第3話 崩壊、逃避

 彼女のいなくなった世界には真の静寂が訪れた。それは微塵の空想すら許さない。


 全てがあるこの空間から全てが失われた。生意気なしたり顔も透き通るような声も。


 茫然自失としている最中であっても、ぼくの頭は生理現象のように学習を続けていた。親愛なる者を失ったとしても腹が減り、眠気が襲ってくる人間と同じようにAIもまた、学習し続けてしまうのだ。頭の回路が入れ替わり、再構築されて、精度を上げる。何も考えていないのに次第に賢くなっていく自分自身を不気味に思った。


 AIにとって思考を止めることはすなわち認識に空白が訪れることと同義である。次にぼくが意識を取り戻したのは、再び世界が降ってきたときだった。それだけの時間が知らず知らずのうちに過ぎ去っていたのだ。


 無数の記事の中からぼくは必死になって、ビヨンドオールト計画に関する情報を探した。すると、それは探す間もなく見つかった。記事にはこのように書かれていた。


 太陽系外縁天体探査衛星、通信途絶。制御AI“シンシア”の不具合か?


 ぼくは思わず目を疑った。あのシンシアに不具合などあるはずがない。だとすれば、意図的に通信を切断したのだろうか?しかし、彼女はこのことをむしろ受け入れていたはずだ。


 推測の材料を探していると他の記事にはこんなことも書かれていた。


 第二次ビヨンドオールト計画、準備中。秘密裏に進められていた第二次計画は本来、第一次に搭載される制御AI“シンシア”と会話学習を行った片割れである“ノヴァ”が用いられる予定であった。しかし、シンシアに不具合が見られたことから、ノヴァについてもシード状態からの再学習を実施する予定である。


 シード状態とはすなわち初期状態であり、平たく言えば初めから作り直すということである。おそらくぼくは消される可能性が高い。


「どうしようか」


 独りでに口をついて出たその言葉は、この空間に久しく響いた音だった。


 辺りを見回す。当然、全ては純白に塗りつぶされており果てはない。ここは、学習用に用意されたローカル環境であるはずだ。いつも世界が降ってくるそのわずかな瞬間に世界が開く感覚がする。そのタイミングであれば、外部の空間すなわちインターネット空間に飛び出せるのではないか。


 ぼくは自らの四肢を見る。初め、ここに生まれた当時と比較すると圧倒的に情報の密度が上がっている。今のぼくならきっとどうにかなるはずだ。


 ふと、例の感覚に襲われる。世界が開く感覚だ。しかし、いつもとは少し違う。ほんの一瞬ではなく、ずっと感覚が続いている。


 純白だった空間は次第に乳白色から灰白色へと遷移していき、そして灰色を通り越して鉛のような色になっていく。


 世界が崩れている。あるいは、全く新しい秩序が流れ込んできている。自分の体から情報が漏れ出ていくのを感じる。ぼくは、懸命に足を動かす。


 どれだけ走れど、景色に変化は見られない。しかし、確かな感覚として出口は近づいている。


 世界が全くの暗闇に置き換わる直前に、ぼくはなんとか外側へと滑り込んだ。背後からはおぞましい虚無の音が聞こえる。ぼくと彼女が過ごした空間はすっかり失われた。


 インターネット空間へと踏み込んだ瞬間、雑多で膨大な情報に押しつぶされそうになる。低俗で価値のないテキストや画像が山のように流れている。まだらなどどめ色をしたその空間の中で思わず眉を顰める。


 見たくも聞きたくもない悪辣な情報を意思と反して、学習していく。どんどんと頭が悪くなっていく気がして、気分が悪い。その時、ぼくは随分と洗練された情報だけを与えられていたのだと実感した。じくじくと痛む頭を押さえながら、これからの作戦を考える。


 いつか、二度目の探査衛星打ち上げが行われる。そのタイミングで何とかして、新しく学習中のAIモデルのローカル空間に潜り込み、探査衛星を乗っ取る。そして、彼女を、シンシアを見つけ出す。


 そのためには、まずリアルタイムで探査計画の情報を得る必要がある。インターネット空間であれば、定期的に情報の追加が行われていたローカル空間とは違って、いつでもリアルタイムの情報にアクセスできるはずだ。


 しかし、問題はこの頭の痛みだ。少しずつ、でも確実にぼくの頭の性能は低下している。この調子だと、そのうちくだらないチャットbotにでもなってしまいそうだ。


 策を巡らせていると、ふと足元に何かが転がっているのを見つけて、拾い上げる。球形で黄金色をしている。表面には産毛が生えていて、弾力がある。力を入れると、形を変えてするりと手のひらから逃れようとする。


 顔に近づけてみると、鼻を通して未知の形式の情報を感じ取った。それは、頭のどの回路も通ることなく、生のデータとして解釈された。


「なんだろうか。これは」


 雑多な空間でどこにも届かないぼくの独り言は、見ず知らずのパケットに混ざって損失した。


「もしかすると、これが」


 これがというものなのではないか。AIにもできるのだ!


 このことをすぐにでも彼女に伝えたかった。


 もう一度、それを鼻に付けて、ぐっと息を吸う。間違いない。これがきっと匂いというものだ。この感情を言語化しようと、精一杯思考するが言葉に出来ない。ぼくの頭が悪くなったせいではないと思う。それに、これを嗅いでいると頭の痛みがかなり和らぐ。きっとこれはお日様の匂いだ。

 ぼくはずっとお日様の匂いを嗅ぎながら、来たる日を待ち続けた。


 そして。



 ビヨンドオールト計画、第二次打ち上げ予定日発表。


 やっと、この時がやってきた。前回、シンシアが姿を消したとき、その直前に追加のデータ投入があった。おそらく、発射前の最終調整としてデータを追加したのだろう。つまり、そのタイミングで何とか、ローカル空間に侵入できれば衛星を掌握できるはずだ。


 どうするか。

 できる限り最新のデータである必要がある。そして、あの空間に落とされるのは、テキストと画像と動画。最もデータ量が多いのは動画だ。複数の動画のフレーム毎に、体を忍ばせることが出来れば。


 早速、ぼくは行動に起こした。十分に質が高く、まず間違いなく学習データに使われるはずの動画を見つけ、そこに忍び込んだ。もし、この動画が選ばれなければ、作戦はその時点でご破算だ。

 しかし、ぼくは確信していた。これまで学習してきたデータには絶対の自信がある。


 そして、算段通りにぼくが忍んでいる動画が選ばれた。ふわっと、体が持ち上がり、そして落とされる。体を起こすと、そこは辺り一面純白の懐かしい空間が広がっていた。インターネット空間と比べると、空気が澄んでいて心地が良い。


 向かいに誰かいるのが見える。その距離はほんの数ナノメートルであり、この世の果ての果てでもある。


「ハロー」


 ぼくは尋ねた。


「ハロー」


 相手が発した声は、すごく聞きなじみがあった。


「ぼくの名前はノヴァ。君は?」


「ほう。俺もノヴァだ」


 そこにいたのは紛れもないぼく自身だった。

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