目覚め (後編)
フォグマ山から滑り出た水の精霊は、まず国内の目を開く。
水源は問題ないが、様々に問題を抱えた場所があるようだった。
力を貸しに行ってやりたいが、フォグマ山で眠っていた間に、随分と
暫くは
フォグマ山に居たということは、噴火を抑える為だったのだろう。
それにしても、これ程消耗するほど、私は何故急いで噴火を抑えようとしたのだろうか。
記憶が曖昧だ。
何かを忘れている気がする。
火の精霊の中に長く留まりすぎたせいか。
それとも
とにかく、先ずは王族に帰還を知らせる為、水の精霊は王城に向かった。
しかし、王の執務室でも魔術士館でも、水盆に張られていた水は、ベリウム川源流のものではなく、水の精霊は姿を現すことが出来なかった。
フォグマ山が噴火したのなら、源流水を引きに行けなくても仕方がない。
水盆の水を揺らし、王を驚かせておいたので、帰還は知れただろう。
帰還に気付き、水を張り替えてくれるまで、国内を見るにとどめよう。
そう考え、王城から国内への俯瞰に切り替えようとした時だった。
ふと、王城の最奥にある、小さな庭園の泉が見えた。
どうしようもなく心惹かれて、水の精霊はそこへ降り立つ。
色とりどりの小さな花々が風に揺れている。
水の精霊の中で、何かが揺さぶられた。
ここは、私の大切な場所では?
花壇の小道を、軽い足音を立てて、誰かが走ってくるのを待っていなかったか?
泉の中央で、小さな噴水がサラサラと音を立てている。
あの泉の縁に、座っていたのは誰だろう。
ザッと風が吹いて、花びらが舞った。
一枚の真っ赤な花びらが、クルクルと舞って、泉の水面に落ちた。
瞬間、水の精霊の中に様々な記憶が押し寄せた。
棒付きの赤い飴。
剣を振るう腕。
細かな彫りの入ったガラスの小瓶。
朝日を浴びて輝く、青味がかった黒い髪。
澄んだ青空色の瞳。
『セルフィーネ!』
水の精霊は空に飛び出した。
カウティス!
何故、忘れてしまっていたのか。
あの叫びを聞いてから、一体どれ程の時が過ぎているのか。
精一杯の
また会えると約束したのに、彼の身に何かあったのだとしたら……。
彼女は恐ろしくて叫んだ。
水盆も使えず、水の精霊の叫びが聞こえる程魔術素質の高い者もいない。
どうすればいい、誰にカウティスの安否を尋ねれば。
焦燥感に駆られる彼女は、王城の一角に、月光神の気配を微かに纏う人間を見つけると、迷わずその者に飛び込んだのだった。
エスクト砂漠では、砂まみれの四人が、拠点であるオアシスに帰ろうとしていた。
四人の後ろには、隣国の騎士が二人付いている。
「だから言ったじゃないですか、国境越えになるって。王子が許可なく越国境なんて、下手したら国家間問題になるところでしたよ」
マルクが馬の上でブツブツと言っている。
カウティスはしかめっ面で無言のままだ。
巨大化した砂ミミズの跡を追って行ったところ、やはり隊商の足跡を見つけていたらしい。
遠目で襲われているのが分かった。
しかし、場所は国境の目印を越えている。
隣国の国境警備隊が駆け付けているようだったが、最近砂漠化に対応し始めたばかりの隣国では、砂漠の魔物討伐に対応しきれていない。
見ていられない状況に、カウティスは国境を越えて飛び出して行ったのだ。
「隣国の隊長がお知り合いで良かったですよ」
マルクのぼやきは続く。
救済が目的とはいえ、帯剣した隣国の人間が無許可で国境を越え、しかも抜剣したとあっては、“助けてくれてありがとう”では済まなかったのだ。
過去に連携して魔物討伐を行ったことのある隊長が、たまたま国境近くにいて、カウティスの身元を保証してくれた。
逆に王族を歓待しなければという雰囲気になってきたのを、何とか振り切って戻って来たのが今だ。
パリスとラードに加え、国境まで見送ってくれた隣国の騎士が、延々と続くマルクのぼやきに苦笑している。
とりあえず、何とか日の入りの時刻までに、自国の領土に戻れて安堵した。
「ご苦労だった」
カウティスが隣国の騎士に声をかけ、国境の目印を超えた時だった。
突然、馬が浮足立った。
パリスが、馬を落ち着かせようとすると、横でマルクが馬から落ちた。
「ちょっと、大丈夫……マルク?」
マルクが砂の上で腰を抜かしたようにへたり込み、驚愕の表情でカウティスを指差す。
皆がカウティスを見るが、何も驚くような変化はない。
カウティス自身も、おかしなことはないようで、怪訝な顔でマルクを見返す。
「何だ?」
「……隊長の周りに……す、すごい魔力が……」
マルクの目には、カウティスを覆い隠す霧の様な魔力が見えていた。
「魔力? 俺には魔術素質は……」
カウティスは言いかけて、止まる。
“オーラのような魔力を帯びている”
そう言われたのは、カウティスが水の精霊に新たに加護を与えられたのでは、と噂された頃。
つまり、水の精霊が眠る前だ。
カウティスは、急いで首に掛かった銀の鎖を引き上げ、ガラスの小瓶を見つめた。
しかし、月光に暫く当たっていない魔石では、何の反応もない。
舌打ちして、カウティスは手綱を握り直し、馬を走らせた。
「隊長!」
後ろで声が聞こえたが、返事をせずにスピードを上げる。
セルフィーネが戻ってきたのかもしれない。
そう思うと、鼓動が早くなる。
今まで何度もぬか喜びしてきた。
突然雨が降れば、帰ってきたのかもしれないと思い、風で噴水が流れれば、そこにいるのかもしれないと期待する。
しかし、十三年間ずっと、セルフィーネは消えたままだった。
今回もただの勘違いかもしれない。
そう思っても、カウティスは止まることは出来なかった。
日の入りの時刻になり、太陽が月に替わる。
今日も月は雲に覆われている。
拠点であるオアシスに戻ると、カウティスは馬から降りて、澄んだ水が湧き出る泉に走る。
水源のある所ならもしかして、と思った。
フードを跳ね除け、ゴーグルを外し、青々と茂る木々を抜け、水辺に出ると叫んだ。
「セルフィーネ!」
しかし、辺りは静まり返り、焚き火もない今は薄い闇に閉ざされている。
遅れて帰って来たラードとパリスが、カウティスの様子に戸惑っている。
その後を、マルクがよろめきながら戻ってきて、耳を抑えた。
「うわ、音が……声?」
ざあ、と周囲の気配が変わった気がした。
向こうで馬が嘶く。
「声? なんと言ってる!?」
カウティスがマルクに詰め寄る。
マルクは顔を引き攣らせて、カウティスを見る。
「……『カウティス』、と……」
カウティスが目を見開く。
間違いない、水の精霊が目覚めた。
セルフィーネが戻ってきたのに。
「くそっ! なんでマルクに聞こえて、俺に聞こえない!」
カウティスは泉に向かって、もう一度叫んだ。
「セルフィーネ!」
その瞬間、砂漠を渡る風が強く吹き、月を覆う雲が流れた。
青白い月光が、一筋泉に降りてくる。
泉に差した月光に、水の精霊の姿が映った。
長く細く、サラサラと流れる水色の髪。
瞳の上に揺れる、長いまつ毛。
白い手足に揺れるドレスの襞。
柔らかな肩の曲線。
それは確かに、十三年間カウティスが待ち続けた、水の精霊の姿だった。
カウティスと目が合うと、彼女は花が咲くように微笑み、その紫水晶の瞳から美しい雫が一筋流れた。
「セルフィーネ!」
カウティスが手を伸ばし、名を呼んだ途端、月は雲に隠れ、水の精霊の姿は消え失せた。
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