帰還
水の季節の後期月になると、雨の日も多い。
ネイクーン王国では、既に毎日暑い日が続いている。
この位の雨らなば、逆に気持ちいいだろうと、カウティスは早朝鍛練に出た。
泉の庭園に来て、木剣を振るう。
水の精霊が姿を現さなくても、いつも通りのこの場所でないと落ち着かないのだ。
防水布で作られた雨よけの上着は、暑くて途中で脱いでしまった。
日の出の鐘が鳴る。
最後の一振りをしようとした時だった。
「ずぶ濡れではないか」
涼しい声と共に、小さく引っ張られるような感覚がした。
その一瞬で、カウティスの身体はすっかり乾いていた。
振り向くと、泉に水の精霊が立っている。
「セルフィーネ!」
カウティスは泉に駆け寄り、縁に手を付く。
水の精霊は、いつもと同じだ。
長いまつ毛の揺れる、紫水晶の瞳。
水色の細い髪はサラサラと揺れ、細く白い腕がドレスの襞で見え隠れしている。
水の精霊はカウティスを見下ろす。
「戻った」
「おかえり! いつ戻って来たのだ?」
「今だ」
前触れなく目の前に現れた水の精霊に、カウティスの鼓動が上がる。
水の精霊が、薄い唇を笑みの形にして言う。
「息災で何よりだ」
「それはこちらの台詞だ。無事で何よりだった」
カウティスは心底ホッとした様子で、息を吐く。
水の精霊は目を瞬いた。
「また、心配してくれたのか?」
「当然だろう」
カウティスは、当たり前のことを言うなと言わんばかりの顔だ。
「大変ではなかったか? 精霊でも、疲れたりはしないのか?」
カウティスは、泉の縁から身を乗り出して、真剣に水の精霊を上から下まで眺める。
そんなカウティスを見て、彼女は目を細めて、柔らかく微笑んだ。
一歩前に出てしゃがむと、カウティスの顔を覗き込む。
「疲れなどない」
カウティスは、頬に熱が上がるのを感じる。
セルフィーネは、何故そんなに嬉しそうなんだろう。
まるでオレに会いたかったみたいだ。
オレがセルフィーネに会いたくて、仕方なかったみたいに。
……聞いてみようか。
会いたかったのかって。
オレの顔を見たかったと、言ってくれるだろうか。
カウティスが、口を開こうとした時だった。
「申し訳ありません。お時間を過ぎております、王子」
ずぶ濡れの護衛騎士エルドが近付いて、膝を付く。
そして、泉に向かって頭を下げる。
「水の精霊様、ご無事のお戻り、何よりです」
雨の中の早朝鍛練に、エルドまで付き合わなくても良いと言ったのだが、彼は主人が雨の中にいるというのに、自分だけが濡れない所に居られないと、いつもの場所で待機していた。
水の精霊の帰還に喜ぶカウティスに、いつ声を掛けようか見守っていたようだった。
「不粋だが、忠臣だな」
水の精霊がエルドを見て呟く。
細く白い指をスイと上げると、エルドに向かって振った。
すると、エルドの身体が少し引っ張られるように揺れたと思うと、全身すっかり乾いている。
エルドは目を真ん丸にして、自分の身体を見回す。
「なんと! 私にまで温情を施して下さるとは! 感謝致します!」
水の精霊を拝まんばかりに感激するエルドを、カウティスは半眼で睨めつけて呟く。
「まったく、本当に不粋だ」
水の精霊は立ち上がる。
「王と朝食だろう。行ったほうが良い」
後ろ髪を引かれる気分だったが、確かに、もう行かなければ遅れてしまう。
「父上に報告は?」
「まだだ。後で良い」
水の精霊は言って、カウティスに微笑みかける。
「午後にここで待っている」
カウティスは笑顔で頷いた。
自室に戻って着替え、身なりを整えた。
朝食を摂るため、大食堂に向かう。
今朝の大食堂には、王と王妃、母のマレリィがいる。
エルノートがフルブレスカ魔法皇国の学園に入学したので、大食堂で食事をする子供はカウティスだけだ。
カウティスは早起きして剣術の鍛練をするので、朝食はいつもたくさん食べる。
「セイジェも、カウティスのように食べるようになると良いのですけど」
エレイシア王妃が、カウティスの食事を見て言った。
セイジェは相変わらず食が細い。
朝食は特に食べないらしい。
「セイジェも身体を動かす様になれば、お腹が空くのではないでしょうか」
カウティスが言う。
「それに、一緒に食事をすると、以前よりよく食べるようです」
王妃の笑顔が深まる。
「カウティスは、頼もしいお兄様ですね」
兄エルノートを目標にしているカウティスは、頼もしいと言われて嬉しくなった。
そうして王妃と、身体を動かす遊びなどの話をしていると、カウティスを見ていたマレリィが口を開いた。
「今朝は随分楽しそうですね。何か良いことでもありましたか?」
カウティスはドキリとした。
今朝、突然水の精霊に再会したことで、気もそぞろになっていたかもしれない。
王も興味ありげにこちらを見ている。
「いえ……今日は、製菓長がリグムパイを焼いてくれることになっていて……」
リグムはこの時期に採れる果実だ。
そのままでも食べられるが、加工して菓子に使われることが多い。
カウティスは、何とか今日楽しみなことを捻り出した。
水の精霊が、王への報告がまだだと言っていた。
彼女が戻って来たことは、まだ言わない方が良いだろうと思ったのだ。
「そなたは、本当に甘い物が好きですね」
マレリィが漆黒の瞳を細めて笑う。
エレイシア王妃も楽しそうに続ける。
「陛下にそっくりです。陛下も子供の頃、リグムが採れる頃を楽しみにしておりましたよ」
「今もだ」
王が言う。
王とエレイシア王妃は幼なじみだ。
子供の頃からよく一緒にいた。
「製菓長に、私のところにも茶菓子で出すように言っておいてくれ」
王の言葉に、給仕が笑顔で頷いた。
「セイジェ王子も、リグムパイなら食されるでしょう。カウティス、午後の休憩を共にしては?」
マレリィが提案した。
「は、はい……」
午後の休憩は、久し振りに庭園の泉に向かうつもりだった。
セイジェのところに行けば、ゆっくり水の精霊と会うことはできない。
歯切れの悪い返事に、皆が不思議そうにカウティスを見た。
「……できれば、そうします」
この場で、水の精霊に会いに行きたいとは言えなかった。
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