失踪 (前編)

火の季節の前期月、二週五日。


カウティスは日の出前に、日課の早朝鍛練を行っていた。

泉は、小さな噴水がサラサラと水音を立てている。

今日はカウティスが剣を振っていても、水面が少しも跳ねなかった。

セルフィーネが行った先は、面倒なことになっているのだろうか。


日の出の鐘が鳴った。

カウティスは袖で汗を拭い、短く息を吐いて庭園を出て行った。





大食堂での朝食を終えると、カウティスは王に執務室に来るよう指示された。

エルノートと共に執務室に入ると、珍しく王がマントを外すこともせず、カウティスを待っている。


「水の精霊に会ったか?」

カウティスとエルノートが入室するなり、王が尋ねた。

カウティスの顔がパッと輝く。

「いいえ。戻ったのですか?」

「……昨夜戻った。しかし、様子がおかしかったので、そなたに会いに行ったかと……」

歯切れの悪い王の言葉に、カウティスは胸騒ぎがした。

「様子がおかしいとは、どういうことでしょうか」

王は、緋色のマントを外して侍従に渡し、大きな革張りの椅子に腰を下ろすと、息を吐いた。

「すまぬ、そなたが未婚の誓いを立てたことを話したら、何やら動揺したように消えてしまった」

カウティスが顔を歪め、エルノートが額に手をやる。


王の執務机には、水盆が置かれたままだった。

カウティスは、磨かれた銀の水盆にそっと手を添える。

「セルフィーネ」

呟くように呼びかけるが、水盆の水面は何の変化もない。

「カウティス、庭園に行っておいで。先ずは水の精霊様の無事を確かめよう」

エルノートの言葉に頷き、カウティスは踵を返した。



内庭園に出ると、セイジェとフェリシアの侍女が控えているのが目に入ったが、今日は気が急いていたので中を通った。

「カウティス兄上」

薄衣のセイジェが、花を指してフェリシアと話していたが、カウティスが現れたのを見て、顔を綻ばせる。

セイジェの側に添うようにして立っていたフェリシアが、バツが悪そうに距離を取った。


「珍しいですね。兄上も花を見に……来たわけではなさそうですね。何かありましたか?」

カウティスの雰囲気で気付いたのか、セイジェは尋ねる。

「いや、急ぎ通っただけだ。邪魔してすまなかった」

カウティスはフェリシアに一礼して、すぐに立ち去る。

フェリシアは憤慨した様子で、カウティスの後ろ姿を見る。

「カウティス王子は、この美しい庭園を通路だと勘違いなさっているのではないかしら」

「そうかもしれません。兄上にとっては、片隅の小さな庭園だけが、大事なんですから」


笑いながらそう言うセイジェの横顔が、なんとなく寂しそうに見えて、フェリシアは思わずそっと手を彼の腕に添える。

セイジェは少し驚いたように彼女を見たが、その腕を払うことはなかった。




庭園の泉は、日の出前に見た時と同じように、中央で小さな噴水がサラサラと水音を立てている。

カウティスは足早に泉に近寄る。

水の精霊が王城にいるなら、いつもはここで小さな水柱が立つのに、今日は水面に何の変化も見られない。

「セルフィーネ」

カウティスの呼びかけにも、何の反応もなかった。


王の勘違いで、水の精霊はまだ帰城していないのではないか?

それとも、何かあって、もう一度王城を出たのでは?

そんな疑問が頭を過ぎる。

「セルフィーネ」

もう一度呼んで、暫く待っても反応がないのを確かめると、カウティスは庭園を出て魔術士館に向かった。




魔術士館は、図書館の近くに立っている、黒灰の石造りの建物だ。

朝から忙しそうに、薄いクリーム色のローブを着た魔術士達が、入口から出入りしている。

そこに時折、若草色や、緑色のローブを着た魔術士が混ざる。

ネイクーン王国の魔術士は、薄いクリーム色から、若草色、緑、濃緑と術者の階級が上がる。


緑色のローブを着た魔術士に、見知った顔があった。

南部の辺境警備に派遣されていたマルクだ。

「隊長!……じゃなかった、カウティス王子。お久しぶりです」

人好きのする笑顔で近付き、マルクは掌を胸に当てて立礼する。

「マルク。戻っていたのか」

「はい、一週前です。今日から復帰で……、あ、王子、無事に水の精霊様にお会いできたんですよね。良かったです!」

マルクは栗色の瞳を嬉しそうに細めて笑う。

カウティスは一瞬、言葉に詰まった。

「あの時は、その、……迷惑を掛けた」

今の状況で、それ以外を言えなかった。



館内は、風魔術と水魔術の組み合わせで涼しい微風が流れていて、随分過ごしやすい。

カウティスは、最奥の魔術師長室を目指した。


魔術師長室に通されると、濃緑のローブを着た魔術師長ミルガンが立っている。

クイードの二代後で、カウティスが辺境警備に就いてから魔術師長に任命されたので、直接関わったことはなかった。

モジャモジャと纏まりのない白髪を肩に垂らし、灰色の細い目の端には、小じわが目立つ。

鼻の下には、形の整わない口髭がある。

王と同じ位の年齢のはずだが、その容姿のせいで、随分年上に見えた。


「カウティス王子。突然私を訪ねられるとは、どうされましたか」

ミルガンは、カウティスに立礼してから聞いた。

「魔術師長は、水の精霊の魔力が分かると聞く。水の精霊は今、確かに王城にいるのか?」

カウティスはミルガンに尋ねた。

王族は水の精霊の姿が見られるが、それは水の精霊が自ら姿を現した場合に限られる。

魔術素質が高くなければ、近くにいても存在を感じることも出来ない。


「水の精霊様は、昨夜戻って来られました。あの魔力の流れは、王の元に行かれたのだと思います。私も今から執務室へ向かうところでしたが……、何かあったのですか?」

ミルガンは細い目を、更に糸のように細めた。

カウティスは頷く。

「呼んでも水の精霊が姿を見せないのだ。魔力の見える者に頼らねば、王城ここにいるのかすら分からない」

カウティスは手を握り締める。


ミルガンは、クイードが魔術師長だった頃、緑のローブで、魔術師長補佐の一人だった。

年下ながらも、実力のあるクイードを尊敬していた。

そのクイードが引き起こした凶事に、水の精霊と幼い第二王子が巻き込まれ、魔術士館の魔術士達は打ちのめされた。

水の精霊と成長した王子が王城に帰ってきて、誰よりも魔術士達が喜んだかもしれない。


「戻って来られているのは確かです。姿を見せないのは、理由があるのでは? 心当たりはありませんか」

カウティスと水の精霊の繋がりは、もう王城の誰もが知る事だ。

カウティスは考える。

王が言うように、自分が未婚の誓いを立てたことが姿を見せない原因ならば、それは勝手に誓ったことに対する、怒りなのか。

「……まさか、怒っているのだろうか?」

「有りえませんな」

ミルガンは即、否定した。

カウティスは怪訝な顔でミルガンを見る。

ミルガンは二歩引いて、カウティスの全身を眺めた。

「水の精霊様の魔力が、王子を包んでおります。このように美しい魔力は、他に見たことがありません。これが怒りなどであろうはずがない」

水色と薄紫の魔力が、薄く薄く、何重にも重なって揺蕩っている。

「敢えて例えるなら、慈しみの感情でしょう」

「慈しみ……それなら、どうして呼びかけに応えないのだろうか」

カウティスは、魔術師長の部屋にも置いてある、銀の水盆をそっと撫でる。

「何か問題が起きたか……、それとも姿を見せたくても見せられない、そういう事情があるのでしょうか」

ミルガンの言葉に、カウティスは奥歯を噛み締める。


水の精霊が、こちらから手を伸ばしても、向こうから伸ばし返さなければ触れることすら出来ない存在なのだと、改めて思い知らされた。




午後、カウティスが休憩に行く時間にも、日の入りの前にも行ってみたが、泉に水の精霊は現れなかった。


夜になり、カウティスは自室のバルコニーで、月光にグラスを掲げる。

「セルフィーネ」

いくら呼びかけても、グラスの水が揺れることはなかった。



眠れないまま、翌日を迎える。

だがその日も、どれだけカウティスや他の王族が呼び掛けても、水の精霊からの反応はなかった。

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