目覚め (前編)

深い深い緋色の中で、水の精霊は目を開けた。

所々に淡く光るものが見える。

ゆっくりと頭を振ると、光るものが増え、広がり、緋色が薄くなってゆく。

動けそうだと思い、立ち上がる。


フォグマ山は火の精霊の聖地とも言える場所だ。

竜人族が水の精霊をネイクーン王国に落とした時、水晶のような魔石を水の精霊の心臓部コアとして、フォグマ山に埋め込み、火の精霊の影響を弱めた。

そこから流れ出るのがベリウム川だ。


今、水の精霊は火の精霊フォグマ山の中で目を覚ました。

立ち上がった水の精霊の周りで声のような音が聞こえる。


« 目覚めたか »


火の精霊だ。


« もう 行く »


水の精霊が答える。

周囲の緋色が、斑に揺れる。


« お前は 変化している 気をつけろ 

 人間に関わりすぎれば 

 我等と共にいられなくなるぞ »


変化した? 何のことだろう。

わからないまま、水の精霊はフォグマ山火の精霊の中から滑り出た。





午後の二の鐘が鳴る頃、王城の謁見の間。

この日聖女アナリナは、女神官に泣きつかれて、とうとう登城していた。



「聖女よ、そなたのおかげで、病に苦しむ我が国の民が多く救われている。何と感謝すれば良いか」

王座から王が、言葉を掛ける。

王の濃い銅色だった髪は、半分以上が薄い色に変わり、若々しかった顔にも多くのシワが刻まれている。

それでも声には張りがあり、力強い。

王座の下段には側妃マレリィが控える。

エレイシア王妃は、七年前、病で他界していた。


謁見の間は、王座の間と比べて横に広い。

周りには聖女を一目見て、あわよくば縁を結びたいと願う貴族達が並んでいる。

青い糸で聖紋が刺繍された、月光神に仕える白い祭服を着て、青銀色の髪を結い、慎ましやかに見える彼女の姿に、貴族達は皆、聖女とはこのように聖なる存在なのかと感じ入っていた。

しかし、彼女の口から出た言葉は幻想を打ち砕く。



「お礼を下さるなら、お金にして下さい」


アナリナは両手をパチンと合わせて、ニッコリと微笑んだ。

場は静まり返り、今のは聞き間違えかと、皆が目を白黒させている。

アナリナのお付きで来ていた女神官だけは、額を押さえて倒れた。


「……聞き間違えでなければ、“お金”と言ったか?」

青空色の目を激しく瞬いて、王が聞き返す。

「ハイ、王様。そうして頂ければ、私の能力で救えない孤児院や養護院の人々も、少しは楽になりますわ」

聖女の能力で出来ることといえば、病気や怪我を治すことに加え、呪いを解く、毒の浄化など様々あるが、親をなくした子に里親を探したり、家をなくした人に住むところを与えたりは出来ない。

現実的に考えて、とにかくお金が必要なのだ。

しかし、貴族達にはそんな考えは通用しないらしく、「あれは本当に聖女なのか?」といった声があちこちで聞こえ始めた。


まあ、そんなものでしょうね、とアナリナが小さく溜め息をついた時、マレリィと共に下段に控えていた王太子が口を開いた。

「そういたしましょう、陛下」

皆の視線が集まる。


明るい銅色の髪を短く切り揃え、体格の良い長身のエルノートが軽く笑みを浮かべる。

切れ長の瞳は薄青で、角ばった顎を引いて立っていると、近寄り難い美丈夫だ。

「聖女様は、褒賞など要らぬから、困窮している民に財源を使えと仰るのですよ。ぜひそうさせて頂いては」

エルノートの意図を察し、王は深く頷く。

「その通りだな。素晴らしい、さすがは聖女。セシウム、財務担当官と早急に対応せよ」

「はい、陛下」

エルノートの隣に控えていた、宰相セシウムは一礼する。

隠居したマクロンに代わり、次代のエルノートを支えるべく、文官から抜擢された若い宰相だ。


王は、聖女とお近付きになりたくて集まっていた貴族達を見回し、人好きのする笑顔を浮かべた。

「そなた達も、聖女の慈愛の心に添い、寄付するように」

貴族達の顔が一様に引き攣った。




「聖女様」

城下に帰るため、馬車が待つ前庭に向かうアナリナを呼び止めたのは、エルノートだった。

純白に金の縁取りの衣装で、ただ歩く姿も画になる王子だ。

後ろに護衛騎士と侍従を連れている。

女神官が頬を染め、後ろに下がって頭を下げる。


「本日は、感謝を述べるべき弟が顔を見せず、申し訳ありません」

エルノートがアナリナに詫びたのは、セイジェ第三王子のことだ。

ずっと病気がちだったセイジェを、アナリナか“神降ろし”で快癒させて半年ほど経つ。

あの箱入り我儘王子には会いたくなかったので、顔を出してくれなくてちょうど良かったと思っていた。



「先程は、素晴らしい提案をして頂き、感謝致します」

「王太子様が綺麗にまとめて下さっただけですよ」

アナリナが言うと、エルノートは首を振る。

「民の気持ちに添った提案でした」

「私は元々平民ですから」

アナリナはつまらなさそうな顔で答えた。


彼女は平民出の聖女だ。

ある日突然、月光神の降臨神降ろしを起こして聖女となった。


「それが貴女の強みでしょう。是非またお話をお聞きしたい。民の声を知りたいのです」

エルノートが真面目に言うので、アナリナは眉を寄せた。

「民の声を知りたいのなら、あなた自身が街に下りられては?」

王族がそうそう城下に下りて、民と交わるとは思えないけれど。

アナリナは苛立ち混じりに言ったのだが、エルノートは困ったように苦笑する。

「城下にも辺境にも向かうのですが、私の前では皆、普段通りの生活を見せてくれないのです」

「街へ行かれているのですか? 王太子のあなたが?」

女神官が後ろから声を挟む。

「王太子様は毎月、治療院と孤児院にお越し下さいます」

アナリナは、意外な事実に目を瞬いて、エルノートを見た。

立っているだけで、女神官が見惚れるような完璧な王子だ。

それは城下に下りても、民が普段通りには振る舞えないだろう。


「……カウティス王子とは、大違い」

思わず心の声が口に出た。

「カウティス? 弟とお知り合いですか?」

エルノートが意外そうに聞く。

彼女が答えようとした時だった。




王城の空気が変わった気がした。

アナリナは、空を見上げて周りを見回した。

“神降ろし”をした彼女には、精霊の魔力が見える。

水色と紫色の魔力が極薄く広がった空に、色が重なるように魔力が広がっていく。

水の精霊の魔力が、急激に強まるのを感じて呟いた。

「水の精霊が目覚めたんだわ……」

エルノートが薄青色の目を見開く。

「本当ですか!?」

「ええ……でも、何だか変……」




突然、アナリナの頭から爪先にかけて、一本の針を突き刺すような痛みが走った。

アナリナは目を力一杯閉じて、軋むほど歯を食いしばり、痛みに耐える。

これは“神降ろし”の痛みだ。

でも、なぜ? 私は“神降ろし”を願ってない。

身体が急激に冷えて、息が出来ない。



エルノートは、あまりの魔力の圧に、身動きできなかった。

周囲の者達も同様に固まっている。

アナリナが、セイジェを快癒させた時もこれと同じだった。

膨大な魔力の塊がアナリナに落ちてきて、彼女が自身の身体を両腕で抱き締めて震えるのを、動けずに見ていた。


暫くして、彼女が静かに顔を上げると、エルノートは息を呑んだ。

姿は確かにアナリナであるのに、全く別の者になったように見えた。

そして、その紫水晶の輝く瞳。

彼女の口が何かを訴えるように開くが、声が出ない。

「水の精霊様!」

エルノートが叫んだ次の瞬間、アナリナの身体から魔力が飛び出して、彼女の身体は崩折れた。

身体のこわばりが取れたエルノートが、咄嗟に彼女を支える。


「……何あれ……迷子の子どもみたい……」

アナリナの掠れた声がする。

エルノートは眉を寄せた。

「迷子?」

アナリナは脂汗の浮いた額を拭いながら、エルノートから身体を離して頷いた。



「カウティス王子を捜してるわ」


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