聖女の息抜き (後編)

聖女アナリナとカウティスは、中央広場を出て露店を巡りながら、鐘塔に来ていた。

赤い煉瓦造りの塔の上にある鐘が、いつも街に時刻を知らせている。

一般の者は鐘の所までは上がれないが、途中までは誰でも階段で上がれて、展望台から街を見下ろすことができた。





塔の中に入って、螺旋状の幅広い階段を登って行く。

展望台まで上がると、アナリナは汗が滲んで息が上がっていた。

青あざが見えない程度に袖を捲り、手で顔を扇ぐ。

帽子を取ると聖女だと分かってしまうので、脱ぐことが出来ないのが辛い。


「わあっ、眺めがいいですねぇ」

手摺にもたれ、黒曜の瞳をキラキラ輝かせて、アナリナが眼下に広がる街並みを眺める。

カウティスが、彼女の隣で手摺を持った。


アナリナは風を受けて、一度深呼吸した。

「カウティスは、“かわいそう”とか、“大変だったな”とか、言わないんですね」

カウティスは暫く黙っていたが、溜め息交じりに言う。

「君の体験は、君だけのものだ。それがどれ程の痛みだったか、君にしか分からないだろう。簡単に“かわいそう”なんて、言えない」

「ふ~ん……」

アナリナは、カウティスの横顔を見る。

深く被ったフードで、その顔はよく見えない。



「どうして、その青あざを治さないんだ?」

不意に、カウティスが聞いた。

アナリナの周りには、神聖魔法が使える者が何人もいる。

治そうと思えば、すぐきれいになったはずだ。

「『放っておけば治る傷に、神聖力を無駄に使わないで下さい』って、カウティスが言ったんですよね?」

アナリナが、カウティスの左腕の肘下を指差す。

今は袖で見えないが、そこには大きめの傷痕がある。

カウティスがバツが悪そうに顔を逸らした。




昨年の風の季節に、アナリナは北部に接する隣国からやってきた。

カウティスはその頃、北部の辺境警備に付いていて、聖女一行の護衛にも借り出された。

北部の森を抜ける最中、大人の男より、ひとまわり程大型の狼の群れに遭遇し、混戦となる。


アナリナは、馬車の窓の隙間から見ていた。

一人の青年兵士が、明らかに他の兵士とは違う動きで狼を斬り伏せるのを。

青年は仲間に的確に指示を出し、次々と狼を斬っていく。

怪我をした仲間を庇い、自身の左腕を爪で傷付けられたが、最後の一匹が倒れるまで剣を振るっていた。


全て終わった後、彼はアナリナと神官達が乗る馬車まで来た。

黒髪の頭から、狼の返り血を浴びた彼を見て、女神官達が悲鳴を上げた。

青年は袖で顔に付いた血を拭いながら、仲間の怪我を診てほしいと言った。

アナリナは、先に彼の腕の傷を治そうと手を出したが、彼は拒否して言ったのだ。

『放っておけば治る傷に、神聖力を無駄に使わないで下さい』と。



神聖魔法が使えると、病気や怪我を治して欲しいと、次から次に人が寄ってくるものだ。

神の御力を頂いて発現される神聖魔法だが、媒体となるのは神官の生命力だ。

一度に使いすぎれば、命を落としかねない。

しかし、痛みや苦しみを前にしては、神官の見えない生命力を気にする余裕のある者は、そういない。


あの青年は一体何者かと思っていたら、兵士の中に剣の達人ソードマスターがいるという噂を聞いた。

黒髪の剣の達人ソードマスターが、第二王子のことだと知ったのは、辺境警備の兵士達が護衛から離れてからのことだった。




「『神聖力を無駄に使うな』なんて言われたのは、初めてでした」

アナリナは可笑しそうに笑って、カウティスの方を見る。

塔の上は風が強い。

カウティスは、深く被ったフードが外れないよう、手で押さえていて、その表情はアナリナからよく見えなかった。

「特別な力は、誰もが有難がって頼る。時にはそれを欲する者がいて、周りを傷付けることもある」

カウティスの手摺を持つ手が、固く握られ、節が白く浮く。

「だが特別な力を持つ者にも……心があるのだ」

その特別な力だけを見て、いつしかその者の心を傷付け、置き去りにするようなことがあってはならない。


「それって、もしかして」

アナリナがカウティスを見たまま、ポツリと言った。

カウティスが、アナリナの方を向く。

「……水の精霊のことでは?」

フードの中の、険しい青空色の瞳が、ふわりと和らぐのが見えた。



突風が吹いて、アナリナがぎゅっと目を閉じる。

彼女の丸い帽子が飛んだ。

咄嗟にカウティスが手を伸ばし、帽子の端を掴む。

替わりにカウティスのフードが外れ、バタバタと音を立てた。


アナリナが目を開けると、少し上にカウティスの顔があった。

上目に見る彼の目の辺りに、青味がかった黒い前髪が散る。

目に入りそうだ、と思うと、無意識にその前髪に手を伸ばしてしまった。

 

カウティスは、すかさず一歩引いた。

伸ばしたアナリナの手は空に浮いたままだ。

「すまないが、触れないでくれ」

何故か彼は、少しだけ恥ずかしそうに言うと、前髪を掻き上げ、フードを被り直す。

手にしていたアナリナの白布の帽子を、彼女に手渡した。


頭上で、大きく夕の鐘が鳴り響く。

思わず耳を押えたアナリナに、カウティスが声を掛ける。

「帰ろう、時間だ」




オルセールス神殿の裏口が見える所まで帰って来て、アナリナは足を止めた。

裏口の門の所には、心配そうに女神官が立っているのが見える。


「さっき、『こういうことがしたかったんですか』って、聞きましたよね」

露店ではしゃぐアナリナに、カウティスが聞いた言葉だ。

「そうです。私は、ああいうことがしたいの。友人と串焼きを食べて、店のおじさんと世間話をして、夕飯の材料を買って」

カウティスがアナリナを見つめる。


「そして、家族の待つ家に帰る」


アナリナは、くしゃりと顔を歪ませて、泣きそうな顔で笑う。

「私、本当は、神聖力こんな力は月光神に返せるものなら返してしまって、あの頃に戻りたい……」



神聖力に目覚めた者は、性別、年齢、国籍に関係なく、オルセールス神聖王国に移される。

それがこの世界の掟だ。

聖女になった彼女が、家族の元に帰ることは許されない。


カウティスは何も言えない。

アナリナを故郷に連れ帰ることも、彼女の神聖力を消してやることも出来ない。

だから、ただ、見守っていた。

いつだったか、水の精霊がカウティスにしてくれたように。

アナリナが、その苦さを呑み下すまで、ただ黙って待っていた。



暫くして、アナリナが大きく深呼吸した。

「帰ります。今日はありがとうございました、カウティス王子」

彼女の顔は聖女のそれに戻っている。

「聖女様のお役に立てたなら、幸いです」

カウティスは目礼した。





「聖女様とのお忍びは、どうだった?」

王城への帰りの馬車の中で、エルノートに聞かれて、カウティスは困惑顔で答える。 

「……面白い方でした」

「ははっ! あの方は我々とは違う感覚をお持ちだからな」

平民出身の聖女は、エルノートにとって興味を引く対象らしい。

「我が国に長く留まって下さると良い」


暫く黙って馬車に揺られていたが、エルノートが王城の少し手前で馬車を止める。

ここから先には王城しかないので、この時間に他の馬車は通らないだろう。


「少し、話したい。外に出よう」

エルノートが馬車を降り、カウティスが後に続く。

エルノートが人払いをするので、護衛騎士が険しい顔をした。

「エルノート様、王城の外で護衛騎士を離してはなりません」

「カウティスが側にいる」

エルノートは涼しい顔で言う。

護衛騎士は言葉に詰まり、しぶしぶ距離を取った。



王城は少し高台に位置しているので、この道からも城下がよく見えた。

エルノートは遠く広がる街並みを眺める。

淡い黄色のマントが風で広がる。

「カウティスと二人だけで話したかった。王城では、何処に耳があるか分からないからな」

カウティスは兄の隣に立ち、日の入り前の赤く輝く太陽に照らされた、その横顔を見る。

「今日、神殿前で水の精霊様がそなたを援護しただろう。あれには驚いた」

「私も驚きました」

精霊が見えないはずの民に、目に見える形で、カウティスには水の精霊の加護があると示したようなものだ。

「あれは、水の精霊様が自らの意思でされたのか?」

「はい。私を気遣って下さったのだと」

「そうか」

エルノートは暫く、太陽の光で赤く染まる街並みを眺めていたが、カウティスの方へ向き直る。

カウティスは兄の言葉を待った。




「カウティス、そなたには水の精霊様国益の庇護がある。そなたが本気で望めば、この国の王となれるかもしれない」

エルノートの薄青の瞳に力が増す。


「それでも、そなたは王になることを望まぬか?」

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