式典前
日の入りの鐘が鳴ってから、一刻は過ぎた頃。
王の執務室で、ガチャンと音を立ててカップが転がり、飲みかけのお茶が溢れた。
宰相セシウムが、急いで机上の書類を持ち上げ、侍従がカップを片付ける。
カップを手から滑り落とした王は、盛大に眉を寄せて、目の前に立ったエルノートを見た。
「カウティスが未婚の誓いを立てただと?聞いてないぞ」
「今、言いました」
サラリと答えて澄ました顔をしている息子に、王は大きな溜め息をついて頭を抱える。
「何故、そうなる」
「既に、何件か婚姻の申し込みが届いています」
セシウムが、取り上げた書類を王の前に戻しながら言う。
「そうだろうと思い、早目に報告しております」
エルノートは、視察が実のあるものだったのか、こころなしか機嫌が良さそうだった。
王は白いものが混じった銅色の髪を、ガシガシと乱す。
「カウティスがそなたの臣になるのなら、尚更、高位貴族か近隣国の王女と縁を結ばせて、そなたの即位後を盤石にすべきであろう」
エルノートは薄く笑う。
「上辺だけの婚姻よりも、
エルノートの言う、“上辺だけの婚姻”に、やや含むところを感じる。
王は机の上を見つめ、小さく息を吐く。
人の縁とは不思議なものだ。
いつだったか、魔術師長だったクイードが言った。
『カウティス王子がこの国にいる限り、水の精霊様は国に強い恩恵を与えてくれるでしょう』
実際その通りになっている。
十三年余りの空白を経ても、彼等の結び付きは解けなかった。
それどころか、再会してから季節一つ分も過ぎていないのに、結び付きが固くなったようにも思える。
王は、目の前で涼し気に立っているエルノートを上目で睨んだ。
「弟可愛さに許したのではあるまいな」
「まさか。民の為です」
エルノートが、特別カウティスを可愛がってきたのを知っている。
薄青の瞳を細めて笑うエルノートを睨み続けていた王は、椅子の背凭れに身体を倒した。
「……まあ良い。人間、どこで気持ちが変わるかは分からぬものだ。だがエルノートよ、父としては、息子達が可愛い妻と子供に囲まれることを望んでいるのだと、忘れてくれるなよ」
「肝に銘じます」
あっさりと答えたエルノートは、一礼して続き間の方へ去って行く。
侍従に軽食を持ってくるよう命じたのを見ると、今夜も遅くまで王太子の執務を続けるのだろう。
頼もしい息子の背中を見ながら、王は小さく溜め息をつく。
息子
“魔力通じ”から、王太子妃との溝は決定的になった様子だ。
「上手くいかないものだな……」
王は呟いた。
火の季節の前期月も二週目に入り、ジリジリとした日差しが今日も降り注ぐ。
内庭園ではこの時期、腰掛けの上に日差し避けの大きな布が張られる。
今日は少し風があって、緑と薄緑の布が風を孕んで揺れていた。
薄衣のセイジェが、日陰の腰掛けに座って首元を緩めていると、赤紫のドレスを着たフェリシアがやって来た。
“魔力通じ”から四日程、彼女は自室から殆ど出てこなかった。
「これは義姉上、ようやく外へお出ましですか?」
フェリシアはぴくりと眉を動かしたが、辛うじて微笑んだ。
「ええ。でも、こう暑くては、ゆっくり花を愛でることも出来ません」
皇女のフェリシアには、ネイクーン王国の暑さは堪える。
「では、冷たい飲み物でもどうですか?」
セイジェは侍女に用意させた、氷の入った飲み物を指し、隣に座るよう促した。
フェリシアは、セイジェの座っている二人掛けの腰掛けに座る。
「今年は水の精霊が帰ってきたので、少しは暑さが和らぐかと思ったのですがね」
フェリシアがグラスを持つと、セイジェは首元を開けて風を通しながら言う。
フェリシアは眉根をギュッと寄せる。
「水の精霊……、セイジェ様も、
セイジェは不思議そうな顔で、彼女を見る。
「義姉上は、あの
フェリシアは血の気の引く思いで、
「私の知る水の精霊は、あのように恐ろしい姿ではありません」
赤い唇をギュッと引き結ぶフェリシアに、セイジェはふふ、と笑い、そっと彼女の耳に顔を寄せる。
「実は、私もあの
「えっ?」
ネイクーン王族の一員である、セイジェの思わぬ言葉に驚き、フェリシアは彼の方を向く。
フェリシアのすぐ側に、セイジェの整った顔がある。
服を緩めた首元から、滑らかな鎖骨が見えた。
フェリシアの心臓が強く音をたてる。
セイジェは近付いたまま、小声で言う。
「あの水の精霊は、カウティス兄上を惑わせて国を乱し、父や姉を苦しめ、母は災害のせいで患って亡くなりました。
セイジェは体勢を戻すと、薄く笑んで付け足す。
「我が国の水源を守る為には、必要ですけどね」
フェリシアは騒がしい胸を押さえ、セイジェの白い横顔を見る。
「……エルノート様は?」
「え?」
こちらに向いたセイジェに、フェリシアは尋ねる。
「エルノート様は、苦しみませんでしたの?」
セイジェは、甘い蜂蜜色の瞳を瞬いた。
セイジェにとって、兄はカウティスだ。
幼い頃から、一緒に食事をし、遊び、寝込んだ時には側にいて励ましてくれた。
その点エルノートは、一緒に何かをすることは殆どなく、気付いたら父王と難しい話をしていて、近寄りがたい存在だった。
兄というよりも、父の側にいる宰相や騎士団長に近い感覚だ。
だから、フェリシアの問いにすぐに答えられるほど、印象に残っていなかったのだ。
「……どうでしょう。エルノート兄上も、きっと苦しまれたのでしょうね」
セイジェは曖昧に言って、立ち上がった。
「そう、ですか……」
しかし彼のその反応は、エルノートがセイジェにとって大切な人ではないのだと、フェリシアに印象付けることになった。
前期月の二週四日、水の精霊は王城に戻った。
まずカウティスの気配を探す。
日の入りの鐘の前だったが、訓練場で騎士達と連携訓練をしているようだった。
火の季節は日中の気温が高いので、朝と夕に時間をずらして行っているようだ。
水の精霊は暫く、カウティスを眺めていた。
カウティスは、騎士達とも少しずつ馴染めているようで、指示を出し合ったり、時折軽く笑っている。
藍色のマントを翻し、長く伸びた腕が、靭やかに剣を振る。
その姿を見ていると、何処か奥の方が温かいような、熱いような気がして、泣きたくなる。
すぐにでも会いに行きたくなったが、邪魔をすることは出来ないと、自分に言い聞かせた。
先ずは、王の所に帰還報告に行くことにする。
王の執務室には、窓際に銀の水盆が置かれてある。
水の精霊が水盆に姿を現すと、小さな水柱が立ち上がり、気付いた宰相セシウムが水盆を王の前に運んだ。
「戻った」
「ご苦労だった。思ったより早く戻ったな」
水盆の上に涼し気に立った水の精霊に、王が向き直る。
水の精霊は頷いた。
「フォグマ山は私が戻った時と変わらずだ。北部と東部はこれで暫く大丈夫だろう。問題は、南部のエスクト砂漠と、西部のベリウム川だが、どちらも長く留まった方が良い。式典に間に合わなくなるので、一度戻った」
式典は、三週目の最終日、五日だ。
「終わればすぐに、南部に向かう」
王がぴくりと指を震わせた。
「南部? カウティスに合わせて行くのか?」
「何のことだ?」
水の精霊は小さく首を傾げる。
王は腕を組んで、トントンと指で腕を叩く。
「前期月の終わりに、カウティスは聖女と南部へ向かうことになっている」
「そうなのか。知らなかった」
長く辺境に留まる時にカウティスが側に来るのだと知り、さっき感じたように、自分の中に温かなものが広がる気がした。
普段、全く感情の乗らない表情しか見せない水の精霊が、ふわりと雰囲気を緩めた。
それを見た王は、ずっと心の奥に引っ掛かっていたものを吐き出す。
「“セルフィーネ”」
突然名を呼ばれ、水の精霊の瞳が揺れた。
「何故カウティスにその名を与えた?」
水の精霊が、静かに王を見上げる。
王は眉を寄せ、水の精霊を見据えた。
「カウティスは未婚の誓いを立てた。そなたはカウティスを、アブハスト王と同じ道に連れて行くつもりなのか?」
水の精霊は、紫水晶の瞳を大きく見開いた。
「……誓い?」
彼女の白く透き通った美しい顔が、急激に光が消えるように顔色を失くしていく。
「そんなものは、聞いていない……」
「水の精霊よ」
様子がおかしいと思い、王が声を掛けた時、水の精霊の姿は消え、パシャリと小さく音を立てて、水柱が落ちた。
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