兄と弟

火の季節は、日の入りの鐘の時刻に近付いても、まだ太陽の光が赤い。


カウティスは、目の前に立つ兄を見つめる。

その薄青の瞳に赤い光が入り、複雑な色合いを見せる。

力強い、その光。

この光を、十二年前にも見た。





十三年前、水の精霊がフォグマ山へ去った後、カウティスは心身共に衰弱していった。


クイードが敷いた魔術陣によって身体が弱った上、契約魔法の光景が脳裏に焼き付き、毎夜悪夢に苦しめられる。

水の精霊が去った喪失感と、悲しみに胸は潰れる程痛む。

災害による被害は甚大で、不穏な噂は常に何処からか耳に入り、カウティスは自分が国難のきっかけを作ったことへの自責の念に駆られた。

いつも側で守り、励まし、時には叱ってくれた護衛騎士エルドはいない。

マレリィはカウティスを献身的に看護したが、次第にカウティスは、何をどうすればいいのか、どうやって気力を振り絞ればいいのか、分からなくなっていった。




一年後、風の季節の後期月に、エルノートとフレイアが一年間の皇国留学期間を終えて、帰国する。


自分から歩くこともなくなったカウティスの元に、ある日エルノートがやって来て、黙って彼を立たせた。

侍従達が手を貸そうとするのを拒否し、エルノート一人でカウティスを外へ連れ出す。

足も萎えて早く歩けないカウティスを、エルノートは根気強く支える。

心配する侍従達に見守られて、何度も転びそうになりながら、風の季節だというのに、二人で汗まみれになって辿り着いた場所は、庭園の泉だった。



カウティスは、一年ぶりにそこに立った。

泉の水は、まだ風にのって時折降る灰のせいで汚れ、抜かれている。

そこに水の精霊はいない。


苦い思いが込み上げて、目を逸らした時、掠れた声が掛けられた。

「カウティス様」

庭師のセブが、嬉しそうにこちらにやって来る。

彼が居た所には、庭園の手入れをする道具が置いてあり、今から植え替えをするらしい苗が並んでいた。


セブは、二人の前に膝を付き、帽子を取って挨拶した。

「カウティス様、久しぶりにお顔が見れて嬉しいです。お身体は大丈夫ですか」

目尻にシワを寄せて、嬉しくてたまらない様子でカウティスに話しかけるセブに、カウティスは久しぶりに自分から声を出した。

「セブ爺……どうしてここに」

セブは不思議そうな顔をする。

「儂は庭師ですから、仕事をしておりました。水の精霊様が、いつ戻られてもいいようにしておかなければなりませんからな」


カウティスが周りを見渡せば、この一年、地震やフォグマ山から振る灰で被害を受けたはずなのに、この小さな庭園は美しかった。

白い石畳は掃き清められ、花々はよく手入れされている。

泉の水は空だが、中にはゴミ一つ落ちていない。

カウティスは、胸の奥に何かが詰まっている気がした。

「……こんなに綺麗にしたって、水の精霊は十年は戻らないって言ってた……」

震える声で口にすると、セブはにこにこと笑った。

「では、儂はもっと長生きしないといけませんなぁ。それまで綺麗にして、ちゃんとお待ちしておかないと」

カウティスは顔を歪める。

胸の詰まりが苦しい。


エルノートが、カウティスの後ろに立ったまま話し掛けた。

「この国難の時に、“未成人の今は学ぶ時だ”と、私も姉上も皇国に戻された。王太子だというのに、今の私にはなんの力もない」

エルノートはカウティスの前に回り、正面からカウティスを見る。

いつも王族として見られる事を意識している兄が、泥と汗にまみれていた。

「でも私は負けない。皇国で学べることを全て学んで、必ず我が国の今後に活かして見せる。姉上も同じ思いで、必死に学んでいる。水の精霊様も、きっと国を守ろうと力を尽くしておられるはずだ」

カウティスは小さく息を呑んだ。


夕の鐘が鳴り響く。

風の季節の太陽は、夕の赤い色を放つのが早い。

庭園に赤い光が入ってきて、エルノートとカウティスを染める。

エルノートの薄青の瞳に、赤い光が入り、複雑な色合いを見せた。

「私も姉上も、父上、母上、誰一人諦めていない」

その、強い力の籠もった瞳が、カウティスを見据える。


「カウティス、そなたは諦めるのか。諦めて良いのか!」

胸の詰まりが溶けて溢れ出し、カウティスは激しく首を振った。

涙が零れ落ちた。

溢れて、溢れて、止まらなかった。


「カウティス様。大丈夫、きっと、大丈夫です」

セブが何度もそう言って、カウティスの背をそっと撫でる。

胸の奥まで詰まっていたものが、すっかり溶け出すまで、カウティスは庭園で泣き続けた。

エルノートは、彼が泣き止むまで、ずっと離れず見守っていた。





今、あの時と同じ瞳で、エルノートはカウティスを見つめている。

そしてカウティスは、その瞳を真正面から受け止める。


カウティスは膝を折り、エルノートの前に跪いた。

マントが地面を撫でる。

「次代の国王は、兄上です。それ以外を微塵も望んだことはありません。これからも決して望むことはないでしょう」

カウティスは掌を胸に当て、頭を下げる。

「兄上に、親愛と忠誠を誓います。私の持てる力全てを以て、必ず兄上の盾となり、剣となります」


エルノートが、カウティスの肩に手を置く。

「そなたの忠誠を受け取る。私は必ず、それに報いる王になる」

カウティスが顔を上げる。

エルノートが悠然と微笑んだ。


立たせようとするエルノートの手を、カウティスが止めて、再び頭を下げる。

「兄上に、お願いがあります」

「聞こう」

エルノートはカウティスを見下ろし、続きを促す。

「私は兄上の臣になります。ですが、どうか私を、生涯王族の籍から外さないで下さい」

カウティスは一度大きく息を吸う。

「そして、生涯未婚を貫くことをお許し下さい」


王族であれば、婚姻はひとつの道具だ。

その縁ひとつで、国家間の繋がりや力関係まで変わることもある。


エルノートが僅かに目を細めた。

太陽が今日最後の光を放ち、日の入りの鐘が鳴る。

太陽が月に替わり、淡い月光と共に空が薄闇に覆われていく。

「……それ程に、水の精霊様が大切かい」

「はい」

カウティスは迷いなく答え、顔を上げる。

決意を秘めた青空色の瞳は、限りなく澄んでいる。


「十三年余り、ずっと考えてきました。水の精霊が、自分にとってどんな存在なのか」


何年経っても忘れられなかった。

水の精霊に出会ってからの、突然世界の色が濃くなったような、あの感覚。

これは恋だろうか。

それとも、幻に焦がれているだけなのか。

子供の時に特別な物を奪われて、ただ心に美化されて残っているだけなのか。

長い間彼女を待って、考えて……そして、再び出会った瞬間、そんなものは全て消え去った。



「精霊でも人間でも関係なく、彼女セルフィーネが、私にとって特別なのです。私は彼女と共に、ネイクーン王国この国を守って、生きます」

カウティスは決意を持って、静かに兄に告げた。


エルノートは、暫くカウティスを見下ろしたままだったが、ふと雰囲気を和らげる。

「いいだろう。但し、私はそなた達の絆を使わせてもらう」

「使う?」

カウティスが緊張を走らせた。

エルノートは、薄暗くなり、徐々に明かりの灯り始めた街並みを見る。

「そうだ。“使う”という表現は気に入らないかもしれないが。カウティス、私はそなたを、ただの近衛騎士にするつもりはないよ」

彼は眼下の街並みを見る目を、愛おしそうに細めた。

「そなたは私の手足として、国内を巡って欲しいと思っている。そして、そなたと水の精霊様の目で、辺境の隅々まで民の声を拾って欲しいのだ」

エルノートは、街並みを背にして腕を広げて見せる。

「この民の灯りを、ひとつも取りこぼすす事なく、守り育てる。それが私の目指すものだ。その為に、そなたと水の精霊様の絆を使わせてくれ」

エルノートはカウティスに笑いかける。

その姿は自信と希望に満ちていて、カウティスは子供の頃に漠然と描いた、兄と自分の未来が、目の前に大きく広がっていくのを感じた。


エルノートの力強い手が、カウティスの骨ばった手を取って引き上げる。

カウティスは立ち上がり、兄に頷いた。

「はい、兄上」


月が、淡い光で二人の王子を包んでいた。


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