決意
噴水のサラサラという水音が、やけに大きく聞こえた。
水の精霊の紫水晶の瞳は、鈍く光り、白い肌は蝋のようだ。
彼女の細く長い髪は一筋も流れず、ドレスの細かい襞は固まったように動かない。
カウティスは立ち上がって、泉の側に駆け寄る。
「水の精霊様?」
周囲に何人もいる状況に、名を呼ぶのは控えたが、水の精霊はカウティスの声に反応しない。
こんな、血の通わない人形のような水の精霊は初めてだった。
初めて会った時でさえ、感情は乗らなくても、人形のようではなかった。
カウティスの血の気が引く。
「セルフィーネ!」
声を大きくして名を呼んだが、彼女はピクリとも動かない。
カウティスは勢い良く振り返ると、訳が分からず立ち尽くしていた、聖女アナリナの二の腕を掴んだ。
「お前っ、セルフィーネに何をしたっ!」
「痛っ」
きつく掴まれ、怒りを含んだ瞳で迫られても、アナリナは何のことか分からない。
水の精霊のあまりの美しさに、見惚れていた事は覚えている。
それで、確か、目が熱くなって瞬いた。
「よせ、カウティス」
エルノートが間に入る。
カウティスの肩を掴んで、アナリナから引き離そうとする。
水の精霊の姿が見えなければ、声も聞こえない護衛騎士や侍従、女神官には、カウティスが突然聖女に掴みかかったように見えた。
カウティスがエルノートの手を強く振り解くと、エルノートの護衛騎士が、更に彼等の間に割って入った。
「カウティス、落ち着け!」
エルノートがカウティスの方へ行こうとしたが、護衛騎士の一人は彼を押し留め、もう一人はカウティスと対峙する。
「お止め下さい、カウティス王子!」
カウティスは、十三年前、突然水の精霊と引き離された時のことが思い出されて、どうしようもない怒りが膨れ上がり、止めることが出来なかった。
食いしばった歯の間から、熱い息が漏れる。
カウティスから立ち上る怒りのオーラに、護衛騎士が一瞬呑まれた。
「カウティス」
静かな声が聞こえて、カウティスは我に返る。
「何をしている? 何故、急に暴れているのだ」
目線を泉に向けると、眉を寄せた水の精霊が、カウティスを見ている。
涼しげに髪は揺れ、紫水晶の瞳は心配の色を含んでいた。
「セルフィーネ……」
ポツ、ポツと雨が降り始めた。
水の季節の最後の雨は、ザーザーと激しく降った。
「“魔力通じ”か。失念していたな」
執務室で、王が窓から大降りの雨を眺めながら唸る。
「はい。水の精霊様が不在だったもので」
エルノートは溜め息混じりだ。
通常、水の精霊に王族として認めさせるために、輿入れしてすぐに“魔力通じ”が行われる。
だが、水の精霊が不在の時に輿入れしてきたフェリシアは、“魔力通じ”が行われないまま、今日迄過ごしてきた。
このままでは、水の精霊恩恵を受けられず、姿も見れなければ声も聞けない。
明日から火の季節に入る。
前期月三週目に、水の精霊が戻ってきたことを正式に国内に知らせ、祝うための式典が行われる事になっている。
それまでに行わなければ、王族として参加させられない。
「早々に行おう。セシウム、日程の調整を頼む」
「畏まりました」
宰相セシウムが、王族の予定が書かれた綴を捲り始めたのを見て、エルノートは続き間に向かう。
王がその後ろ姿に聞いた。
「カウティスは納得したか?」
「聖女様が南部に向かわれる際、ついて行くよう伝えましたよ」
エルノートが立ち止まり、振り向く。
「『そなたの気持ちを考えたから、引き継ぎに行くことは許す』と、素直に仰ったらどうです?」
王が目を眇めて口を尖らせた。
「『辺境に行くのは許さん』と言ったのに、簡単に撤回できるか」
「意地っ張りなところはそっくりですね」
エルノートは形の良い眉を上げて、呆れたように肩を竦めた。
日の入りの鐘が鳴る。
水の季節を惜しむように降った雨は、半刻ほど前に止んだ。
くすんでいた太陽が、月に替わる。
明日からは火の季節。
また暑い時期が始まる。
カウティスは、自室のバルコニーで空を見上げていた。
今夜は雨上がりに月が輝いている。
庭園でのカウティスの奇行は、聖女アナリナが『“神降ろし”を行うと、周囲にも様々に影響があるから』と、何とか誤魔化してくれた。
護衛騎士達が、本当に誤魔化されてくれてのかは分からないが、エルノートが箝口令を敷いて、その場を収めた。
カウティスは水の入ったグラスを持ち出し、青白い月光に掲げる。
「セルフィーネ」
呼んでみるが、水は何の動きも見せなかった。
水の精霊は、国内を見ているし、王に呼ばれていて、カウティスが呼んでも現れない日はある。
だが、今日はきっと違う。
暫くグラスを眺めていたカウティスは、何かを決意したように顔を上げた。
弱く風が吹いて、伸びて目にかかる黒い前髪を揺らす。
グラスを華奢な机に置くと、バルコニーの優美な手摺から下を覗く。
カウティスの部屋は二階だ。
警備兵が下にいないのを確認すると、手摺をヒラリと越して音もなく地面に降りる。
そのまま、月光を頼りに泉の庭園を目指した。
庭園までの通い慣れた道を、警備兵に見つからないように進んた。
庭園の花壇の小道を抜ければ、開けた空間の中に、泉がある。
中央の小さな噴水は、夜もサラサラと静かに水音を立てていた。
カウティスは泉の縁まで行くと、彼女の名を呼ぶ。
「セルフィーネ」
泉の水は、噴水の波紋を広げるだけで、水の精霊は姿を見せなかった。
しかし、カウティスは、誰に聞かせるでもなく、呟く。
「姿を見せるまで、ここにずっといるからな」
随分と間をおいて、泉に小さな水柱が立ち、水の精霊が現れた。
長く細い髪が揺れるのと一緒に、視線を下にした長いまつげが揺れる。
彼女は何も言わない。
「セルフィーネ、何があった?」
水の精霊は、昼間人形のように固まっていたことを、全く覚えていていなかった。
聖女の瞳を見ていたら、次の瞬間にはカウティス達が揉めていたという。
それを知ってから、彼女は何か不安気だ。
「セルフィーネ?」
水の精霊は何も言わない。
精霊は、嘘をつけない。
言えないことは、黙るだけだ。
視線を上げない水の精霊を見て、カウティスは靴を脱ぎ捨てた。
裸足になると泉の縁に上がり、そのまま泉の中に入る。
服の裾はそのままなので、膝から下はすぐに濡れる。
「カウティス、濡れてしまう」
思わず上げた水の精霊の顔の前に、ちょうどカウティスの右肩があった。
カウティスは、両腕を水の精霊の身体に回す。
「触れられればいいのに」
カウティスが低く、掠れた声で言った。
彼の両腕は、水の精霊の透き通った身体を抱き締めても、水に濡れるだけだった。
「すまない、そなたを抱きしめたいのに、叶わない」
水の精霊は紫水晶の瞳を見開く。
揺れる瞳をゆっくりと閉じて、カウティスの右肩に頭を寄せる。
「セルフィーネ、子供の頃にした約束を覚えていているか?」
「約束?」
「ああ。必ず、ここに会いに来ると」
カウティスの部屋のバルコニーで、月光の下、約束した。
水の精霊は小さく頷く。
「覚えていている」
「俺は、そなたをひとりにしない。必ず会いに来る」
カウティスは腕を下ろし、水の精霊の顔を見下ろす。
真摯な目で、水の精霊の紫水晶の瞳を見つめ、ゆっくりと聞いた。
「何がそんなに不安なのか、教えてくれないか」
「…………分からない。何があったのか」
水の精霊の紫水晶の瞳は、不安に大きく揺れた。
今日、時が飛んでしまったようだった。
その間の記憶がない。
もしかしたら、気付いていないだけで、知らぬ間に色々なことが抜けているのでは?
フォグマ山から出た時に、カウティスの事を忘れていたように。
「……覚えていない。こんなことが、また起こるだろうか……」
カウティスを忘れていたことだけは、言いたくない。
水の精霊が、ギュッと目を閉じて、白い両手で自分の耳を塞ぐ。
火の精霊が言っていた。
« お前は 変化している »
もしかしたら、これが変化なのだろうか。
「セルフィーネ」
カウティスの優しい声がする。
「セルフィーネ、俺を見て」
水の精霊は、ゆっくりと顔を上げる。
カウティスの澄んだ青空色の瞳が、すぐ側にある。
「大丈夫だ。たとえ、そなたが何かを忘れても、俺は何度でもそなたを呼ぶ。会いに来る」
突然の別れで、泣いて叫ぶだけだった頃には戻らない。
二度と、あんな風に諦めはしない。
カウティスは、骨ばった大きな両手で、彼女の頬を包む。
「何があっても、俺はそなたを諦めない」
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