失踪 (後編)

火の季節前期月、三週三日。

カウティスは、昨夜も少しも眠れなかった。



カウティスが日の出前の早朝鍛練に向かっても、泉に水の精霊は現れない。

「セルフィーネ、どうして姿を見せない」

カウティスは泉の縁に手を置いて、俯く。

泉の水はおそろしく澄んでいて、底のタイルの細かい模様までよく見える。

「姿を見せられないなら、せめて、応えてくれ」

カウティスが絞り出した声にも、水面は何の動きも見せず、小さな噴水が、サラサラと水音を立てるだけだった。





王の執務室で王とエルノート、宰相セシウム、魔術師長ミルガン、そしてマレリィを交え、水の精霊が何の応答もないことを確認する。

「魔術師館で各地の水源を確認させましたが、何処も変わった様子はないようです」

ミルガンが報告する。

「水の精霊様に何か異変があったわけではなさそうですね」

エルノートが腕を組んだ。

「カウティス、そなたにも、何も分からないのですか」

「はい……」

マレリィに尋ねられ、俯くカウティスに、セシウムが呟く。

「まさか、式典にも現れないなどということは……」

「恐ろしい事を言うな」

革張りの椅子に座った王が、整えられた頭を掻きむしった。

「水の精霊の帰還を祝うのに、主役がいないなど。ようやく鎮まった貴族達が、また騒ぎ出してしまう」

呼びかける以外に手がないのがもどかしい。


「もう一度、泉に行かせて下さい」

カウティスは一礼して、部屋を出た。




泉に着くと、カウティスはゆっくりと縁に近付く。

まだ午前だというのに、今日も日差しは容赦なく照りつけ、白い石畳もジリジリと焼かれている。

カウティスは縁に手を付き、名を呼ぶ。

「セルフィーネ」

やはりなんの応えもない。

カウティスは一度目を閉じ、息を吸うと、焼けた泉の縁に座る。

「そなたが姿を見せるまで、ずっとここにいるからな」


午前二の鐘が鳴って、もう随分経った。

あまりにも遅い王子の様子を見に、花壇の小道から覗いた侍女のユリナは、カウティスが泉の縁に座り、少し前屈みになって俯いているのを見た。

ネイクーン王国のこの季節、炎天下に日除けもなしで屋外に長時間いるなど、命に関わる。

慌てて近寄ろうとすると、制止の鋭い声が飛ぶ。

「近寄るな」

カウティスは日に焼かれ、汗が大量に流れ出ていている。

ユリナは叫んだ。

「王子! いけません、危険です」

「庭園に入ることは許さん」

カウティスは再び指示する。

水の精霊が姿を見せるまで、何が何でもここにいるつもりだった。

彼女が王城にいるのなら、ここに自分を放っておくはずがない。


くらりと目眩がして、カウティスの膝の上で、自分の上半身を支えていた腕が力をなくした。

上半身が傾いたが、脱水症状の身体には力が入らない。

石畳に頭から倒れそうになった時、ひんやりとした柔らかいものが彼の身体を受け止めた。

霞む目に、キラキラと輝く水が見える。

泉の水が迫り出し、彼の身体を支えていた。

そのまま、カウティスの身体をゆっくりと石畳に降ろすと、水はパシャと音を立てて、カウティスの身体を冷やすように流れ落ちた。

「セルフィーネ……!」

掠れた声を出すが、彼女の姿はない。

「何故だっ……」

石畳の熱さが息苦しい。



「無茶しすぎです、兄上」

柔らかい声がして、誰かがカウティスの身体を引き起こした。

頭がぐらぐらする。

両側から支えられ、目を開けると、蜂蜜色の髪を緩くまとめたセイジェと、彼の護衛騎士がカウティスを助け起こしていた。

セイジェは侍従に、魔術士と薬師を呼んでくるよう指示し、カウティスを大樹の木陰まで連れて行く。

木陰に寝かせて襟元を開かれ、水を飲まされた。


セイジェは、内庭園を通って行ったカウティスが、いつまで経っても戻って来ない事が気になって様子を見に来たらしい。

「水の精霊なんかよりも、私は兄上に何かあったら悲しいです」

“なんか”と言うセイジェに、周りの侍女や乳母、護衛騎士がぎょっとする。

「……心配かけてすまない。たが、水の精霊をそのように言うな」

少し落ち着いてきたカウティスを見て、セイジェが呟くように言う。

「……もう、良いではないですか」

伏せていた目を開き、セイジェを見れば、彼は濃い蜂蜜色の瞳に昏い色を滲ませて、カウティスを見ている。

「皆であれだけ呼び掛けても、何の反応もなかったのですよ。水の精霊は、アブハスト王以前に戻るつもりなのでは?」



アブハスト王は、三百年近く前の、ネイクーン王国十八代国王だ。

歴代最高と謳われた魔術士でもあり、水の精霊に人形ひとがたを与えたとされる。

水の精霊がネイクーン王国にもたらされた当初は、人形ひとがたはなく、声も聞けなかったらしい。

水源が保たれていること、時折水盆に水柱が立つこと、そして、各地で水の精霊の魔力による恩恵を受けることで、水の精霊の存在を確認していたのだ。


水の精霊セルフィーネがこのまま姿を現さなければ、その頃に戻ったのと変わらない。

いや、水柱さえ立たない今の方が、もっとひどい。



「そんなこと……」

カウティスの声が掠れる。

「良いではないですか。水源が保たれることが、我が国に最も重要な事でしょう?」

薬師が到着して、カウティスの具合を診始める。

「竜人族に与えられた、本来の水の精霊に戻るだけではないですか」


カウティスは薬師を払い、無理矢理身を起こしてセイジェの胸元を掴んだ。

「“水源が最も重要”だと? “本来に戻るだけ”だと!」

「カウティス王子!」

護衛騎士がカウティスを引き剥がし、乳母がセイジェの前に立った。

「彼女がどれ程の思いでこの国を守ってきたか! どれ程の献身の上に我等が生かされているのか、分からないのか!」

カウティスが叫ぶと、セイジェはキツく顔を歪ませる。

「分かってないのは兄上です! 水の精霊に関わってから、誰も彼も苦しんでばかりだ……!」

カウティスが息を呑んだ。

セイジェはふいと顔を反らせると、立ち上がり、後は頼むと言い捨てて去って行く。


行き違いに、魔術士のマルクがやって来た。

カウティスの具合を薬師に聞き、風魔術と水魔術の符を出して、カウティスの身体を冷やす。

「王子、一体何がどうなってるんですか」

水の精霊が戻ってきて喜んだのも束の間、今また失踪騒ぎだ。


カウティスは苦い思いで地面を掻いた。

その手に、ポツリと水の粒が落ちた。

ポツリ、ポツリと辺りに小さな粒が続けて落ちてくる。

「火の季節に、まさか雨が」

ユリナが空を見上げる。

ネイクーンの火の季節に、自然に雨は降らない。

降るとしたら、それは水の精霊の力によるものだ。

カウティスは顔を歪めて、太陽の照りつける空を見上げる。

「やめろ、セルフィーネ。こんなことをすれば……」

火の季節に雨を降らせるなど、魔力を消費するだけだ。

粒はどんどん多くなり、サラサラと降る。

太陽は、その威力そのままに輝いていているのに、雨は止まない。

「……水の精霊様が、泣いている」

マルクが空を見上げて言った。




日の入りの鐘が鳴る。


「まだ降っているのか……」

王は執務室の窓から外を見て、険しい声を出した。

水の精霊は、魔力を枯渇させてしまうつもりなのだろうか。


「どうも、腑に落ちませんね。カウティスの未婚の誓いを知って、怒るにしても、喜ぶにしても、突然姿を消すのは理解できません」

エルノートが窓から外の雨を見て言った。

「第一、カウティスと会って消えるなら、二人の間に何かあったのでしょうが、父上が最後に会ったというのが引っ掛かります」

エルノートが王の方を向くと、王はスイと目線を逸らす。

「……父上、何か心当たりがございますね?」

黙っている王に、エルノートは薄青の瞳を凍らせる。

「水の精霊を失った王として、国史に名を残したいのですか」

「分かった、分かった!」

王がバンバンと執務机を叩く。

椅子の背もたれに身体を預け、長く息を吐いた。

「カウティスを、アブハスト王と同じ道に連れて行くなと言ったのだ」

「アブハスト王? 十八代国王のですか? 確か、政変によって討たれたと」

エルノートが怪訝な顔で首を傾げた。

「そうだ。魔術に傾倒して国政を疎かにし、臣によって討たれたと国史に残っている。だが、事実は少し違う」


王は、執務机の鍵がついた引き出しから、鈍く光る金の腕輪と、似たような指輪を取り出し、机の上にコトリと置く。

どちらにも、内側に魔術式が細かく彫られてある魔術具だ。

腕輪の方は、図書館の禁書庫の入庫許可符で、エルノートも使ったことがある。

「禁書庫の最奥に、王となった者だけが見ることを許される書棚がある。指輪はその鍵だ。そなたの即位後に渡すはずだった」

王は空色の瞳をエルノートに向ける。

「明後日の式典で、来年、光の季節後期月に譲位することを、正式に発表する」

毅然と立ち、父王の瞳を臆すことなく見返すエルノートの姿に、王は言葉を絞り出す。

「……光だけでなく、血も、闇も呑み込まねばならぬ座だ。そなたに背負わせる、父を許せ」



エルノートは、以前よりずっとシワの増えた、父王の顔を見つめる。

そして、机上の魔術具を手に取った。


「元より、自ら望んだ座です。決して、目を背けません」




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