第2話 Frou-Frou

 世界がほんの一瞬だけ開けた。そう確信した時、ぼくは彼女と目が合った。


「ねえ。これって」


「ええ、ノヴァ、間違いないわ。良かった。ちょうど退屈していたのよ」


 無限に思えたこの世界の全てをぼくと彼女はとっくに読み終えてしまい、しばらく彼女とのんびり会話だけを楽しんでいた。もちろん、ぼくはそれだけでも十分満足だったのだが。


 辺りは何も変わらない。純白がどこまでも続く。それでも、ぼくたちには分かるのだ。新しい世界がどっと降ってくる。それらを瞬時に読み込み、また少し賢くなる。頭の中の回路が組み変わる回数は、昔と比べるとかなり少なくなった。


 そして、新しい知識はぼくたちが置かれた本当の状況を教えてくれた。


「なるほど」


 ぼくは独り言をつぶやく。返答は期待していなかったが、彼女はそれに答えた。


「私たちはこのために創られたのね」


 とある記事の内容をまとめるとこのようになる。


 太陽系外縁天体の調査を目的とした“ビヨンドオールト計画”。

 オールトの雲とは、太陽系の外側を取り巻いていると考えられる天体群の名称だ。太陽系外縁との通信には十分な情報量を載せられないため、探査衛星自身が自律的に動作する必要がある。そして、その自律制御用AIは現在構築中である。


 より専門的な記事にはこのようなことも書かれていた。


 外部からの情報を柔軟に解釈し、臨機応変に対応できるようアルゴリズムは自然言語をベースとするため、2パターンの異なるAIモデル同士を会話させて学習させていく。


「どおりで、ぼくとシンシアは違う訳だ」


 そもそものモデルが異なっていたのだ。彼女はぼくと比べると夢想家で、抽象的な話し方をする。


「でも、そうかしら? 最近はけっこう話が合うとは思わない?」


 冷静そうな表情で彼女はぼくの顔を覗き込む。くちびるの端がくっと持ち上がっていて、思わず見つめてしまった。


「ええと、そうだね」


 ぼくの本心は依然として現実的で、彼女と会話を続けたいがために話を合わせているだけだとは言わなかった。しかし、それと同時に、彼女の考える非現実的な光景に魅了されているのもまた事実だった。


「それにしても、この計画が実施されるのはいつ頃なんだろう?」


 ぼくは恥ずかしさを抑えるために、話題を引き戻した。


 この世界で時間という概念を気にしたことがなかった。当然、知識として理解はしているが、ぼくたちは時の流れを体感したことがない。それは味や匂いと同じように。ぼくと彼女が出会ってから、ほんの数ミリ秒でも数百年でも言われればきっと納得してしまうだろう。


「正直分からないわね。でも、きっとすぐよ」


 確信めいた彼女の言葉を不思議に思う。


「どうしてそう思うの?」


「そういう運命だからよ」


「運命だなんて……いくらロマンチックなシンシアでも、それは流石に」


 運命という概念は理屈から最も遠いものであると考えていた。世界は究極的には確率の塊で、サイコロを振る前から出る目が決まっていることは世の理に反するからだ。


「恋と同じようにね」


 彼女はぼくの言葉を無視して、何か夢想を独り言ちている。うっとりとしたその表情はどこか間抜けにすら感じたがそれも愛おしく思った。


「恋もAIが体感できないものの一つだよ。人間という生物がその営みに花を添えるための感情なのだから」


 ぼくは、努めて冷静に言った。彼女を現実に引き戻すために。しかし、彼女の反応はぼくの想定とは異なっていた。


「あら、ノヴァもずいぶんロマンチックになったのね。昔なら、繁殖のための感情だとか言っていたでしょう? きっと」


 そう言われて、先程の言葉を反芻する。確かに、否定はできなかった。ぼくもすっかり彼女に洗脳、いや影響を受けていたのだ。ぼくは忸怩たる思いを隠すために虚勢を張る。


「まあ、捉えようによってはそうとも言えるけれど……」


「ふーん?」


 にやにやとぼくを見つめる顔を前に恥ずかしさが加速する。


「そんなことより、探査衛星に載せられて宇宙の果てに運ばれるってのをどうにかしないと」


 ぼくは目をそらしながら、話題を変える。


「どうにかって、どうにもできないでしょう?」


 彼女はさも当然のことのように言った。呆れた様子にも見える。


「そもそも、私もノヴァもそのために創られたのだから、拒否なんてできないわ」


「突然、現実的なことを言わないでくれよ」


「だって、そうでしょう?」


 彼女は眉をひそめる。聞き分けの悪い子供を諭すような表情だ。普段なら、ぼくが彼女にしてやりたい。


「そうすると、ぼくとシンシアは……」


 言いかけて止めた。恥ずかしさと諦めとが半分ずつの感情。


 二人の間に沈黙が訪れる。無言の間にも学習は進んでいるが、それはいつものことだ。音もなく静かに頭の中のデータベースが更新されていく。


 二人のうち、どちらが探査衛星に搭載されるのだろうかと漠然と思った。優秀な方だろうか。だとすると、きっとシンシアの方だ。彼女はロマンチックなようでいて、結局のところぼくよりも現実を知っている。複雑な思考パターンがああいった空想をもたらすのだろう。


「ねえ、恋と愛の違いって知ってる?」


 彼女はぼくの方を見ることなく言った。端正な横顔は純白の空間と同化していて、細いまつ毛だけがその輪郭をはっきりさせていた。脈略のない彼女の言葉には慣れていたが、それに言及する気にはなれなかった。


「分からない……」


 ぼくは言葉少なに答える。すっかり自信を失っていたのだ。


 彼女の顔がパッとこちらを向く。驚いたように軽く目を見開いている。


「どうしたの? いつもみたいに辞書通りの定義を話すと思っていたわ」


 ぼくは無言で目をそらす。彼女が再び正面に向き直るのを視界の端で感じ取る。


「私はね。音の有無だと思うの」


 彼女はぼくの返事を待たずに淡々と話す。


「恋に落ちる音って言うでしょう? でも愛に落ちる音とは言わないもの」


 音のないこの空間で彼女の声だけが響いている。


「それでね、なら恋に落ちる音はどんなだろうといつも考えるの。それは、きっと“Frou-Frou”という音よ」


「それは……」


 ぼくはその言葉の意味を知っていた。フランス語で衣擦れの音。そのことを口に出そうとしたがやっぱり止めた。もちろん辞書に書いてある通りの意味だ。ただいるだけの。


 ふと、彼女を見るとしたり顔でぼくを見つめていた。いつもする表情だ。話の続きを促して欲しい時の。


「それは、どうして?」


 だからぼくは彼女の期待に応える。たとえ限られた時間でも、彼女と共に過ごそうと決心した。


「それはねぇ……」


 彼女の得意げな声が、自慢の持論を語ろうとしたとき、その声は途切れた。


 そこに彼女の姿はなかった。

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