聖女の来訪
水の季節の後期月も、今日で終わる。
魔術士館で、南の辺境警備に出ているマルクとは連絡がつき、様々な事を指示しておいた。
せめて一度は辺境に戻って仕事の始末をつけたいのだが、カウティスは王に辺境へ出る許可がもらえないまま、数日王城で過ごしていた。
気がかりではある反面、魔力回復に努めている水の精霊の側にいられるのは、正直嬉しくもあった。
午後の一の鐘が鳴って、半刻。
今日は朝からずっと曇っている。
水の季節の最後の雨が降るかもしれない。
カウティスは庭園の泉の縁に腰掛け、紙包みを開けると、リグムパイを手掴みしてかぶりつく。
この時期にしか食べられないこのパイを、カウティスが好きなことを製菓長が覚えていて、用意してくれたのだ。
大きめのパイを二口で平らげて、二つ目を取り出す。
こういう食べ方は、辺境に行ってから身についた。
王城に暮らす者には見せられない姿だ。
水の精霊が隣で楽しそうに笑う。
「相変わらず甘いものが好きだな」
「これは好物なんだ」
カウティスは少し照れたように笑って、手にした二つ目のパイにかぶりつく。
噛み砕いて飲み込むと、残りの半分を、隣で楽しそうにカウティスを見つめている、水の精霊の口元に持っていった。
「セルフィーネも食べられたらいいのにな。きっとそなたも好きになるぞ」
悪戯っぽく笑って、カウティスは彼女のキョトンとした顔を見た。
水の精霊は、目の前のパイとカウティスの顔を見比べる。
そして、そっと目を伏せて、薄い唇を小さく開けると、カウティスの手のパイに近付いた。
「じ、冗談だ!」
ドキンと心臓が跳ね上がり、カウティスは急いで立ち上がった。
水の精霊は目を瞬いた。
「冗談?」
「そうだ。食べられないだろう?」
心臓が痛いほどバクバクと動いて、カウティスは少し上擦った。
彼女の淡紅色の薄い唇から、目が離せない。
「……確かに、食べられない」
水の精霊はそう呟いて、やや目線を下げてしまった。
その時、花壇の小道から侍従が出てきた。
カウティスは護衛騎士を付けていないので、侍従がカウティスに告げる。
「王子、エルノート王太子と聖女様が、こちらに来られます」
「兄上が?」
カウティスは、手にしていたパイを片付ける。
水の精霊は静かに立ち上がった。
小道から現れたのは、クリーム色の騎士服に濃紺のマントを着けたエルノートと、青い糸で細かな刺繍がされた、月光神の白い祭服を着た聖女アナリナだ。
後ろに、アナリナに付いている女神官と、エルノートの護衛騎士二人に侍従が続く。
エルノートは泉に近付くと、掌を胸に当てて水の精霊に一礼した。
「聖女様が水の精霊様に会いたいと仰るので、ここにお連れしたのだ。水盆より、ここが見たいと」
聖女は王に謁見するため、王城に来たらしい。
水の精霊に会いたいといっても、声しか聞こえないなら水盆でも同じことでは、とカウティスは思ったが、聖女は庭園に入ってから、視線が泉に釘付けだった。
「すごいわ……」
アナリナはうっとりとした表情で、カウティスとエルノートを押し退けるようにして泉に近付く。
護衛騎士が気色ばみ、女神官が彼女を咎めようとしたが、エルノートが手を上げてそれを止めた。
「なんて美しいの……。ネイクーンの水の精霊がこんなに綺麗な
アナリナの目線は、泉の水柱ではなく、セルフィーネの顔に向かっている。
「もしかして、
エルノートとカウティスは驚いた。
「ええ、もの凄い美人」
アナリナは、ほうと息を吐く。
「水の精霊が
カウティスの言葉に、アナリナは振り返って青銀色の眉を寄せる。
「私が聖女に魔力を通したからだろう」
水の精霊が無機質な声で言う。
エルノート達が現われて、水の精霊は感情のない表情に戻っていた。
「魔力を通した?」
「フォグマ山から戻った日に、聖女の身体に入ってしまった。それで、魔力が通った」
カウティスの問いに、水の精霊が頷いて答えた。
婚姻などで王族に誰かが加わると、“王族が契約の
そうすることで、王族として水の精霊の
「どうでしょうね、私は月光神の“神降ろし”をしてますから、案外
聖女は周囲を見回す。
水色と紫が薄く薄く重なり合って、水がゆっくりと揺蕩うように揺れている。
これが王城からネイクーンの空に広がっているのだ。
そして、カウティスの周りだけ、同じように美しく揺れている。
「本当に綺麗……」
大陸のあちこちを回っているが、やはりネイクーン王国の水の精霊は特別だ。
「私が国境を越えていたために、大変な騒ぎになったそうで……。お詫びいたします」
カウティスが掌を胸に当て、聖女に一礼する。
「改めて、お初にお目にかかります、聖女様。第二王子のカウティス·フォグマ·ネイクーンです」
「アナリナです。でも、初めてではありませんよ、カウティス王子。北部で私を助けて下さったでしょう」
アナリナが、漆黒の瞳を細め、ニッコリと微笑む。
カウティスが僅かに眉を寄せた。
「やはり知り合いか?」
エルノートが、カウティスに問い掛けるが、答えたのはアナリナだ。
「隣国から、ネイクーン王国の北部に入った時に、辺境警備の方々が護衛に付いて下さったのです。その時、その中にいましたよね、カウティス王子」
「……気付いていたのですね」
昨年の風の季節に、アナリナは北部に隣接する国からネイクーンに入り、街道沿いに王城を目指した。
北部は森林地帯が広がる。
魔物は、月光神の気配を漂わせる聖女を避けるが、森に住む獣は別だ。
森を抜けるまでに大型の狼の群れに遭遇し、辺境警備の騎士と兵士が戦った。
カウティスは兵士の格好で混ざっていたので、王子とは気付いていないだろうと思っていたが、そうではなかったようだ。
「あの時は、ありがとうございました」
アナリナは、気取らずスッキリとした笑顔を向けると、すぐにまた水の精霊の方を向いてしまった。
水の精霊も、何故か彼女の方を向いたままだ。
周りは目に入っていない様子に、カウティスは首を傾げた。
エルノートがカウティスの肩を叩いた。
「聖女様は、火の季節の前期月に、南部に向かわれるそうだ。そなたは、聖女様と一緒に南部の辺境警備所に行って、引き継ぎをしておいで。父上には話をつけた」
エルノートは、薄青の瞳でカウティスを優しく見る。
「きちんと始末をつけに行きたかったのだろう?」
「兄上」
風が吹いて、カウティスの伸びた前髪を揺らす。
エルノートの濃紺のマントと、カウティスの黒のマントが音を立ててはためいた。
「その後は、私の側で働いてもらうぞ。そなたは私の大事な弟だ。水の精霊様が戻られたからには、もう誰にもとやかく言わせぬ。そなたも覚悟を決めるのだ。良いな」
兄が即位し、立派な王になるのを、自分が支える。
それは子供の頃から、描いてきた未来だ。
「はい、兄上」
カウティスは、兄の薄青の瞳を正面から受け止め、力強く答えた。
「ところで、聖女様と水の精霊様は、いつまで見つめ合っておられるのかな」
いつまでも動かないアナリナ達を見て、エルノートが呆れ声を発した。
女神官がそそっと近寄って、アナリナの長い袖を引く。
アナリナがピクリと動いて、振り返ると、漆黒のはずのその目は、髪と同じ青銀色だ。
「!!」
女神官がザザッと下がって白い石畳に膝を付き、首に下げた銀色の珠を握って頭を下げた。
「月光神様!」
聖女の“神降ろし”を見たことがあったエルノートは、即その場に膝を付く。
一拍遅れて、カウティスと、周囲の騎士や侍従もその場に膝を付いた。
以前“神降ろし”を行った時も、その間はアナリナの瞳の色は、月光神の色である青銀色に変わっていた。
しかし一体いつ“神降ろし”を行ったのか。
そんな気配は、微塵も感じられなかった。
ところが聖女の瞳は、瞬き一つすると漆黒に戻った。
「あら? 皆さん、どうしたんですか」
アナリナは目を丸くして、自分を取り囲んで膝を付く人々を見回す。
「聖女様、今、月光神様が降臨されていたのでは……」
女神官が歓喜に震える声を出して、アナリナを見上げる。
「え? 私は水の精霊を見ていただけですけど」
アナリナは首を傾げる。
「でも、今確かに瞳の色が青銀色に……」
女神官の言葉を聞きながら、カウティスは水の精霊を見上げた。
水の精霊は、空を見て全く動かなかった。
カウティスの初めて見る、造り物のガラス人形のような、硬質な姿だった。
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