魔力通じ (後編)
日の入りの鐘が鳴る。
太陽が月に替わり、柔らかな月光が辺りを照らす。
王城の最上階に、普段は使われない、小さな湯殿がある。
湯殿の入り口を開くと、前室に銀の水盆を置き、フェリシア以外の王族が揃う。
皆、揃いの白い礼服で、裾に青の糸で複雑な刺繍が刺されている。
水盆に、水の精霊が静かに立った。
その姿からは、何の感情も読み取れない。
カウティスは、ずっと幼い頃に、母の手を握りこの部屋に入ったことを、朧気に思い出した。
あれが、セイジェの儀式の日だったのだろう。
フェリシア王太子妃が、遅れて部屋に入る。
ここからは侍女も中に入れない。
彼女は純白のローブを身に着け、赤褐色の巻髪にも、身体にも、装飾は一切身につけていない。
夫であるエルノートが手を差し伸べた。
フェリシアは彼の手を取り、エルノートは彼女をエスコートして奥の部屋へ続く扉の前に立つ。
扉は開け放たれ、そこには幾重にも重なり合った布が掛けられていて、奥は見えない。
「これより、フェリシア王太子妃の“魔力通じ”を行う」
王の言葉で、エルノートはフェリシアの手を取ったまま、重なり合った布の奥へ入って行った。
それを見送ってから、王が隣に立つマレリィに耳打ちする。
「そなたの体験を話してやったのか?」
マレリィは首を横に振る。
「いいえ。何度か機会を設けようとしましたが……」
フェリシアはマレリィの話を聞こうとしなかった。
儀式記録は読んだし、そもそも精霊のことは皇国で学んでよく知っている、と侍女越しに断られたのだ。
「……厄介な娘を貰ったものだ」
王が青空色の瞳を閉じた。
皇帝からの申し入れを断れるはずがなく、フェリシア皇女をエルノートの正妃としたが、二年経ってもネイクーン王国に馴染もうとしない姿勢に、心配が増すばかりだった。
エルノートに手を引かれ、フェリシアが奥へ進むと、小さな湯殿に出た。
天井に明かり取りの窓があり、白い石で造られた、浅く広い、水盆を大きくしたような浴槽に、一筋の月光が降りていた。
儀式の手順としては、水が張られたこの浴槽に肌着一枚で入り、水の精霊が身体に魔力を通すのを受け入れるだけだ。
難しいものでもないが、周りに侍女もおらず、この場の静寂に、フェリシアは気後れした。
エルノートが後ろに立ち、フェリシアのローブをそっと引いて脱がせた。
彼女は肩越しにエルノートを振り返る。
目が合うと、エルノートは彼女の不安を察したのか、薄青の瞳を細める。
「終わるまで、ここにいる」
優しさを含んだ彼の言葉に勇気付けられ、フェリシアは薄い肌着一枚を纏って、足を水に入れた。
浴槽の水は恐ろしく透明で、冷たくも熱くもなく、足が水に浸かっているのかどうか、分からなくなりそうだった。
彼女は一歩ずつ、月光が一筋降りている所へ近付く。
フェリシアには、魔術素質がごく僅かにある。
努力すれば伸びたかもしれないが、魔術に興味がなかったので、そのままだ。
彼女は皇国で、一度だけ水の精霊を見たことがあった。
ひどい渇水の年、竜人族が雨乞いの魔法陣を敷いて、儀式を行うのを見た。
魔術素質の低いフェリシアにも見える程、水の精霊の澄んだ水色の魔力が濃く集まって、美しかった。
あれが水の精霊ならば、自分の身体に魔力が通るというのも、素敵かもしれない。
彼女はそう考えて、足を踏み出す。
マレリィ以外は知り得なかった。
自身が確立してから、別の魔力を通されることが、どれ程の違和感なのか。
月光の一筋に、フェリシアの身体が入った。
その時、彼女の足から這い上がるように、冷たく尖った魔力が流れ始めた。
「ひっ!」
フェリシアは身体を縮こまらせ、己の身体に両腕を巻き付ける。
足から腰、腰から胸に、冷気のような魔力が、ゾワゾワと彼女の身体の内側を通っていく。
叫び出したいのに、喉の奥が凍ったように声が出ない。
それが首筋に流れた時、余りの寒気にフェリシアはキツく目を閉じた。
頭頂を突き抜けるように、唐突に魔力が去った。
フェリシアは震える息を吐き出して、ゆっくりと目を開いた。
「きゃあああぁ!!」
フェリシアは叫び声を上げて、その場に尻もちを付いた。
バシャンと大きな水音が響く。
赤褐色の巻き毛を乱し、浴槽を無様に這い出した。
「フェリシア! どうした!」
エルノートが、フェリシアにローブを掛けて支える。
フェリシアは彼に縋り付いて、今まで自分が立っていた場所を指差した。
「ばけもの……化け物がっ!」
エルノートが眉を寄せて、指差された方を見る。
そこには、月光に照らされて立っている、透き通った美しい水の精霊の姿がある。
長い髪をサラサラと揺らし、感情の乗らない紫水晶の瞳で、フェリシアを見つめている。
“魔力通じ”を終えたフェリシアには、水の精霊の
「……あれは、我が国の水の精霊様だ」
エルノートが、固い声で言う。
フェリシアは、突然目の前に現れた人形のような女が、皇国で見た美しい光の水の精霊と同じものだとは到底思えなかった。
「いいえ、いいえ! 精霊はあのように恐ろしい化け物ではありませんわ!」
フェリシアは竦み上がって首を降る。
パシリ、とエルノートが彼女の縋り付いた手を払った。
フェリシアが驚いて顔を上げる。
そこには底冷えするような薄青の瞳で、彼女を見下ろすエルノートの姿があった。
「
「エルノート様……」
フェリシアを見下ろす彼からは、冷たい怒りが滲んでいる。
「エルノート! 何か問題が起こったか!?」
中の様子がおかしい事に、外で誰かが気付いたらしい。
王が、幾重にも重なった布越しに声をかけた。
「儀式は終わりました。侍女を寄越して下さい」
エルノートはフェリシアから視線を外すと、胸に掌を当て、水の精霊に向かって立礼する。
そしてそのまま踵を返して、布を払い、湯殿を出て行く。
濡れそぼってうずくまる彼女を、振り返ることはなかった。
自室に戻り、身体を侍女達に拭き清められ、ようやく人心地ついても、フェリシアは青い顔をして両手を握り締めている。
「この国の水の精霊は、そのように恐ろしいものだったのですか?」
水の精霊を見ることの出来ない侍女達は、フェリシアの只事ではない様子に、怯えている。
「精霊が
フェリシアはぶるりと震えた。
あんなものが、世界を支える精霊のはずがない。
あのように恐ろしく美しい者は、魔性の化け物に違いない。
『
エルノートの冷えた瞳を思い出し、赤褐色の瞳に怒りの涙を滲ませる。
大事にされると信じて、こんな辺境の小国に嫁いだのに、皇国の宝と言われていた私をおざなりにして、あのような化け物を宝と言う。
こんなことがあって良いはずがない。
フェリシアは真っ赤な下唇を噛んだ。
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