

セルフィーネは変わりなく佇んで、黙って見ていた。

そして、昼の鐘が鳴ると同時に、すぐに消えてしまった。





大広間のあちこちで、様々な噂話や思惑が行き交う。


「王太子と王太子妃の不仲は、本当のようだな」

「皇国との関係が強化されると期待したが、二年経ってもこれでは」

「既に、側妃に娘を推す貴族院もいると聞くぞ」

「カウティス第二王子と縁を繋ぐのも急がねばならん」

「しかし、先に申し込んだ縁談は既に断りが入ったと……」


王太子妃フェリシアの侍女は、貴族達の話を耳にして顔色を悪くした。

皇国から皇女に付いて来て二年余り。

母国からは、世継ぎの出来ない二人の仲を進展させるよう、度々催促されている。

しかし世継ぎどころか、月に二度義務付けられている共寝も、王太子の政務の都合で度々取り止めになる有様だ。

フェリシアも最近では、王太子に微笑みかける事さえなくなった。


このままでは、本当に側妃を置くことになるかもしれない。

そうなった時の我が身を考えると、思わず身震いした。




エルノートの即位を手放しで支持する貴族院の面々と、立て続けにダンスしたフェリシアは、汗ばんだ身体を休めようと、緋色のソファに腰を下ろす。

侍女からグラスを受け取って口を付ける。

冷たい液体が喉を通っていくと、少し落ち着いた。



“魔力通じ”の後から、エルノートは冷たい。

時折見せてくれていた優しさも気遣いも、全く感じられなくなった。

今日のような日でも、とても儀礼的だ。


“魔力通じ”の後すぐに、フェリシアはフルブレスカ魔法皇国の、父である皇帝に手紙を送った。

ネイクーン王国の水の精霊のこと、エルノートの無礼な振る舞いのこと、婚姻をなかったことにして皇国に戻りたいことを書き綴った。

しかし、昨日帰ってきた返事は、第三妃の母からのもので、フェリシアには受け入れ難い内容が書かれてあった。

曰く、ネイクーン王国にはネイクーン王国の風儀があり、その国に入ったからには従わねばならないこと。

王太子の振る舞いは、王太子妃であるフェリシア自身にまず責任があること。

そして、婚姻を取り消すことは不可能で、フルブレスカ魔法皇国とネイクーン王国の繋がりを強化するのが、フェリシア第六皇女の使命だと結ばれていた。


その文面からは、どうあってもネイクーン王国との繋がりを強化せねばならない、という強い意図が感じられる。

近年、フルブレスカ魔法皇国は、大陸北部の国々と関係悪化が懸念されている。

今、北部以外の国との関係を悪化させるわけにいかないというのが、フェリシアの言い分を却下する最大の理由なのではないだろうか。


フェリシアは下唇を噛んだ。

このままでは、一生ここで惨めに暮らしていくことになってしまう。

どうすれば良いのか……。



「義姉上、一曲踊って頂けませんか?」

突然、優しい声音が聞こえて、フェリシアは弾かれた様に顔を上げた。

目の前で、セイジェが優雅に手を差し出している。

柔らかい蜂蜜色の髪を緩く後ろに纏めているが、白い額に幾筋か垂れて揺れている。


汗も引いたので、フェリシアは持っていたグラスを侍女に渡して、セイジェの手を取る。

広間の中央に出ると、二人は身体を近付けた。

その流れで、セイジェはフェリシアの耳元に顔を寄せる。

「あまり強く噛むと、美しい唇に傷が付きますよ」

耳元で囁かれた声に、フェリシアの心臓が跳ねた。

「……気をつけます」

セイジェが顔を離して微笑むと、ちょうど曲が始まった。



フェリシアは、セイジェのリードでステップを踏む。

エルノートと踊るよりもずっと身体が軽くて、久々にダンスが楽しいと思えた。




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