別れ
この回には、地震の表現があります。
苦手な方はご注意下さい。
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カウティスが目覚めたのは、御迎祭の三日後だった。
カウティスは薄っすらと目を開け、見慣れた天井を見つめていた。
「カウティス! カウティス、母が分かりますか?」
カウティスは、マレリィの声にぼんやりと答える。
「母上……」
「ああ! カウティス……。神よ感謝します」
カウティスはようやく、自分が自室の寝台に寝ていることに気付いた。
瞬きするが、瞼がやけに重い。
寝台の横に座っている母は、いつものように、きっちりと髪を結い上げていたが、目が充血し、こころなしかやつれて見えた。
「母上、どうして……」
どうしてそんな顔をしているのか、と聞こうとして、突如、御迎祭の夜の事を思い出した。
同時に、おぼろげだがクイードの最期を思い出し、強烈な吐き気が込み上げる。
半身を捻って嘔吐したが、苦い胃液のようなものが出ただけだった。
マレリィと侍女達が急いでカウティスを助け起こし、周りを清める。
身体が重く、少し動いただけで頭痛がした。
カウティスはあの後、王の指示により講義棟に駆け付けた、騎士と侍従達に助け出されたらしい。
そして水の精霊により、クイードの王家への反逆が報告されていた。
「母上、水の精霊は……?」
カウティスは、いつ意識を失ったのかよく覚えていない。
ただ、彼女の悲痛な表情は覚えている。
「……無事です。しかし陛下以外には、姿を見せて下さいません」
マレリィは静かに首を横に振る。
セルフィーネもあの時、何かしらの痛手を負ったのではないかと、カウティスは心配になった。
自分が
早く会いにいかなければならない。
そう思って、視線だけで部屋中を見たカウティスは、護衛騎士のエルドがいないことに気づいた。
部屋の中にいるのは別の護衛騎士だ。
カウティスの息が荒くなる。
「母上、エルドはどこですか。あの時、私と一緒にいた、護衛騎士です」
あの時、ずっと自分を支えてくれていたのを覚えている。
寝台の側に立っていた侍女のユリナが、そっと俯いた。
マレリィは一呼吸おいて口を開く。
「あの騎士は今、オルセールス神殿の治療院にいます」
「無事なのですね!?」
「……生きてはいます。しかし、意識が戻るかどうかは分からないそうです」
カウティスは絶句する。
講義棟の最上階に救助が到着した時、カウティスは魔術陣の外で倒れていたが、エルドは陣の中で倒れていた。
陣の外に出された時には、一度呼吸が止まったという。
御迎祭の為に王城に留まっていた、太陽神の司祭が蘇生し、一命を取り留めたが、意識は戻っていない。
もし戻っても、後遺症が残る可能性があり、騎士に戻れるかは分からない。
カウティスは両手で顔を覆った。
『 王子、死んでは、なりません 』
微かに聞こえた声を覚えている。
「カウティス、あの騎士は、護衛騎士の職務を全うしたのです」
マレリィが静かにそう言って、カウティスの腕を優しく撫でる。
カウティスは震える手を、閉じた目の上で握る。
カウティスを守ることが、エルドの護衛騎士としての職務だとしても、巻き込んだのは自分だ。
その時、突然地面が揺れた。
侍女達がその場でしゃがんで、抱き合う。
護衛騎士がマレリィとカウティスの身を庇った。
机の上の盆やグラスがカタカタと音を立て、グラスの水が波打つ。
小刻みに暫く揺れた後、次第に収まっていく。
「…………今のは一体?」
地震を生まれて初めて経験したカウティスが、青ざめて母を見る。
固い表情のマレリィが、震える息を吐いて、言った。
「火の精霊様がお怒りなのです」
御迎祭の夜、水の精霊に呼び出された火の精霊は、王城の火を爆ぜ、クイードの契約魔法陣を破壊した。
それだけでは収まらず、渦巻く熱気は王城の北に聳える、最も火の精霊の影響を受けたフォグマ山に到達し、噴火を引き起こした。
フォグマ山の山頂からは毒煙が立ち上がり、今では日に何度も地震が起きていた。
「水の精霊よ」
広い王座の間に、王がただ一人、ガラスの水盆に向かっている。
水盆の水が静かに立ち上がり、水の精霊がその姿を現す。
長い水色の艷やかな髪も、揺れれば美しくそよぐドレスの襞も、今は動かない。
彼女の表情には何も浮かばず、ガラス細工のようだった。
「カウティスが目覚めた」
王がその一言を発すると、彼女の紫水晶の瞳に光が戻った。
長いまつ毛を揺らし、王の顔を初めて見る。
「無事か?」
「薬師は、まだ衰弱しているが異常は見られないと」
彼女はキツく目を閉じて、身体を震わせた。
暫くして、ゆっくりと目を開け、カウティスと同じ青空色の王の目を見る。
「……フォグマ山に向かう」
フォグマ山の噴火を抑えるため、水の精霊はフォグマ山の中腹に留まるという。
王が安堵の溜め息をついて、目を逸らした。
「そなたは、もう、行かぬかと……」
「……何故そう思う」
固く冷たい水の精霊の声に、王が視線を上げる。
「カウティスが目覚めるまでは待つ、と言ったはずだ。私は、己の役割を果たす」
王が顔を歪めた。
水の精霊の本来の役割とは、水源を保つことのみ。
噴火の被害を見ぬふりをしたとしても、それ以上のことを強要することは出来ないはずなのだ。
それでも、この災厄から国を救う為に“己の役割”だと言い切る水の精霊に、王が吐ける言葉はひとつしかなかった。
「感謝する……」
王はただ、頭を垂れる。
この国の先は人間が決めると豪語していても、国難に際しては水の精霊に頼る己が、ただただ浅ましく感じた。
「カウティスに会ってから、向かいたい」
水の精霊は、静かに言った。
王がカウティスの私室に入ると、ちょうど寝台の上に半身を起こし、見舞いに訪れたエルノートとフレイアと話しているところだった。
「父上」
エルノートとフレイアが立ち上がり、脇に避けて一礼する。
「父上、申し訳ありません。私の軽はずみな行動のせいで……」
カウティスが寝台から降りようとするのを、王は止めた。
「そうではない。
王はカウティスの手を取り、自身の大きな手で包んだ。
王族に危害を加えてまで、魔法を求める、クイードの渇望を理解できなかった。
僅かでも理解できていたら、あのような悲惨な最期を迎えずに済んだだろうか。
しかし、今は後悔するべき時ではない。
王が手を上げると、侍従がガラスの水盆を恭しく持って入ってきた。
「水の精霊がフォグマ山に向かう。その前にそなたと話したいそうだ」
カウティスが目を見開いて父を見る。
王は頷いて、立ち上がる。
侍従が寝台の側の机に水盆を置くと、人払いをし、エルノートとフレイアを連れ出て行く。
しかし王だけは部屋から出ず、寝台から死角の扉の内側に留まった。
二人がどんなやり取りをするのか、知りたかったからだ。
「セルフィーネ」
カウティスの呼び掛けに応えるように、ガラスの水盆に小さな水柱が立ち上がり、水の精霊が姿を現した。
カウティスの姿を認めると、紫水晶の瞳に光が灯り、直立の身体が柔らかく動いた。
王は驚いて目を見張る。
まるで、動かないガラス人形に魂が吹き込まれたようだ。
「「無事で良かった」」
二人の声が重なって、二人が同時に頬を緩めた。
「カウティス、すまない。そなたを恐ろしい目にあわせてしまった」
水の精霊が、長いまつげを揺らして目を伏せる。
「違う、オレがそなたを連れて行ったからだ。すまない……何と謝れば良いか……」
あの悲痛な水の精霊の様子を思い出し、カウティスは唇を噛みしめる。
水の精霊が、そっと白い腕を伸ばし、カウティスの頬に触れる。
感触さえなかったが、カウティスは自分の掌を重ねた。
「私はこれより、フォグマ山に向かう」
唐突に彼女が言った。
カウティスは眉を寄せた。
フォグマ山が火を噴いた今、水の精霊が向かうのであろうことは予想出来た。
「そなたが弱っている時に側にいられないことを、許して欲しい」
カウティスは頭痛のする頭を振る。
水の精霊は、この国の民の為に行ってくれるのだから、側にいて欲しいなどと我儘は言えない。
彼は寝台の上で拳を握る。
「いつ、戻って来る?」
カウティスの言葉に、水の精霊は寂しそうに薄く微笑んだ。
「分からない」
「分からない?」
カウティスの背に、悪寒が走った。
水の精霊が辺境の水源に向かうのを、何度も見送ってきたが、帰還の時期を明確にしなかったことはない。
水の精霊は、静かに手を降ろした。
「……今まで、フォグマ山に留まったことは二度あるが、どちらも十年は戻れなかった」
カウティスは目の前が暗くなった。
握った拳が震える。
「十年? 何だそれ……」
今まで自分が生きてきた年月よりも、ずっと長い時間だ。
「いつか、また会える。だから、それまで息災で……」
「嫌だ!」
カウティスが、水盆の方に身を乗り出して叫んだ。
悲しみなのか、怒りなのか分からない。
どうしようもなく苦しくて、叫ばずにいられなかった。
「嫌だ! 何故! なぜそんな風に言える? どうして!」
上手く言葉が出ない。
一年前、初めて別れた時のように、この理不尽な痛みを呑み込むことが出来なかった。
「セルフィーネ!」
水の精霊は、黙ってカウティスを見つめていた。
澄んだ青い空の、カウティスの瞳。
それは何百年も前から彼女が囚われた、この国の空の色だ。
ずっと空虚だった。
『水の精霊様、ありがとうございます』
『水の精霊よ、感謝する』
誰もが口にし、何度も見た光景。
しかし、誰も本当には私を見ていない。
生命を繋ぐ、水を見ているだけだ。
精霊とは、存在するのが当たり前の
それがある時、
彼女が長い長い時の中で行ってきたことを、理解し、認めてくれた。
共に笑い、知らなかった景色を見せ、心配し、彼女の気持ちに添ってくれた。
カウティス。
どれ程愛おしいだろう。
そなただけが、私の“特別”。
「国内の目も閉じる。私が消滅しない限り、水源は決して枯れさせない」
水の精霊が、一歩前に進み出た。
身を乗り出しているカウティスに、透き通った美しく輝く姿が近付く。
彼女は、苦しく歪んだ彼の頬を愛おしそうにそっと撫でて、小さな唇をその頬に重ねた。
「そなたの愛する
彼女の紫水晶の瞳から、一筋の光が流れた。
カウティスの固く握りしめた拳に、雫が落ちる。
それはただの、水盆の水だったのかもしれない。
それでも、確かにそれは、水の精霊の涙だった。
不意に水の精霊の姿が消えた。
ガラスの水盆に水柱がパシャリと落ちる。
カウティスが息を呑み、手を伸ばした。
「行くな!」
勢いよく伸ばした手はガラスの水盆をかすめ、水盆は机から落ちて、儚く粉々に割れた。
バランスを崩したカウティスが、寝台から落ちた。
ガラスの破片で傷付き、痛んでも、重い身体で必死に藻掻いて走ろうとした。
「セルフィーネ!」
王がカウティスを抱き止める。
二人の想いを本当に見ようとしていなかったことに、今更ながら気付き、不甲斐無く息子を抱き止める事しか出来なかった。
「セルフィーネ!!」
カウティスの叫びがこだまする。
その日より十三年の間、ネイクーン王国から水の精霊の姿は消えた。
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