帰還報告

王の執務室。

王が上着を侍従に渡して、革張りの椅子に座るとすぐ、魔術師長クイードの来室が告げられる。



クイードは入室してすぐ、王に水の精霊の帰還を伝えた。

彼は、王城の魔力の動きで帰還が分かるらしい。

宰相マクロンが侍従に指示を出し、窓際に置いてある水盆を、執務机の上に運ばせる。

水盆が机の上に据えられると、水面が盛り上がり、小さな水柱となった。

王だけは、水柱に美しい水の精霊の姿を見る。


「戻った」

水の精霊は直立不動でそう告げた。

「よく戻った。エスクト砂漠はどうだ?」

王は涼しい顔をした水の精霊に尋ねた。

彼女は、水盆の前に座る王を見る。



―――これが普通の反応だ。

人間は、カウティスのように、精霊の心配などしない。



「水源は回復した。火の精霊も静かになったようだ」

「そうか。ご苦労だった」

安堵の息を吐き、王が背もたれに身を預ける。

砂漠の水源も回復し、砂漠化は魔術士達の土魔術で抑えられた。

ひとまず、南部の懸念事項は解決したと言っていい。

クイードによって、マクロンに状況の説明がなされた。




「そなた、帰還して、先にカウティスに会ったか?」

細かい説明を聞いた後、王が水の精霊に唐突に聞いた。

「早朝に、会った」

王は、やはりと思った。 

朝食時のカウティスの様子を思い出すと、水の精霊の帰城を、もう知っていたのではないないかと思ったのだ。

「何故、先に報告に来ないのだ」

「緊急でない限り、いつもそなたの執務時間に報告に来ているが」

確かにそれがいつものことだ。

王は眉間を押さえた。

クイードも眉根を寄せて、指を擦り合わせている。


何の感情も浮かんでいない水の精霊の顔を正面から見て、王が言った。

「そなた、カウティスにもう関わるな」

「断る」

「即答か!」

王が頭を抱えた。

クイードも絶句している。

マクロンはどういう会話か分からず、困惑していた。


水の精霊は、至極当たり前の事を口にしたかのようだった。

フレイアが言ったように、水の精霊がカウティスに関心を持っている事は、間違えようもない。


王はゆっくりと、水の精霊に顔を近付けた。

カウティスと同じ、澄んだ青空色の瞳で彼女を見据える。

「水の精霊よ。そなた、カウティスの何をそんなに気に入ったのだ」

水の精霊は王の視線を受け止めたまま、何も言わない。


精霊は嘘をつかない。

答えたくないなら、口をつぐむだけだ。


王は、明るい銅色の髪をくしゃりと握る。

「……ならばせめて、国政に関することをカウティスの耳に入れるな」

「……なぜ?」

「カウティスを守るためだ」

王の言葉に、初めて水の精霊の紫水晶の瞳が揺れた。

「カウティスを介して、そなたから機密情報を手に入れようとする輩がおらぬとも限らぬ」

水の精霊は黙って王の言葉を聞く。

「また、カウティスを利用して、そなたを悪用されては、国益を損なうことになる」

マクロンが表情を固くし、クイードは薄氷の瞳を細める。



「……そなた達の関係性が広まれば広まる程、カウティスの危険は増すだろう」

「危険? ここはそなた達の国だろう」

彼女の顔に困惑が滲んだ。


理解できない。

自国の王子が、自国に水をもたらす水の精霊と深く結びつく。

それの一体何が危険だと言うのか。


「そうだ。我々人間の国だ」

王は深く深く、溜息をついた。

「そして、残念だが人間とは、そういうものなのだ」



 


今日は、カウティスの午後の講義は算学だった。

「今日は全く身が入っておりませんね」

集中できず何度も間違うカウティスに、女性講師は呆れ気味だった。

次回までに復習するよう言い渡され、講義が終わる。



片付けもそこそこに、カウティスが立ち上がる。

侍女のユリナが、盆に菓子を乗せて部屋に入って来た。

甘い菓子が好きなカウティスは、時々、厨房の製菓長に好物をリクエストする。

今日は、今年初めてのリグムパイだった。

カウティスが、外に持ち出して食べている事を知っている製菓長が、いつしか手に持って食べやすいサイズの菓子を用意してくれるようになった。


今日のリグムパイも、カウティス用に小ぶりに焼かれてあった。

しかし、盆のパイの量が多い。

セイジェの所に持っていく為に、多めに用意されていた。

カウティスは、小さく息を吐く。

庭園に向かいたい気持ちを押さえて、セイジェの部屋の方へ歩き出した。

事情を聞いているエルドとユリナは、顔を見合わせたが、何も言わずに付いて行った。



セイジェの部屋の前で取次ぎを頼むと、暫くして扉が開かれる。

「兄上!」

待ちかねていた様子のセイジェが、満面の笑みで飛び付いて来た。

「待っていました」

カウティスは小さく息を呑んだ。



『午後にここで待っている』

ふいに、水の精霊の声が思い出された。



カウティスは、ギュッと両目を閉じると、抱きついているセイジェの身体を引き離した。

「すまない、セイジェ。急ぎ行かねばならない」

「え?」

「本当にすまない。夕食は共にしよう」

突然の事に、大きな目を見開いたセイジェをそのままに、カウティスは踵を返す。

後ろで名を呼ぶ声が聞こえたが、早足で立ち去る。


廊下の角を曲がると、エレイシア王妃と遭遇した。

「カウティス?」

「王妃様」

王妃の後ろに、茶菓子を持った侍女が見える。

「私も共にお茶をと思ったのですが、……セイジェの所に向かうのでは?」

優しい声で聞かれる。

「申し訳ありません!」

カウティスは素早く頭を下げると、護衛騎士を従えて走り去って行った。



王妃がセイジェの部屋に入ると、泣いているセイジェを乳母が宥めていた。

「母上。カウティス兄上が、急に何処かへ行ってしまわれたのです」

セイジェは母に抱きつく。

「まあ、そうでしたか」

王妃は、セイジェのふわふわな髪を撫でながら、困ったように眉を下げた。

「水の精霊が戻ったと報告がありました。きっとそちらに行きたかったのでしょう」

「水の精霊が?」

水の精霊が、王城を空けているのは聞いていた。

去年もそんなことがあったのを覚えている。


……そうだ、その頃から兄上が変わってきた。

セイジェは思い出した。

体術や剣術に明け暮れて、セイジェをあまり構ってくれなくなったのは、その頃からだ。

最近よく、午後の休憩で顔を見せてくれていたのに、水の精霊が帰ってきた途端、今日のような事が起きた。

「……水の精霊なんてキライだ」

蜂蜜色の瞳を曇らせて、セイジェは口の中で呟いた。




カウティスは階段を降りて、内庭園を通る。

水の季節の今は、大振りな花が咲き乱れ、庭園中が濃い花の香りで包まれていた。


その先の温室を横切る頃には、カウティスは全力で駆けていた。

大樹を過ぎ、花壇の小道を抜けると、泉が見える。


泉には、心なしか小さく見える水の精霊が、静かに佇んでいた。

「セルフィーネ!」

勢いよく泉の縁に手を付いて、上がった息のまま謝る。

「遅く、なった、、すまない……」

カウティスが俯いて息を整える間、水の精霊から何の反応もないことに気付いて、上を向く。


そこには、カウティスが見たこともない、心細そうな表情の水の精霊がいた。

「セルフィーネ?」

「……そなたは、来ないかと……」

伏せ気味の目に、長いまつ毛の影が落ちている。

「会いたいと思っていたのは、私だけだったのかと……」

「違う!」

カウティスが彼女に向かって右手を伸ばす。

その手は水の精霊に触れることなく、冷たい水に濡れた。

「ずっと待ってたんだ、セルフィーネが帰ってくるのを」

水の精霊の瞳が揺れた。

カウティスはこの四ヶ月、ずっと言いたかったことを、やっと口にする。

「会いたかったんだ、ずっと」



彼女がそっと一歩前に出て膝を折ると、カウティスの伸ばした右手が頬の辺りに届いた。

カウティスには冷たい水の感触しかなかったが、ふたりは暫くそのまま動かなかった。



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