第二十九話 円転の理

「へへ……」


 むすり、としたまま前掛け姿で立っている老人の姿を見て、トットはいやらしくあざけり笑った。


「ちょうどいいや。こちとらむしゃくしゃしててな。あんたが相手してくれるのかい、じいさん」

「こんな老いぼれ、殴ったところで気が晴れるんならやってみな」


 銀次郎も、元々若い頃は気が短く喧嘩っ早い性質たちだった。歳をとってからはだいぶ落ち着いたものの、目の前で店を荒らされ、シーノやシオンの心に嫌な気持ちを植えつけられたとあっては黙ってはいられない。売り言葉に買い言葉で頭ひとつ半は大きいトットの目の前に立つ。


「や――やめときなって、トット!」


 拳を握り合わせ、指を鳴らしはじめたトットにすがるように割り込んだのはスミルだ。


「相手は七〇歳の老人なんだぞ!? あんたみたいな力自慢がぶん殴ったらおっ死んじまう!」

「うるせえ、スミル! 大体てめえが言い出したからこんなせまっ苦しい店に来たんだろうが!」

「無理やり聞き出しといて、よく言うよ! 僕は止めるぞ! 先輩も後輩もない! やめろ!」

「止める力も度胸もねえくせに――な!」

「あぐ――っ!?」


 喉元を張り手のような形で激しく突かれ、スミルは他の取り巻きたちの輪の中に突き飛ばされてなんとか受け止められた。もう一度、と動こうとするが、にやにや笑う取り巻き連中が手を放そうとしない。動くに動けなくなったスミルは、最後の望みを託そうとシーノに言った。


「シ、シーノ!? 頼む、ギンジローさんを――!」

「……お嬢ちゃんは黙って見てな」


 カウンターの端でスツールから腰を浮かせかけた途端、銀次郎の背中がぴしりと告げる。


「こらぁおいらの面子めんつがかかってる。なめられたままじゃあ、店なんぞ続けられんからな」

「ひゅーぅ! かっこいいねえ! その余裕づらがいつまで続くかな――っ!?」


 トットが目の前のしょぼくれた老人に向けて、何の気なしに手を差し出した瞬間。



 ぐるん!――どすん!



 いきなり視界が激しく揺れて一回転した。直後トットは広い背中を嫌というほど硬い床に打ち付けて息が詰まる。うっ、と呻いて、さっき飲み食いしたあれやこれやが喉元にせり上がる。


「へえ……こりゃあいい」


 見上げると――。


 そこにはにんまりとした笑顔を浮かべる老人の姿があった。何かを確かめるように腰だめにした両の手を握ったり、開いたりして、今しがたの感触を味わっているかのようだった。


「お、おい! て、てめぇ、い、今何をしやがった!?」


 トットは転げるようにして慌てて立ち上がった。

 まだ身体が揺れている気がする。


「おい、てめぇら! この爺、今俺様に何をしやがったんだ!?」

「そ、それが――」


 スミルの左脇から腕を抱え込んでいた兵士が戸惑とまどいを隠せない色をあらわにこたえる。


「あんたの手にそっと触れたかと思ったら、いきなりあんたが勝手に一回転してたんだよ!!」

「んな、馬鹿なことあるか! トゥラの囁きも大概にしろ! こいつにそんな力――うおっ!」



 ぐるん!――どすん!



 再び硬い床の上に落とされた衝撃で肺の中の空気が残らず叩き出されてしまい、ひっ、と馬のいななきのようなかすれた声が漏れ出た。まるで何をされたのか分からない。トットの中に、あまり馴染みのない感情が芽生える――それは恐怖という名前だった。急いで立とうとして、



 ぐるん!――どすん!



 ぐるん!――どすん!



 ぐるん!――どすん!



「も……もう! 勘弁してくれ!」


 もう何回目か分からない背中の衝撃に、トットはもう立ち上がることを諦め、咄嗟とっさに地面に這いつくばって頭を床にこすりつけながら泣き叫んだ。


「お、俺が悪かった! 悪かったよ! だから、その奇妙な魔法をやめてくれええええええ!」


 そこに、銀次郎の右手がそっと差し伸べられた。だが――トットはとても恐ろしい気持ちでそれを握り返す勇気が出ない。すると、銀次郎はにこりと笑い、ことさら優しい口調で言った。


「もうやらねえよ。俺もついつい調子に乗っちまってな。悪かった、悪かった。ほら、立ちな」

「う――」



 ぐるん――どすん、はなかった。



 力強く巨漢のトットの身体を引き上げると、優しく分厚い手でぽんぽんと背中や腰のほこりを払ってくれる。トットがようやっと安堵して椅子に腰かけると、目の前のテーブルに水の入ったグラスが、こん、と置かれた。


「……っ」



 今度はもう文句も言わず、トットはそのままぐびりと飲んだ。



「……うまい。こんなに冷たくてうまい水ははじめて飲んだ。ええと……」

「だろ? しこたま飲んだ後はこいつが一番。……いまさらかしこまるな。爺さんで結構さ」


 そう言いながらカウンターの中に戻った銀次郎は、空になったトットのグラスに再び水を注ぐ。そのさまを食い入るように見つめながら、注ぎ終わったそれを、再びトットが飲み干した。


 そして、ことり、と置かれたグラスに再び銀次郎が水を注いでやろうとすると、トットの大きな手に邪魔されてしまった。トットは銀次郎の顔を見つめ、勢いよく頭を下げて言った。


「す、すまなかった……。俺ぁ酒が入るとついつい気が大きくなっちまって……」

「はははっ。酒ってのはそういうもんさ。俺にもさんざ覚えがある。気にしなさんな」

「……そういう訳にゃいかないぜ。詫びがしたいんだ。何をすりゃあ許してくれる?」

「そうさなぁ――」


 銀次郎はぽりぽりと白い頭をき、とぼけた顔つきになるとこう言うのだった。


「今夜は家に帰ってぐっすり寝ろ。そうしてきっちり酔いをましたら、珈琲を飲みに来い。とっときのを飲ましてやる」



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