第二十八話 荒くれ者ども

「がーっはっはっは!」

「おい、もっと食い物を持ってこい!」


 通りの反対側にある喫茶『銀』からでも酔客らしい連中の陽気な声が聴こえてくる。


 からん。


 スイングドアにぶら下げたカウベルが鳴るのと同時に喧騒けんそうが遠ざかると、銀次郎はあきれたように首を振ってカウンターの中へと戻った。


「ん? どうしたのさ、ギンジロー?」


 シーノである。

 両手で大事そうに抱えたコーヒーカップのへりから上目づかいで尋ねる。


 銀次郎は肩をすくめた。


「いや……なんでもねえ。なんでもねえさ」

「? ……あー、あの大騒ぎね。いつもこんな調子よ、フレイの日になるとね」

「ゴードンの店は酒も出すんだな」

「? そりゃそうよ! お酒の一本も置いてない食堂だなんて、それこそくたくたになって踊りを止めちゃったフレイみたいなものだし」

「ふむ」


 もっともらしく頷いてみせたが、銀次郎相手にはまるで通じていないことはシーノも承知の上だ。シーノはもうひと口珈琲に口をつけてから立ち上がると、いつもとは違う実に女らしいしなを作りながら流れるような舞を踊ってみせた。


「フレイってのはね、ギンジロー?」


 シーノの赤々とした髪が揺らめく炎のように見えて、実に美しい。

 思わず感心して見惚れるほどだった。


「戦争と勝利の女神なのよ。もっとも勇敢な戦士の血が流れると、戦場に降りてきて歓喜の舞を踊るって言い伝えられているの。冒険者や城を守る兵士にとっては、縁起の良い守護女神様」


 最後に、しゃん、とシーノがポーズを決めると、居室へつながる三和土たたきに置かれた専用椅子のクッションに埋もれるようにして見つめていたシオンが、きゃっきゃっ、と喜び手を叩いた。


「あら! これはこれはちっちゃなお嬢様! 盛大なる拍手をおありがとうござい!」

「いやいや。こいつはえれえモンだ。ただで見るなんざありがた勿体もったいねえな。見違えた」


 遅ればせながら、銀次郎も大真面目な顔で分厚い手を打ち鳴らした。たちまち照れたシーノは頬を真っ赤に染めた。照れ隠しか、手近にあった布巾ふきんを投げつける。


「いやだ! からかってるんでしょ? もう!」

「からかったりなんざするもんか。生い先短え年寄りにゃ、嘘をつく時間さえ勿体ねえんだよ」

「また、そんなこと言って……ありがとね。嬉しい……」

「そうだ。じじいの言うことは素直に受け取って、素直に喜んどきゃ間違いねえ」


 銀次郎は手元の布巾を丁寧に畳み直すと、ついでとばかりにカウンターを拭きはじめる。


 きゅっ、きゅっ。


 その姿をにんまりと笑顔を浮かべたシーノが静かに見つめている時だった。




「――っ! ――だ! ――っは!」


 やたら威勢のいい声が近づいてきたかと思うと、いきなりスイングドアが乱暴に開けられた。


 がらがらん!!。




「おーい! っく。スミルー? ここかぁー? どこだぁー?」

「ちょ――!」


 ひときわ大きな身体をした不精ぶしょうひげが浮く真っ赤な顔の男が、スイングドアにもたれかかるように立っている。そして、その取り巻きもご同様に真っ赤――というよりむしろ、赤黒いほどしたたかに酔っているらしい。そしてひとりだけ生白い顔をした、見慣れた兵士の姿が見えた。


「す、すみません……ギンジローさん……」


 銀次郎と目が合って、生白いのがたちまち青白くなる。


「し、静かに願いますよ! お、お願いですから! います、スミルはここにいますって!」

「おお! いたなスミル! ひょろひょろのお前さんだが、今夜はやけににょろにょろだな!」


 泥酔状態の大男はそんな妙なことを口走ったかと思うと、目の焦点を合わせようとぶんぶんと何度も首を振りつつ、目をしぱしぱとまたたかせた。ゆらりゆらり、と始終しじゅう身体が揺れている。


「おい! 爺さん! っく。この店のとっときを出してみろ、このトット様が味見してやる!」


 銀次郎は呆れたように首を振り、カウンター越しにガラスのコップを、こん、と置く。


「な――なんだぁ? ず、ずいぶん透明なアレだな? スミルに聞いた話と違うじゃねえか?」

「そいつは水だ」


 銀次郎は泥酔した大男、トットの据わった赤い眼から視線を反らすことなくやんわりと言う。


「お客さん、あんたぁ飲み過ぎだ。おんなじ飲むんなら、そいつにしときな」

「なんだとぅ!!」


 トットはまだゆらゆらと絶妙なバランス感覚で揺れながら、目の前のコップを乱暴に手の甲で弾き飛ばした。滑っていった先に運良くいたシーノが、慌ててそれをキャッチする。


「おうおう! っく。このひょろひょろには出せても、俺様には出せないっていうのかよぅ!」


 ばあん!!


 酔いのせいで加減が利かないのか、もはやその分厚い手刀で叩き割るかの勢いでトットがカウンターを思いっきり叩いたものだから、店全体がびりびりと震えた。


「……俺ぁな?」


 それを見た銀次郎の白い眉が、ひくり、とうごめいた。


「御大層に客を選んだりはしねえ。おいでいただけるだけでありがてえ、そう思ってるからな」

「じゃ、じゃあ! なんで出しやがらねえ!?」

「大事な大事なお客だからこそ、そんときいっとう入用いりような品を出す。それが俺の流儀でな――」


 銀次郎はそうこたえ、再びトットの前になみなみ注いだ水を、とん、と置く。


「――悪ぃが、今のあんたにゃこれで充分だよ。味もへったくれもねえほど酔っぱらってらっしゃるじゃねえか。それじゃあ、水だか珈琲だかも分かりゃしねえ。……これ飲んで帰りな」

「こんの! 爺っ! ふざけやがっ――!!」


 思わずかっとなったトットが手を振り上げ、再び手の甲でグラスを――。



 ぐっ。



 しかし、トットの手がグラスに触れた瞬間、銀次郎の手が上からグラスを押さえつけた。誰もがひやりとしたが、グラスは砕けもせずその場でぴたりと止まったまま微動だにしなかった。


「――っ!?」


 おお、と思わず感嘆の声が漏れ聞こえたが、当のトットの怒りはますます増した。蜂蜜酒ミードをたらふく飲んで、わずかに後退した頭の生え際まで真っ赤になった顔がどす黒くなる。


「……おい、爺さん、てめぇ良い度胸じゃねえか。俺様に恥をかかせたらどうなるか――!」

「店を荒らすのはやめてくれ。あんたが引っ叩いたグラスだって只じゃねえんだ」

「なら――これならどうだ!!」


 トットは手近にあった客のいないテーブルの端を引っ掴むと、酔いの回った加減なしの勢いで思いっきり手を振り上げてひっくり返した。どがらん! と音が響き、沈黙が立ち込める。


「う……ううう……ひっく……!」


 その目を覆いたくなる狼藉ろうぜきとけたたましい騒音を目のあたりにして、シオンが泣きべそをかきはじめた。銀次郎は震える吐息を長く深々と吐き漏らし、ゆっくりとカウンターから出た。


「……女子どもを泣かせるような奴ぁ、ロクなモンじゃねえ。この年寄りな、気が短えんだ」


 そして、ゆっくりと酔漢のトットの前に立ったのである。



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