城下視察
ネイクーン王国の火の季節は暑い。
今年は特に暑く、まだ前期月に入ったばかりだというのに、日中は毎日ジリジリと焼けるような陽射しが降り注いでいる。
「フォグマ山に行くのか?」
カウティスは露骨に警戒の表情を見せる。
泉の庭園で早朝鍛練をした後、水の精霊が辺境へ行くと言ったのだ。
「フォグマ山だけに行くわけではない。火の精霊の影響が、特に強い所を回って来るだけだ」
月が美しく輝く夜が増え、水の精霊の魔力は随分回復したようだったが、この十三年間に火の精霊の勢いが増した為か、今年は猛暑になる時期が随分早い。
そこで、国内の何ヶ所か様子を見に行くという。
その中には、勿論フォグマ山も入っていた。
長く離れることになった、原因とも言うべき地に向かうことが、カウティスは心配でならない。
水の精霊が小さく息を吐いて、薄く微笑む。
「心配するな。式典までには必ず戻る。そなたの近衛就任を、見逃すわけにはいかない」
手を腰に当てて、カウティスは額の汗を袖で拭いながら、呆れ声を出す。
「式典の主役は
「私にとっては、そなたが主役だ。近衛隊の凛々しい姿が見たい」
水の精霊は、揺れるドレスの襞の間から腕を伸ばし、カウティスを手招きする。
カウティスは上がっていた息を整え、泉の縁に近寄った。
彼女は白い指先を、カウティスの額にゆっくり沿わせる。
「前髪が伸びたな」
「ああ、切ろうか上げようか迷ってる」
水の精霊の指が動いても、青味がかった黒い前髪は垂れたままだ。
「私はそなたの瞳の色がとても好きだ。隠さないで欲しい」
“好き”という言葉が彼女の口から出るだけで、胸が苦しくなる自分に、苦笑する。
「分かった」
カウティスは骨ばった手で、伸びた前髪をかき上げた。
今日は昼食を早目に済ませて、前庭に来るようにとエルノートから通達された。
前庭に行くと、馬車が準備されていて、ちょうどエルノートが乗り込むところだった。
シンプルな白い上下に、淡い黄色のマントを着けている。
華美な印象ではないのに、明るい銅色の髪が陽光に輝くだけで、風格を感じさせた。
「そなたも一緒に来い」
「何処に行かれるのですか?」
カウティスも共に乗り込む。
エルノートに付いている護衛騎士は、泉の庭園でカウティスと対峙した者だ。
カウティスを見て、一礼する。
「オルセールス神殿だ」
エルノートは季節に一度か二度、城下に降りる。
神殿に隣接する治療院や孤児院に視察に行ったり、ギルド長の集まりに参加して、話を直接聞くこともある。
子供の頃から国民に人気のある王子だったが、成人してからは尚の事だ。
「そなたも同行して、第二王子の健在を示せ」
水の精霊を失った原因だと噂され、一部からではあるが、廃嫡まで望まれた王子だ。
王城に戻っても、すぐ全面的に受け入れられるとは思えない。
だからといって、兄を支える臣になるためには、縮こまる訳にはいかないし、そんなつもりもない。
「はい、兄上」
エルノートがカウティスを横目でチラリと見る。
「それから、聖女様に謝罪もせねばな」
「う……」
先日、聖女を“お前”呼ばわりして、掴みかかった件だ。
聖女アナリナは、あの後カウティスを責めず、何でもなかったように帰ってしまった。
後で謝罪の遣いは送ったが、お気遣いなく、というような返信が来ただけだった。
オルセールス神殿の前には広場があった。
広場には細い水路があり、地下から水を汲み上げて使う水場もあった。
有事の際には、仮の避難場所になり、ここで怪我人を看たりするためだ。
神殿前広場で、馬車が止まった。
何処から王太子が来ることを知ったのか、神殿前の通りには人集りができていた。
護衛騎士が配置され、エルノートが馬車から降りると、わっと歓声が上がった。
「王太子様だ」「エルノート様!」と声を掛けられ、エルノートは微笑を称えて手を振った。
更に歓声が大きくなる中、カウティスが馬車から降りた。
黒髪の王子の突然の登場に、歓声の中にざわめきが混ざる。
エルノートと同様の長身に、しなやかな体躯。
陽に焼けた精悍な顔立ちに、濃紺の騎士の様相と長いマント。
国民に姿を見せていた、成人前のカウティスの雰囲気とは全く違う。
ざわめきが広がり、場は静かになってしまった。
予測していたことだ、仕方ない。
静まってしまった場の中を、カウティスが進もうとした時だった。
突然、水路から水が一筋飛び上がり、カウティスの上まで来ると、サッと霧散した。
細かな霧状の水が辺りに降り注ぐ中、太陽の光が反射して、カウティスの周りが虹のように輝く。
わあっと人々が感動の声を上げた。
「では、行ってくる」
カウティスの耳に、小さな水の精霊の声が届いた。
はっとして下を向くと、いつも首に掛けているガラスの小瓶がある胸の辺りに、小さな水の精霊の姿があった。
「セルフィーネ」
彼女はカウティスに向かって微笑むと、姿を消した。
エルノートがカウティスに近付き、軽く肩を叩き、耳元で囁いた。
「そなたには、大きな味方がついていたな」
そして威厳ある態度で、ゆっくりと周囲の人々の顔を見渡し、微笑む。
カウティスは顔を上げ、力強い瞳で、兄と、そして人々を見た。
毅然とした二人の王子の姿に、民の目は釘付けられた。
「お帰りなさい、水の精霊様! カウティス王子!」
誰かが叫んだ。
一斉に歓声が戻ってきた。
今日は孤児院と治療院を回り、自警団の詰所へも向かう予定らしく、エルノート達は神殿での挨拶もそこそこに、女神官の案内で、神殿に隣接する孤児院に来ていた。
「聖女様は今、子供達に聖典を読んであげていると……」
女神官の言葉が終わる前に、建物の外から子供達の楽しそうな声が聞こえた。
きゃーきゃーと、大きな声で叫んだり笑ったりしている。
カウティスが窓から外を覗くと、ちょうど裏庭が見えた。
2歳から10歳位の子供達7、8人と、アナリナが大きなタライ三つに水を貯めて、バシャバシャと飛ばし合いながら遊んでいる。
青銀色の髪に陽光を散らし、水を跳ね上げ、大きな口を開けて笑いながら、子供達と本気で走り回っていた。
祭服は脱ぎ捨ててあって、シャツの首元の紐は外し、裾の広いズボンを捲り上げ、白い太腿まで露わになっている。
「まああああ!!」
女神官が顔を真っ赤にして叫ぶと、風のように走り去る。
「おっと、これは……」
外の光景に気付いたエルノートが視線を逸らし、護衛騎士達にも横に向くよう指で指示する。
カウティスも、護衛騎士と兄を挟む形に移動して目を逸らした。
背中から、くっくとエルノートが喉の奥で笑う音がする。
「あの方は、奔放だな」
とても楽しそうな声だった。
「だって、暑くて仕方がなかったんですもの」
身だしなみを整えさせられ、怒りの収まらない様子の女神官に連れられて、聖女アナリナが屋内に入ってきた。
後ろの広間には、これまた着替えをさせられた子供達が小さくなっている。
「王太子様がいらっしゃるまでに、ちょっと足を水に浸そうと思っただけだったんですけど……」
そう言って、祭服の裾を持ち上げるので、女神官に更に叱られ、アナリナは顔を顰める。
エルノートは苦笑いだ。
「我が国の火の季節が初めてでは、暑さが堪えるでしょう。もう少し、風が通る薄衣を用意した方が良い」
言ってすぐに侍従に指示を出す。
そして薄青の瞳を柔らかく細めて、後ろの子供達に手を差し出す。
「君達にも氷菓を持ってきたから、一緒に食べよう。最近の話も少し聞かせてくれるかい」
子供達は、元気に返事をしてエルノートについて行く。
子供達がエルノートに見せる顔は、気を許している者に見せる笑顔だ。
「王太子って、本当に城下に降りてたのね……」
アナリナは、感嘆の溜め息をついた。
子供達を連れて、エルノートが奥の部屋へ行く。
ついて行こうとしたカウティスのマントを、アナリナが引いた。
普通、王族のマントを引くような者はいないので、カウティスはぎょっとして彼女を振り返る。
「王子、あの後、水の精霊に変わったことは?」
「変わったこと?」
突然の水の精霊に関する問いに、カウティスは眉根を寄せる。
アナリナは、指を一本立てて、自分の黒曜のような瞳を示す。
「あの日、私の目は月光神が
「使っていた…?」
「ええ」
アナリナの瞳の色が青銀色に変わっていたと、女神官が言っていた。
彼女は桃色の唇を歪ませて考える。
「少しだけ、記憶が飛んでるんです。その間、月光神が私の目を通して、水の精霊と関わったんだと思うんですけど…」
「水の精霊様も、記憶がないと言っていました。一体どんな関わりがあったのでしょうか」
カウティスは真剣に問いかけたが、アナリナは軽く肩を竦めてみせた。
「さあ? 神様の考えることなんて、人間には分かりません。特に水の精霊に変わったことがないなら、良いんですけど」
水の精霊の不安を、彼女に説明出来るわけもなく、カウティスは黙る。
アナリナは、それで話は終わったものと、子供達の方へ行こうとした。
カウティスは、思い出して声を掛けた。
「聖女様。その、あの時は大変失礼なことを致しました。改めて、お詫び致します」
アナリナは、黒曜の大きな瞳を瞬いて、暫くカウティスの顔を見ていたが、突然泣きそうな顔をする。
「とーっても痛かったです、カウティス王子」
そう言うと、左腕の袖をグイッと引き上げて、白い二の腕を見せる。
そこにはカウティスに掴まれて出来た青あざが、まだ痛々しく残っていた。
「……本当に、申し訳ない」
聖女に危害を加えたとあっては、オルセールス神聖王国が黙っていないかもしれない。
今更ながら、自分が考えなしに起こした行動に、冷や汗をかく。
アナリナは、カウティスのそんな様子を見て言う。
「では、お詫びに私のお願いをひとつ聞いて下さいますか?」
彼女は悪戯を思い付いた子供のように、ニンマリと笑った。
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