特別

宴の日の夜から、カウティスは珍しく熱を出した。

熱自体は翌日の夕方には引いたが、その次の日も、また次の日も、カウティスは部屋から出ようとはしなかった。





日の出の鐘が鳴る前。

風の季節も後期月に入ると、さすがにこの時間は薄暗い。


四日ぶりに訓練場に足を運んだカウティスは、いつもより軽めに身体を動かして、鍛練を終わりにした。

木剣を手に取ろうか迷って、やめる。

上っていた息を整えて、そのまま訓練場を出ようとした。


「王子、今日は泉まで走って行かれないのですか?」

いつもカウティスの走り込みに付き合う、護衛騎士のエルドが声を掛けた。

「……久し振りで疲れた。今日はやめておく」

「では、走らなくても泉で休憩して行かれては?」

カウティスは眉を寄せて、エルドを振り返る。

何か言いかけて、そのまま口を閉じた。

「部屋に帰る方が早い。戻る」

カウティスは早足に訓練場を後にする。

エルドは心配そうにカウティスを見つめていたが、黙って従った。




大食堂での朝食は明るく振る舞っていたカウティスだったが、午前の講義、その後に昼食と、時間が過ぎるごとに段々と元気がなくなってきた。


午後の勉学の時間を終えると、午後の二の鐘が鳴るまで休憩だ。

侍女のユリナが、銀の盆に焼き菓子を数種とナプキンを乗せて入って来た。

カウティスが毎日、菓子を持って泉に向かうので、いつしか侍女が、彼が持ち出しやすいような菓子を持って来るようになっていた。



カウティスは一つ口に運ぶと、それから立ち上がろうとしない。


エルドはカウティスに声を掛けた。

「王子、庭園に出られませんか」

「……行かない」

カウティスは固い表情で応える。

エルドは小さく息を吐いた。

「何故です? 水の精霊様に『嫌い』だとでも言われましたか?」

「言われてない!」

反射的にカウティスがエルドを振り返る。

「では『友達じゃない』とでも?」

「っ!」

カウティスの顔が歪んだ。


やはり、とエルドは思った。

エルドには水の精霊の姿も見えないし、声も聞こえない。

だがあの日、セイジェの言葉とカウティスの様子を見ていて、そういう会話だったのではと思っていた。


「行きましょう、王子。水の精霊様とお話しした方が良いと思います」

「うるさい!」

カウティスが、ガタンと音を立てて椅子から荒く立ち上がる。

部屋に戻る、とユリナに向かって言うと、扉に向かおうとする。



エルドはキュッと唇を引き結ぶと、カウティスの前に立ちはだかった。

「どけ」

「王子、水の精霊様とお話しするべきです。何か誤解があると思います」

「うるさい!」

カウティスがエルドを睨み上げた。


エルドは一拍置いて、何かを決意したようにカウティスの前にしゃがみ込むと、彼の両肩を握った。

「エルド様! いけません!」

ユリナが驚いて制止する。

護衛騎士といえど、非常時でなければ、許可なく王族の身に触れてはならない。

カウティスも突然のことに、目を見開いて目の前のエルドを見つめた。


「不敬だと罰を受けても構いません。ですが、どうかその前に、水の精霊様とお話を」

「……水の精霊は、オレのことなんて……」

「待っておられます」

真剣なエルドの表情に、カウティスは目を逸らすことができない。

「水の精霊様は、きっとカウティス王子を待っておられます」



そんなはずはないと思う反面、そうであったらどんなにいいかと思う。

でもあの時の、拒絶とも思える静かな声が、カウティスの頭から離れない。


『友達ではない』


カウティスはギュッと目を閉じる。

エルドはカウティスの肩を軽く揺さぶった。

「私には、王子がどのような精霊様の姿を見ているのか分かりません。声も聞こえません。ですが、泉に小さな水柱が見えます」

カウティスが泉に通う時、エルドは常に花壇の端に控えて見守ってきた。

「王子が泉におられる時、水柱はいつでも側にありました。それに、王子が笑っておられると、いつも小さく揺れるのです」

エルドは手に力を込める。

「私には、お二人が共に笑っておられる様に見えます」


カウティスはゆっくり目を開ける。

目の前に、真剣な表情のエルドの顔がある。

エルドはカウティスを見つめ、頷いた。

「水の精霊様は、きっと、カウティス王子を待っておられます」






冷たい風が、庭園の花壇を吹き抜けていく。

風の音と噴水の水音だけが聞こえる泉で、水の精霊はただ王城を見つめて立っていた。



花壇の小道から足音が聞こえて、水の精霊はそちらを見る。

小道から姿を現したのは、視線を下に落としたカウティスだった。


カウティスは、泉より数歩離れた位置で足を止めた。

「もう具合いは良くなったのか?」

「……もう良くなった」

いつもと変わらない調子で、水の精霊が声を掛けた。

カウティスが部屋に籠もっていたことなど、水の精霊はすっかりお見通しのようだ。


「元気になったなら、何故来ない。鍛練を休みすぎると鈍ってしまうぞ」

何事もなかったかのような、水の精霊の変わらない様子に、カウティスは眉を寄せる。

「うるさい」

思わず口から出た。

「そなたには関係ないだろう」

「何を怒っている」

水の精霊は小さく首を傾げる。

「怒ってない」

「怒っていることくらい、私にも分かる」

「友達じゃないんだから、どうでもいいだろう!」

カウティスは水の精霊を睨んで吐き捨てた。

小さな子どものようだと、頭の隅で声がする。

情けない。

恥ずかしい。

でも、もう止められなかった。


水の精霊はカウティスを見つめて、より首を傾げた。

「友達ではない……」

「そうだ! あの時、はっきり言っただろう!」

一度吐き出すと、胸に詰まったままだったものが溢れ出す。

「ずっと友達だと思ってたんだ! でもオレだけだったんだ」

カウティスは胸の辺りを握り締める。

水の精霊は首を傾げたまま、サラサラと髪を揺らしている。


この気持ちは、涼しい顔をしたままの、水の精霊に届かないような気がした。

カウティスは唇を噛んで、視線を落とした。

「オレだけだったんだ、大事だと思っていたのは……」

ずっとずっと、水の精霊との時間は自分だけのもので、彼女もそれを大事にしてくれているのだと思っていた。

そうであったらいいと。

そうであって欲しいと。



「王族は、私の契約のあるじだ」

水の精霊は言う。

「友達とは、同等のものとして交わっている関係だろう。私とそなたは友達には成り得ない」

頭上から降ってくる静かな声に、カウティスは血の気が下がるのを感じた。


やはり来るのではなかった。

両手を握り締めて、キツく目を閉じる

「そなたは、“友達”ではない」

もういい、やめてくれと、言おうとした。



「そなたは、“特別”だ」



カウティスは下を向いたまま、目を開けた。

白い石畳を見つめたまま、数度瞬く。

「そなたは毎日ここへ来て、私を呼んでくれる」

水の精霊の、静かな声が降ってくる。

「私の役割に関係のないことを、話して聞かせてくれる」

サラサラと水の流れる柔らかい音がする。

「側にきて、笑ってくれる」

カウティスが、ゆっくりと顔を上げる。

水の精霊は、泉の縁ギリギリの所にしゃがんで、身を乗り出すようにしていた。

長い水色の髪先が、カウティスの鼻先に揺れる。


彼女は白い指先を伸ばし、カウティスの後ろを差した。

カウティスが振り向いて、その指の差す方を見る。

風の季節だというのに、美しく咲いた小振りの花々が可憐に揺れていた。

奥の大樹から木漏れ陽が差し、輝いている。


今まで水の精霊が見ていた景色は、泉を囲むように咲いている花壇の花々と、その向こうにある高い生垣や大樹。

そして、その越えられない大きな壁のような物の、向こうに見える王城だった。

水の精霊はこの国に必要とされている。

けれども、壁の向こうに見える人間の住む場所は、“お前は必要とされていても、決して同じ所には居られないのだ”と言われているようだった。


「この景色も、そなたがくれた」

いつも立っていた場所から、一歩進み出て座れば、大樹に隠れて王城は見えなくなった。

周囲は美しい花々と揺れる木々だけ。

そして、隣にカウティスがいて、笑っている。

それがどれ程嬉しかったか。


カウティスが、そっと水の精霊の方を向く。

水の精霊はカウティスを見つめていた。

「そなたは私に、与えてばかりだ」

紫水晶の瞳が、微かに揺れる。

「そなたは、私の“友達”ではない。そなたは、私の“特別”だ」



――――特別。


カウティスの頬が紅潮する。


自分だけではなかった。

この関係を大事にしているのは、自分だけでは……。


鼻の奥がツンとして、涙が滲みそうになるのを必死に堪えた。

これ以上、水の精霊に子供のようなところを見せたくなかった。

水の精霊が言う。

「そなたはすぐ赤くなる」

「う、うるさい」

辛うじて出せた言葉は、そんなものだったが、水の精霊は薄く微笑んだ。



「セルフィーネ」

カウティスはあらためて彼女を呼ぶ。

彼女の揺れる紫水晶の瞳を見つめ、まっすぐに言う。

「セルフィーネ、オレも……そなただけが、オレの“特別”だ」


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