別れ

この回には、地震の表現があります。

苦手な方はご注意下さい。

∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷



カウティスが目覚めたのは、御迎祭の三日後だった。




カウティスは薄っすらと目を開け、見慣れた天井を見つめていた。

「カウティス! カウティス、母が分かりますか?」

カウティスは、マレリィの声にぼんやりと答える。

「母上……」

「ああ! カウティス……。神よ感謝します」

カウティスはようやく、自分が自室の寝台に寝ていることに気付いた。

瞬きするが、瞼がやけに重い。

寝台の横に座っている母は、いつものように、きっちりと髪を結い上げていたが、目が充血し、こころなしかやつれて見えた。


「母上、どうして……」

どうしてそんな顔をしているのか、と聞こうとして、突如、御迎祭の夜の事を思い出した。

同時に、おぼろげだがクイードの最期を思い出し、強烈な吐き気が込み上げる。

半身を捻って嘔吐したが、苦い胃液のようなものが出ただけだった。

マレリィと侍女達が急いでカウティスを助け起こし、周りを清める。

身体が重く、少し動いただけで頭痛がした。



カウティスはあの後、王の指示により講義棟に駆け付けた、騎士と侍従達に助け出されたらしい。

そして水の精霊により、クイードの王家への反逆が報告されていた。


「母上、水の精霊は……?」

カウティスは、いつ意識を失ったのかよく覚えていない。

ただ、彼女の悲痛な表情は覚えている。

「……無事です。しかし陛下以外には、姿を見せて下さいません」

マレリィは静かに首を横に振る。


セルフィーネもあの時、何かしらの痛手を負ったのではないかと、カウティスは心配になった。

自分が講義棟あんなところに水の精霊を連れ出そうとしたばかりに、苦しい思いをさせてしまった。

早く会いにいかなければならない。

そう思って、視線だけで部屋中を見たカウティスは、護衛騎士のエルドがいないことに気づいた。

部屋の中にいるのは別の護衛騎士だ。


カウティスの息が荒くなる。

「母上、エルドはどこですか。あの時、私と一緒にいた、護衛騎士です」

あの時、ずっと自分を支えてくれていたのを覚えている。

寝台の側に立っていた侍女のユリナが、そっと俯いた。

マレリィは一呼吸おいて口を開く。

「あの騎士は今、オルセールス神殿の治療院にいます」

「無事なのですね!?」

「……生きてはいます。しかし、意識が戻るかどうかは分からないそうです」

カウティスは絶句する。


講義棟の最上階に救助が到着した時、カウティスは魔術陣の外で倒れていたが、エルドは陣の中で倒れていた。

陣の外に出された時には、一度呼吸が止まったという。

御迎祭の為に王城に留まっていた、太陽神の司祭が蘇生し、一命を取り留めたが、意識は戻っていない。

もし戻っても、後遺症が残る可能性があり、騎士に戻れるかは分からない。


カウティスは両手で顔を覆った。


『 王子、死んでは、なりません 』


微かに聞こえた声を覚えている。

「カウティス、あの騎士は、護衛騎士の職務を全うしたのです」

マレリィが静かにそう言って、カウティスの腕を優しく撫でる。

カウティスは震える手を、閉じた目の上で握る。

カウティスを守ることが、エルドの護衛騎士としての職務だとしても、巻き込んだのは自分だ。




その時、突然地面が揺れた。

侍女達がその場でしゃがんで、抱き合う。

護衛騎士がマレリィとカウティスの身を庇った。

机の上の盆やグラスがカタカタと音を立て、グラスの水が波打つ。

小刻みに暫く揺れた後、次第に収まっていく。


「…………今のは一体?」

地震を生まれて初めて経験したカウティスが、青ざめて母を見る。

固い表情のマレリィが、震える息を吐いて、言った。

「火の精霊様がお怒りなのです」



御迎祭の夜、水の精霊に呼び出された火の精霊は、王城の火を爆ぜ、クイードの契約魔法陣を破壊した。

それだけでは収まらず、渦巻く熱気は王城の北に聳える、最も火の精霊の影響を受けたフォグマ山に到達し、噴火を引き起こした。


フォグマ山の山頂からは毒煙が立ち上がり、今では日に何度も地震が起きていた。





「水の精霊よ」

広い王座の間に、王がただ一人、ガラスの水盆に向かっている。

水盆の水が静かに立ち上がり、水の精霊がその姿を現す。

長い水色の艷やかな髪も、揺れれば美しくそよぐドレスの襞も、今は動かない。

彼女の表情には何も浮かばず、ガラス細工のようだった。


「カウティスが目覚めた」

王がその一言を発すると、彼女の紫水晶の瞳に光が戻った。

長いまつ毛を揺らし、王の顔を初めて見る。

「無事か?」

「薬師は、まだ衰弱しているが異常は見られないと」

彼女はキツく目を閉じて、身体を震わせた。

暫くして、ゆっくりと目を開け、カウティスと同じ青空色の王の目を見る。

「……フォグマ山に向かう」

フォグマ山の噴火を抑えるため、水の精霊はフォグマ山の中腹に留まるという。

王が安堵の溜め息をついて、目を逸らした。

「そなたは、もう、行かぬかと……」

「……何故そう思う」

固く冷たい水の精霊の声に、王が視線を上げる。

「カウティスが目覚めるまでは待つ、と言ったはずだ。私は、己の役割を果たす」

王が顔を歪めた。


水の精霊の本来の役割とは、水源を保つことのみ。

噴火の被害を見ぬふりをしたとしても、それ以上のことを強要することは出来ないはずなのだ。

それでも、この災厄から国を救う為に“己の役割”だと言い切る水の精霊に、王が吐ける言葉はひとつしかなかった。


「感謝する……」

王はただ、頭を垂れる。

この国の先は人間が決めると豪語していても、国難に際しては水の精霊に頼る己が、ただただ浅ましく感じた。


「カウティスに会ってから、向かいたい」

水の精霊は、静かに言った。





王がカウティスの私室に入ると、ちょうど寝台の上に半身を起こし、見舞いに訪れたエルノートとフレイアと話しているところだった。

「父上」

エルノートとフレイアが立ち上がり、脇に避けて一礼する。


「父上、申し訳ありません。私の軽はずみな行動のせいで……」

カウティスが寝台から降りようとするのを、王は止めた。

「そうではない。クイードあの者の魔法への執着を知っていて放置した、私の過ちだ。許せ」

王はカウティスの手を取り、自身の大きな手で包んだ。

王族に危害を加えてまで、魔法を求める、クイードの渇望を理解できなかった。

僅かでも理解できていたら、あのような悲惨な最期を迎えずに済んだだろうか。


しかし、今は後悔するべき時ではない。

王が手を上げると、侍従がガラスの水盆を恭しく持って入ってきた。

「水の精霊がフォグマ山に向かう。その前にそなたと話したいそうだ」

カウティスが目を見開いて父を見る。

王は頷いて、立ち上がる。

侍従が寝台の側の机に水盆を置くと、人払いをし、エルノートとフレイアを連れ出て行く。


しかし王だけは部屋から出ず、寝台から死角の扉の内側に留まった。

二人がどんなやり取りをするのか、知りたかったからだ。




「セルフィーネ」

カウティスの呼び掛けに応えるように、ガラスの水盆に小さな水柱が立ち上がり、水の精霊が姿を現した。

カウティスの姿を認めると、紫水晶の瞳に光が灯り、直立の身体が柔らかく動いた。


王は驚いて目を見張る。

まるで、動かないガラス人形に魂が吹き込まれたようだ。


「「無事で良かった」」

二人の声が重なって、二人が同時に頬を緩めた。

「カウティス、すまない。そなたを恐ろしい目にあわせてしまった」

水の精霊が、長いまつげを揺らして目を伏せる。

「違う、オレがそなたを連れて行ったからだ。すまない……何と謝れば良いか……」

あの悲痛な水の精霊の様子を思い出し、カウティスは唇を噛みしめる。

水の精霊が、そっと白い腕を伸ばし、カウティスの頬に触れる。

感触さえなかったが、カウティスは自分の掌を重ねた。



「私はこれより、フォグマ山に向かう」

唐突に彼女が言った。

カウティスは眉を寄せた。

フォグマ山が火を噴いた今、水の精霊が向かうのであろうことは予想出来た。

「そなたが弱っている時に側にいられないことを、許して欲しい」

カウティスは頭痛のする頭を振る。

水の精霊は、この国の民の為に行ってくれるのだから、側にいて欲しいなどと我儘は言えない。

彼は寝台の上で拳を握る。


「いつ、戻って来る?」

カウティスの言葉に、水の精霊は寂しそうに薄く微笑んだ。

「分からない」

「分からない?」

カウティスの背に、悪寒が走った。

水の精霊が辺境の水源に向かうのを、何度も見送ってきたが、帰還の時期を明確にしなかったことはない。

水の精霊は、静かに手を降ろした。

「……今まで、フォグマ山に留まったことは二度あるが、どちらも十年は戻れなかった」


カウティスは目の前が暗くなった。

握った拳が震える。

「十年? 何だそれ……」

今まで自分が生きてきた年月よりも、ずっと長い時間だ。


「いつか、また会える。だから、それまで息災で……」

「嫌だ!」

カウティスが、水盆の方に身を乗り出して叫んだ。

悲しみなのか、怒りなのか分からない。

どうしようもなく苦しくて、叫ばずにいられなかった。

「嫌だ! 何故! なぜそんな風に言える? どうして!」

上手く言葉が出ない。

一年前、初めて別れた時のように、この理不尽な痛みを呑み込むことが出来なかった。

「セルフィーネ!」



水の精霊は、黙ってカウティスを見つめていた。

澄んだ青い空の、カウティスの瞳。

それは何百年も前から彼女が囚われた、この国の空の色だ。


ずっと空虚だった。

『水の精霊様、ありがとうございます』

『水の精霊よ、感謝する』

誰もが口にし、何度も見た光景。

しかし、誰も本当には私を見ていない。

生命を繋ぐ、水を見ているだけだ。

精霊とは、存在するのが当たり前の


それがある時、庭園の泉彼女の中に赤い飴を投げ込んだ少年が、彼女の些細な一言に本気で怒り、見返そうと半年かけて鍛えて見せた。

彼女が長い長い時の中で行ってきたことを、理解し、認めてくれた。

共に笑い、知らなかった景色を見せ、心配し、彼女の気持ちに添ってくれた。



カウティス。

どれ程愛おしいだろう。

そなただけが、私の“特別”。



「国内の目も閉じる。私が消滅しない限り、水源は決して枯れさせない」

水の精霊が、一歩前に進み出た。

身を乗り出しているカウティスに、透き通った美しく輝く姿が近付く。

彼女は、苦しく歪んだ彼の頬を愛おしそうにそっと撫でて、小さな唇をその頬に重ねた。

「そなたの愛するネイクーン王国この国を、私は守る」


彼女の紫水晶の瞳から、一筋の光が流れた。

カウティスの固く握りしめた拳に、雫が落ちる。

それはただの、水盆の水だったのかもしれない。

それでも、確かにそれは、水の精霊の涙だった。




不意に水の精霊の姿が消えた。

ガラスの水盆に水柱がパシャリと落ちる。

カウティスが息を呑み、手を伸ばした。

「行くな!」

勢いよく伸ばした手はガラスの水盆をかすめ、水盆は机から落ちて、儚く粉々に割れた。

バランスを崩したカウティスが、寝台から落ちた。

ガラスの破片で傷付き、痛んでも、重い身体で必死に藻掻いて走ろうとした。

「セルフィーネ!」

王がカウティスを抱き止める。

二人の想いを本当に見ようとしていなかったことに、今更ながら気付き、不甲斐無く息子を抱き止める事しか出来なかった。


「セルフィーネ!!」

カウティスの叫びがこだまする。





その日より十三年の間、ネイクーン王国から水の精霊の姿は消えた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る